上越線の水上駅から少し山側に登ると谷川温泉という小さな温泉郷があります。
文字通り北側背面には上越国境の谷川岳が控え利根川の水源地の一つに数えられる場所ですが、そこに「天一美術館」という小さいながらも秀逸な美術館があります。
銀座の高級料亭「天一」を創業した矢吹勇雄氏が個人コレクションしたものをおもに展示しています。このみなかみ町谷川の地は矢吹氏が戦前から山荘として所有し、
戦中には家族を疎開させていたゆかりの地であったようです。梅雨の晴れ間に訪れたその美術館は狭い丘陵地に立地し、
下の駐車場からは急な階段を数十段上げっていくと正面に出るようなアプローチとなっています。
建築の設計は皇居新宮殿や八ヶ岳高原音楽堂などの作品で知られた吉村順三氏で、ここが彼の遺作と言われています。
高さをぎりぎりまで抑えた玄関からは背景の谷川岳が屋根越しに見える仕掛けになっています。外部の仕上げは腰壁部分を自然素材系の塗り壁で仕上げ、
上壁には黒塗装を施した杉板を縦に張っています。受付ホールには前庭が見えるようにソファーとテーブルが置かれ、見終わった方にはハーブティーが振る舞われます。
廊下はサッシ高さ一杯に天井高を抑えて木製の羽目板張り天井と花崗岩張りの床で構成され、その廊下を抜けるとトップライトが降りそそぎ開放的で明るい階段ホールになります。
そしてそこから見える風景が2階部分からの風景となって眼前に広がり、先ほどの玄関位置が階段ホールの2階部分と同レベルに設定されていることが分かります。
展示室は一転細いスポット照明のみの展示となり暗転。明るさに慣れた眼を展示絵画に集中せざる得なくなります。洋の東西を問わず安井曾太郎や佐伯祐三、
ピカソなどいくつもの有名画家による作品が置かれている中にあって、「麗子に会いに谷川温泉に行く」と、
まるで愛人に会いに行くかのようにまで例えられる岸田劉生の「麗子像」群が並び、目を惹きます。1階の山側の中庭に出ると谷川岳と対峙しながらも決して高さを競わず、
水と石と樹木による構成は建築と自然の融合を感じさせてくれます。
久々に建築の設計による醍醐味を味合わせてくれる美術館です。自然公園法第2種特別地域という高さや色などの規制が厳しい中にあって、与条件としての敷地と地形の読み込み、
それから導き出される軸線やアプローチ、平面計画と素材の選定、対象物との関係と機能から計算された矩計の高さ、そして照度、空気の流れ。
その一つ一つの意匠とディテールに吉村順三氏の熟練の技とその才が如何なく発揮された秀作だと感じました。目立たず、自然に溶け込んだ建築。
我々もこういう建築設計にあこがれてこの道を選んだのではないかと、思わず初心を思い起こしてくれるような示唆に富んだものでした。
美術館でハーブティーを戴いた後、折角来たので谷川岳天神平まで脚を延ばしてみました。若いころスキーで何度か来たことはありましたが好天の夏のシーズンは初めて。
ロープウェーとリフトを乗り継ぐと30分ほどで標高1,500mの天神峠に着きます。1,977mの谷川岳や朝日岳を背にその向こう側は新潟県、
反対側を望めば遠く関東平野を望み、赤城山、子持山、三峰山などの上毛の山々を俯瞰できます。
辺りにはニッコウキスゲやシラネアオイなどの高山植物の花が夏の日差しを受けて眩く、少しだけ残る谷間の雪渓を除けば厳しい冬の雪の情景をつい忘れてしまいそうです。
いつもは平野部からこの三国方面を望んでは雪で真っ白な谷川岳を見て雪国新潟に思いを馳せますが、
逆に県境から群馬方面を見下ろしてみると、からっ風だけが吹き付ける乾いた景色を想像し見方や考え方が変わってくるものです。
日本海から湿気を吸って三国山脈に降り積もった雪は、この谷川岳を境に裏日本ではムラを閉ざし、表日本では乾いた風を吹かせるものの冬の日差しは明るく、
夏になればよき水源となって海に注ぎます。風土が人間形成・文化を規定するという和辻哲郎的解釈に頷かざるを得ないような説得性のある風景を、
飽くことなく長い時間見続けていました。
|