前回に続いて信州のはなしになって恐縮ですが、上信越自動車道を長野平から北へ向かって進むと信濃町という町を最後に長野県が終わり新潟県に入ります。
東京にも慶応病院や創価学会本部などがある信濃町という場所がありますが、こちらは江戸時代の幕臣・永井信濃守尚政の屋敷があったことからその名が由来しているそうです。
長野の信濃町は新潟県高田平野へと出る北国街道沿いにある町で、周囲を名山に囲まれた妙高戸隠連山国立公園の一角にある風光明媚なところです。
現在は国道18号となっているこの街道は善光寺や佐渡金山へのルートとして整備され、参勤交代の道筋ともなって沿道には多くの宿が置かれており信濃町にも野尻宿がありました。
もう1本西の街道である塩の道としても有名な千国街道(ちくにかいどう)は大町を経て糸魚川に抜ける道筋で、
傍にそびえる北アルプスの名だたる百名山が目白押しで圧倒されますが、北国街道はそちらとは少し山々の形状が違って見えます。
おもにプレートの衝突により隆起した北アルプスは槍ヶ岳のような尖った峰々が雄々しく屏風のように連なっていますが、信濃町周辺の山々は火山活動によってできた単独峰が主で、
黒姫山、斑尾山、妙高山などの名峰が立ち並んでします。
一般に火山による地形のほうが溶岩流などによって川が堰き止められ湖や湿原などを生みやすく神秘的な地形を形成しやすいと云われます。
ここもその黒姫山や斑尾山の太古の噴火により堰き止められたといわれる野尻湖が青々とした水を湛えています。
その名は古くは信濃尻湖(しなのじりこ)と呼ばれたものが野尻湖に変化したものといわれ、
長野の天然湖としては諏訪湖に次ぐ大きさですが水深が38mもあり貯水量では諏訪湖を上回るといわれています。
昭和初期から避暑地として知られていましたが戦後間もない昭和23年にナウマンゾウの臼歯が地元住民により発見されたのを機に発掘調査が大々的に行われました。
その後ナウマンゾウ本体やシカなどの化石と共に尖頭器型石器や骨器が一緒に発見され、一気に3~5万年前の旧石器時代の人類との共存が立証されて話題を呼びました。
最後の氷河期が終わったとされているのが今から1万年ほど前と云われていますから、
厳寒の氷河時代にこの地でナウマンゾウやシカを狩猟して食料としていた我々の祖先が居たのです。
しかし乱獲がたたったのか現生人類が日本列島に渡来した2万年前に符丁を合わせるように絶滅したとされます。
ナウマンの名はこれを鑑定した明治期の帝大お雇いドイツ人教授の名に因みますが、
野尻湖畔にある「ナウマンゾウ博物館」入口には復元されたナウマンゾウの実物大レプリカが置かれ圧倒されます。
現在と比べて平均気温で7~8℃低かったという氷河期には野尻湖も全面結氷していたかも知れず、そこにこの大きなゾウがのし歩き、
それを槍を持った祖先が狩っている情景を想像します。
温暖化の影響なのか真冬でも凍ることが少なくなった現在の野尻湖からは考えられないことかもしれませんが、そう大昔のことでもないのです。
この信濃町は江戸期の俳人・小林一茶のふる里でもあり、江戸から帰京して後没するまでここを生活の基盤としていました。
柏原宿にある中農の長男として生まれたものの3歳に母と死別してからは、継母との確執や妻や子供との離別、死別などその生涯は苦難に満ちたものでした。
「我ときて遊べや親のない雀」や「これがまあ終のすみかか雪五尺」などの句に見られるように、北信濃での生活は孤独感に満ちたものだったようです。
この野尻湖を最後に北へ上がると新潟県に入り、スキー場草分けの地である赤倉、妙高高原に入って行きます。
風景の主役は何といっても2,454mの標高を持つ妙高山につきます。
あいにく頂のほうは雲がかかっていましたが、カルデラの中央に溶岩ドームによってできた円錐形の頂上部を持つ独特の山容は遠方からでも見まがうことはありません。
県境を挟んで長野県側には黒姫山が鎮座しその奥は戸隠山へと繋がっていきます。
C.W.ニコルさんが居を構えてからというものこの黒姫山麓はつとに有名になりましたが、ブナやコナラなどの森林が四季を通じて美しく、
年を重ねたらこういう所に住んでみたいと思わせるものがあります。
残暑の残る休日、涼を求めて北信濃に赴いてみましたが、黒姫山から見下ろす野尻湖の周辺の畑にはコスモスが満開を迎えて、清々しい風と共にそこには初秋の風景がありました。
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