明けましておめでとうございます。
アメリカにトランプ大統領が就任し欧州でもトップの選挙が控え、何やら内向きで保護主義的な人たちが主流をなしそうな空気が出ています。
国内でも地方選挙があまた予定されるほか衆議院選も噂されて喧しい1年となりそうです。
時代は少しずつ確実に変化をしていっています。私たちもその変化をおそれずにアンテナをいつも以上に高くしていかねばなりませんね。
そんな年の初めに、3日ほど奈良を訪ねました。平城京の古建築を見るのも久しぶりで、東大寺や興福寺などでは多くの人出でにぎわっていました。
東大寺では中門の屋根葺き替えが、興福寺では金堂が再建されています。
特に後者の金堂は新築で平成30年完成と書かれていましたから来年中には出来上がる予定なので今から楽しみです。
その後少し南へ足を延ばして初めて「飛鳥」の地を訪ねることが出来ました。奈良市内からは車で1時間足らずで着くことができます。
古墳時代から下って奈良時代の前にあった飛鳥時代に、その中心として飛鳥板蓋宮が置かれた場所として知られているところです。
年表を追ってみると飛鳥時代は110年ほど続き、奈良時代の70年より長かったことに改めて意外な思いを抱きます。
蘇我氏や聖徳太子、中大兄皇子などかつて教科書に出てきた古代の人たちの活躍した場として万葉集などと共にロマンを掻き立てられます。
そのほぼ中央に甘樫丘(あまかしのおか)という標高148mの小高い丘があります。かつて権勢をふるった蘇我蝦夷・入鹿の父子が豪壮な大邸宅を構えた場所でもありますが、
今は丘全体が歴史公園になっていて頂上に登るとかつて藤原宮があった奈良盆地南部とそれを取り囲むように大和三山が見渡せます。 持統天皇が詠った
「春過ぎて 夏来たるらし 白たえの 衣干したり 天香久山」
の和歌に出てくる天香久山(あまのかぐやま)をはじめ、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)が一望できますが、
いずれも200mにも満たない山というより丘に近い三山です。
蘇我蝦夷・入鹿はこの高い場所からいつもこの盆地と三山を見下ろしていたのでしょうか。蘇我氏四代と言われ、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続きましたが、
天皇に取って代わろうとするような入鹿の余りの専横が反感を買い、宮中で中大兄皇子と中臣鎌足らによって暗殺されるという「乙巳(いっし)の変」がおきます。
その時の刎ねた首が今の飛鳥寺まで飛んできたと云われ、そこには「蘇我入鹿の首塚」として五輪塔が建てられています。日本書紀の記述が正しければ、
まだ天皇という地位が奈良・平安時代のようには強固に確立されていなかった時代とはいえ、後世の藤原氏のように側近として輔弼していくようにはできなかったのか、
首塚の前で入鹿に問うてみたい気持ちでした。その五輪塔が建つ飛鳥寺は日本最古の寺と言われ、今でこそ小さな本堂ですが、
かつては法興寺と呼ばれ蘇我氏発願の寺院として五重塔を中心にした伽藍配置を持ち、法隆寺の三倍ほどの規模を持っていたと云われます。
仏教を積極的に取入れようとした蘇我氏は排仏派の物部氏との争いに勝利し、日本で初めての仏教寺院を創建するため百済から寺工や瓦博士などの技術者を招き、
20年の歳月をかけて築造されたことが書紀に伝わっています。
平安初期の建久7年に落雷により焼失しその後寺勢は衰えていきましたが、ご本尊のみが損傷を受けながらも残り「飛鳥大仏」として今も本堂に安置されています。
後年の補修跡が痛々しくわかるほどですが、見慣れた東大寺大仏などとは趣が違って法隆寺金堂の釈迦如来像にお顔の表情が似て少し大陸的にも見えます。
この周辺にはかつて飛鳥板蓋宮があり、入鹿の石室墳墓と言われる石舞台古墳や亀石や猿石など謎の石造物、高松塚古墳など名だたる名所名跡が近在に集中して点在しています。
昭和に入って歴史的風土保存地域に指定されて以来、新築などできない区域になってしまったが故に今はのどかな村落風景にしか見えませんが、
かつてここに日本の原点ともいうべき政治の中心が置かれ、
倭国から日本という国号に変わり律令制度など中央集権国家の祖型が作られた場所として歴史上重要な場所であることは疑い入れません。
朝鮮半島で起こった白村江の戦に百済と共に敗れた日本はその本土防衛のために都をここ飛鳥の地から近江・大津宮に遷都、
その後100年足らずの間に7回もの遷都を繰り返していきますが、その間に忘れ去られた飛鳥の土の下には1,300年前の悠久の歴史が埋もれたままです。
もう少し時間をかけてゆっくり廻れる日を待ちたいと思います。
良き酉年となりますように。
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