源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際、その支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路が整備され、鎌倉街道と呼ばれる道筋が数多く作られました。
その中の主要道の一つに「上道(かみつみち)」と呼ばれる鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道があったそうです。
鎌倉時代後期、執権北条時宗がこの道沿いに武蔵野まで鷹狩りに出た際途中病に倒れ臥せっていたところ、その夜黄衣をまとった地蔵菩薩が夢枕に現れ丸薬を渡され、
翌朝目覚めたときには病が治っていたことから「地蔵菩薩のおかげである」と地蔵堂を建立した、と伝わります。
その上道で時宗が臥せったとされる地がかつての久米川という宿で、今は東京都東村山市の所在になっています。
そして建立したとされる地蔵堂が後に正福寺地蔵堂となって、現在東京都下で唯一国宝指定されている建物として残されています。
行ってみると東京でたった一つの国宝建築と聞いてさぞや近辺からの案内は分かりやすくなっているものと思いきや、大きな看板も見ることなく、
車のナビを頼りに住宅地の細い路地を巡っての道案内は拍子抜けでした。
今でこそ繁華街と住宅地が広がる平坦な地域ですが、時宗が鷹狩りに来た頃は武蔵野の雑木林が広がる山林だったろうと思われます。
鎌倉から約70㎞も離れた地までよくも鷹狩りに来たものだと、そちらに感心してしまいます。
実際にその場所に立ってみると、一瞬鎌倉の円覚寺舎利殿ではないかとの錯覚を起こします。それくらい形が似ています。禅宗様建築は鎌倉時代、
禅宗と共に中国から伝わった建築様式で、当時の和様と比べてモダンに見えたらしく唐様とも呼ばれました。
宋僧・蘭渓道隆の来朝と建長寺建立によって実現されたもので、建築も中国のスタイルをそのままの形で日本に確立することを目的としていたため軒反りも強く、
瓦や土壁も使わず床は土間で、経済的で極めてシステマチックな技法であったため同じような形で広まった結果がうりふたつの形になったのだと想像されます。
間近で見る上層の柿葺き屋根の軒反りの急勾配はまるで天を衝くようです。円覚寺舎利殿よりも強い反りかもしれません。禅宗様の定石通り、
下屋に裳階とよばれる板葺きの屋根を持ち、垂木は扇垂木という中心から放射線状に伸びる化粧垂木になっています。当時の武士階級に広く禅宗が受け入れられていったのも、
禅という思想だけでなくこういった建築様式にも惹かれた部分があったのではと思わせるものがあります。
昭和8年の解体修理の際尾垂木の墨書から応永14年(1407年)室町時代の建立と分かりました。舎利殿との関連から鎌倉期の建立と思われていたのが室町期まで下りましたが、
その後円覚寺も永禄6年(1563年)の大火で焼失し室町中期の建築と推定される太平寺(廃寺)の移築仏殿だったことが判明し整合します。
江戸期より近在では「稀代の異作にして今に存じ、一切の大工来たり地蔵堂を見て細工の規矩模範とをり」と地誌に記されているように由緒ある名建築として知られてはいましたが、
その価値が全国的に知られるようになったのは昭和に入ってからでした。建築も御多分に漏れず中央のアカデミズムの権威が必要で早稲田の田邉泰博士らによって「発見」、
国宝指定されていきます。
当時としても、円覚寺舎利殿に酷似した建物が武蔵野の野辺で「発見」されたことは極めて大きな出来事であったことは想像に難くありません。
この正福寺も臨済宗鎌倉五山に次ぐ寺格の大寺で、地蔵堂の後ろに控える本堂もまた立派な建物となっています。
また、この地蔵堂の周りにはご本尊を囲んで一木造り、丸彫りのミニ地蔵がたくさん並べられています。この像を一体借りて家に持ち帰り祈願し、
願いが成就したら持ち帰った地蔵尊とは別に一体添えて奉納するのだそうです。
そのミニ地蔵が増えているところを見ると、多くの人の願いが成就したことが察せられ少し嬉しい気持ちにさせられます。
それにしても、東村山ときいて「志村けん」しか浮かばないのは私の浅学のせいでしかありませんが、こんな「都内で唯一の国宝」というお宝があるのであれば、
道案内はじめ「見せ方」をもっと工夫してその価値を全国的にPRしてもよいのでは、とつい思ってしまいます。
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