水戸街道と呼ばれる国道6号線を北上して行くと水戸を過ぎて日立、高萩を抜け北茨城市から県境の関を越えるといわき市に入り福島県となります。
平安時代から続く勿来(なこそ)の関です。
平潟港へ行く機会があったので少し寄り道をしてきました。
勿は「なかれ」という接頭辞ですから「来るなかれ」という意味の関ととれます。関東側から言った言葉なのか東北側からなのかは分かりませんが、
いずれにせよここが関東と東北の境だったことが窺い知れます。
関所跡には前九年の役で名を馳せた源義家の銅像が建っていて、その歌碑に彼が詠んだ有名な歌が刻まれています。
「吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな」
通釈としては“「来る勿れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ”となります。
八幡太郎とも呼ばれた武勇の義家は頼朝の曾祖父に当たる人で、東北の内戦だった前九年、後三年の役に臨む際にここを通って詠ったのでしょうか。
風のいたずらで見事な山桜の花が散っていく残念さを勿来の関にかけて詠んだ秀歌となっています。
地元いわき市などでは小学生の頃よりこの歌を素読し暗誦させられるといいます。
関跡にある記念文学館にも中世より多くの歌人に詠まれた関の歌が残されており、郷土を語るうえでなにやら羨ましい気がしますね。
また勿来から少し北側へ行ったいわき市には県内唯一の国宝となっている白水阿弥陀堂があり今回見る機会を得ました。
開基は平安時代後期に遡り、いわき地方の国主岩城則道に嫁いだ徳姫が夫亡き後菩提を弔うために建立したとされています。
徳姫は平泉の藤原清衡の娘といわれよほど平泉が恋しかったのか、この地の名前を泉の字を上下に分けて白水とし、付近一帯の名も平をとって平(たいら)としたといわれます。
そういえば阿弥陀堂の姿もどこか中尊寺金色堂に似ている感じがします。
軒反りを極力抑えた中世密教様式の三間方形屋根は支輪を持たない出組形式で軒を支え栩(とち)葺きで葺かれています。
明治期に台風で倒壊してしまい修復がなされたとはいえ、八百年の歳月を感じさせるに十分な風格を備えています。
内部は今でこそ彩色が消えて素地のままのように見えますが、脇にある天井の復元画を見ると往時の極彩色が想像できます。
四天柱で囲まれた内陣に置かれている阿弥陀如来のご本尊の脇には観音菩薩と勢至菩薩が置かれ、
その前には左右を守る多聞天と持国天が躍動感に満ちた精悍でリアリズム溢れた表情で立っています。
願成寺という寺院境内にあって周囲を浄土庭園に囲まれ、夏には蓮の池に浮かぶように中之島に建つ阿弥陀堂は太鼓橋など二つの木橋を渡った最奥部にあります。
背後に経塚山が控えこの種の仏殿の立地にしては珍しく平地に建っていることが特徴的で、駐車場からのアクセスに高低差を感ずることはありません。
徳姫も含め平安人が当時こんな仏教浄土を思い描いていたことが想像され興味をそそります。死を恐れながらも死後は極楽浄土にて往生したい、
そしてそれを想像するにたる一種の非合理が許された時代を返って幸福な人間の時代と呼べるのではないかと考えたりします。
そうでなければこんな表情豊かな仏像群や美しい浄土庭園を創造できようはずはありません。
冬の二月でしたので平潟港では季節料理の鮟鱇を使ったどぶ汁鍋を食することもできました。
漁師のまかない料理だったであろうことが想像できますが、どの部位も食することのできるこの時期の鮟鱇はなかなかの旨味です。
勿来を出て少し海岸沿いに行くと五浦の海岸に出ます。ここは「日本の渚100選」にも選ばれるくらいの景勝地ですが、
岡倉天心一派の移り住んだ日本美術院跡地としても有名です。3・11で流されてしまった六角堂もすっかり再建されて元の風景のように見えます。
天心や大観もここから太平洋を眺めながら魚釣りに興じていたのでしょうか。
あの東日本大震災から6年が経ち、五浦海岸から見る紺碧の海はいつもの平穏さを保っているように見えます。
美しい風景と海の幸や糧を享受しつつも、あるとき牙をむいたように災害となって押し寄せる自然。
平安人が持っていた死への怖れと同じように自然への畏怖を現代人も持ち続けなければいけないように感じます。
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