長野県北東部、須坂市に珍しい版画専門の小さな美術館があります。
正式には須坂版画美術館・平塚運一(ひらつかうんいち)版画美術館といい、常設展示には地元の版画家小林朝治と松江出身の平塚運一の作品が並べられています。
樫木の断面側を使って彫る「小口木版」で知られる松江出身の平塚がこの須坂で展示されているのも奇異な感じがしますが、長野での版画教育に貢献があったようです。
その美術館で「畦地梅太郎(あぜちうめたろう)」の版画展が催されているというので出かけてみました。
須坂は上信越道長野東ICを降りれば車で10分足らずで着き、長野市、上田市、そして群馬県嬬恋村の山間部と接している位置にあります。
人口は5万人ほどですが、江戸時代は須坂藩の陣屋町だったらしく、
明治からは製糸業が栄えてその名残で多くの土蔵や大壁造りの商家が街並みに残され蔵の街としても知られています。
畦地梅太郎は愛媛県宇和島出身で昭和期に活躍した版画家ですが、山岳風景を題材とした木版画で有名です。
戦前に夏の軽井沢へ出かけた際、盛んに噴煙を上げる浅間山に魅了されたらしく、それ以降山を制作の主題に定めて多くの作品を発表してきました。
その作風はキュビズムにも通ずるような、抽象化した形をさらに単純化し平面的な張り絵のような表現で山岳風景や山男を多く描きました。
山岳雑誌の「岳人」の表紙を長きにわたって飾ったことでも知られています。
今回の展覧会のポスターに採用された「山男」も雪山をバックに「ヤッホー!」とでも叫んでいる髭顔で少し愛嬌のある山男の清々しい姿を中央に据えて可笑しみがあります。
木版画の多色摺りはその工程が煩雑な代わりに仕上げの色が美しく出て、見ためが奇麗です。
北信濃や志賀高原の美しい山々が迫るこの地にはよくマッチした企画展示のように思いました。
せっかく須坂まで来たので見どころを探して少し足を延ばしてみました。
上杉謙信公所縁と云われる等身大の不動明王が納められている「米子瀧山不動寺」は成田山、新潟菅谷と並んで三大不動尊と呼ばれているところで、
山間にある寺院にしては境内の伽藍は比較的新しく立派で、本堂はじめ唐破風の山門、鐘楼堂など参内が一通り整備されているところからしてその信仰の篤さが偲ばれます。
近在では「米子のお不動さん」として親しまれ、御利益があることからパワースポットとしても有名なようです。開山は古く、奈良時代に行基により開かれた古刹と伝えられています。
真言宗豊山派に属し奈良・長谷寺を本山とする密教寺院ですが、その山深い立地からして山岳修験道が元になっているように思われます。
謙信公の所縁とは、川中島の合戦の際この不動尊を本陣に祀り、公自ら戦勝祈願をしたことからそう呼ばれるようですが、
本堂の大棟には宗紋の「輪違い」と真田氏の「六文銭紋」が入れられているのが面白いですね。
この寺院の山号になっている「米子瀧山」の名が示すように、ここからさらに山に入ったところに「米子大瀑布」という滝があると聞きました。
標高1,600mのところに比高100mほどの断崖が1キロも続く岩肌に権現瀧と不動滝という二筋の大滝が85mの落差で落ちており、
その断崖の奥は群馬県嬬恋の四阿山に続いていると云います。是非行ってみたく道筋を調べましたが、不動寺から車で40分行ったところで車を降り、
後は徒歩で約1時間半と聞いてあっさり諦めました。何の準備もしてこない出で立ちでは少し無理な行程でした。
地元観光ポスターにあるその米子大瀑布の写真を見ながらどこかで見たことのある風景だと思ったら、
大河ドラマ「真田丸」のテーマ冒頭シーンに出てくるあの二筋の滝がこのモデルだったのですね。
ドラマでは瀧の上にさらに岩肌と城が見えるのはCG創作らしいですが、こんな隠れた景勝地がここにあったことを初めて知りました。
群馬県側との急峻な山間部を抱え、人口5万人規模の地方都市にあって、文化振興を発信して奮闘している須坂。雇用さえ確保できれば地方は残り、
ローカルからグローバルへの経済も変えられるという論もあります。国のやっている経済政策とはグローバル化した大手企業対象の政策であるにもかかわらず、
それが日本経済に占める割合は2~3割程度と云われ、残り7割のローカル経済は地方任せ。かつての藩時代のように独自の物産、経済自立、
教育というものができないものでしょうか。北信濃の美しい風景を見ながら、一極集中では決して魅力ある国にはならない、
と畦地の「山男」が叫んでいるような気がしてなりませんでした。
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