四月に続いて先代の手がけた堂宮を巡ってみました。
現在は太田市に組み込まれている旧薮塚本町にある「岡登霊神社」を今回は訪ねてみました。
この神社名の元は「岡登景能」(おかのぼり・かげよし、一部の資料では岡上とも)という江戸初期の寛文年間にこの地に赴任していた代官の名で、
この周辺に灌漑用水を開いたことで知られた人物です。太田市民憲章かるたにも「用水の歴史を伝える岡登」の読み札があってその功績を伝えています。
赤城山南麓には古渡良瀬川が乱流していたころの堆積地が大間々扇状地として広がっていますが、
この地域は河床だったため作物が育ちにくく江戸期まで長らく不毛の土地でした。
今でもこの辺でスイカが名産として作られているのも土地の水持ちが悪いことを示しています。
景能は今の埼玉県児玉出身の人で、養父の後を継ぐ形で幕府代官になり足尾の銅山奉行を兼ねていました。
寛文九年(1669年)に天領だったこの笠懸野に代官として赴任した景能は、
鹿之川という所に陣屋を設けて管内を調査・測量しその開発の許可を幕府から得ました。
当時すでに開けていた足尾鉱山街道沿いに山之神や大久保、六千石など現在の地名にも残る地区割りを設けて、
不毛の土地二〇五二町歩を開発して原八カ村を新設したといいます。更にこの地に水を引くべく大間々の渡良瀬川より岩盤を掘り抜いて取水口を設置し、
三俣分水により用水を二分割する難工事を進め笠懸野を潤す「岡登用水」を完成させました。約十年掛けて作った用水路は長さ二十四キロに渡り、
今の笠懸、薮塚、新田、赤堀、勢多東などの地域農業の源となっています。
地区農民は公の恩に報いるため、
宝暦二年(1752年)京都吉田神道家に運動を行い「顕信霊神」の神号を下付され祠を建立し「岡登霊社」としたと由緒板にあります。
この祠が老朽化したため建て直したのが昭和四十九年に新たに新設した今回の岡登霊神社なのです。
当時としても寺院でなく神社を新たに建て直すということは珍しく、
ましてや個人顕彰神社を全面的に新築するというのは異例なことと言わざるを得ません。
岡登用水である阿左見沼での競艇関係団体からの資金で賄われたことが添え書きされています。
境内は元々あった村の神明宮境内の奥に配置され、明神鳥居を入口に参道を進むと神門と玉垣によって神域が区画されています。
扉が開け放たれている神門をくぐると、左に手水舎を配置し正面に奥殿を併せ持つ社殿が鎮座する構成になっています。
手水舎も切妻形式ながら四方転びの柱に控え柱を持ち、手水鉢は自然石を繰り抜いて使っています。
社殿は流れ向拝を持つ二間社入母屋造りで二重軒、小口木唐草を下支えに千木・勝男木を備えた銅板葺きとなっていて、
小さい規模ながら神社建築としての細かな細工が各所に施されていて参考になることが多くあります。
施工当時高校生だったので覚えがありますが材料はすべて台湾桧が使われたと思います。
たしか中曾根元首相の実家である高崎の古久松木材から出してもらった材料だったと記憶しています。
加工していた会社工場内に入ると台湾桧の独特の香ばしい匂いがしたものでした。築四十年以上経っていますが、
組高欄など外部の雨に濡れる部分もいまだ腐朽した個所は見当たらず、油分の強い目詰まりのよい材料を使ったことが窺い知れます。
何回も台湾の製材所には通っていますが、今では台湾桧は国策で伐採が禁止されていて入手は困難です。
まだこの当時台湾桧が使えていたことに少しばかりの感慨を覚えます。
境内はよく手入れがされているようで平日行ったにもかかわらず掃除が行き届いていてきれいでした。
その後の景能は大いなる業績を残したにもかかわらず讒言により事業会計上の冤罪の罪を被り、
江戸登城中に自刃し五十余歳の生涯を閉じたと伝えられています。
景能の墓所はこことは別のみどり市にある黄檗宗の国瑞寺にあり、
県の指定史跡になっていますが、元々この寺院は景能公を開基として景能の没した貞享四年に創建されたものでした。
開山僧には萬福寺第四世の帰化僧独堪和尚が迎えられていますが、景能の土木技術は養父景親とこの独堪に学んだものが多かったと言われています。
この国瑞寺からすぐのところにある岩宿遺跡博物館の公園内には扇状地側を指差した岡登景能公の銅像が立っています。
三万年前には新人が石器文化を営んでいた狩猟採集の笠懸野扇状地を、
遙か後年灌漑用水で潤し実り豊かな稲穂のなびく地に変えた功績と幕府処断による自刃、
そして大正四年従五位に任じられての名誉回復と、毀誉褒貶に翻弄された生涯でしたが、
「そんなものなんとも思っていないよ!」とでも言いそうな風貌で銅像の景能は立っているように思えました。
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