奈良時代の藤原政権下で書かれた歴史書に「続日本紀(しょくにほんぎ)」という書物があります。
もちろん原文は漢文体で書かれていて簡単には読み解くことはできませんが、幸い宇治谷孟氏の現代語訳という労作が出ていてその内容を読むことができます。
氏によれば、 『「続日本紀」は「日本書紀」に続く第二の日本紀という意味合いで、文武天皇の元年(697年)から、桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を、
全40巻に収めた編年体の勅撰史書である。「日本書紀」のように、国威宣揚を意識した記述ではなくて、当時の大事業であった律令制の施行と、
度重なる天変と凶作・そして疫病の蔓延・謀叛なども包むことなく記録しており、今日も底知れぬ厖大な愛好者を擁する万葉歌群の背景を理解するのには貴重な資料集である』
となっています。簡単に言うと奈良時代のほぼ全期間が日記風に書かれていて、そこには日蝕や地震があったとか、高官の誰がしかが死んだとか、
どこの誰かが土産を持って朝貢したとかの些末な事まで書かれていて、当時の時代を知るうえで貴重な資料だということが分かります。
その中の霊亀二年(716年)五月十六日の日付に次のような記録があります。
『駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七か国にいる高麗人(こまひと)千七百九十九人を武蔵国に移住させて、初めて高麗郡を置いた』
その前後のことについての説明書きはありませんが、このたった二行の文が色々なことを事実として伝えていて興味をそそります。
今からちょうど1,300年前、現在は埼玉県日高市・飯能市の一部となっている地域に周辺諸国にいた高句麗人(倭名高麗人)を1個所に集めて
高麗郡という一つの郡を作ったというのです。7世紀末頃の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っていて、最初に百済が、
次に高句麗が唐・新羅の連合軍に敗れて滅亡、
最後には新羅も唐に滅ぼされ、その際残党として難民同様に倭の国日本へ生き延びてきたのが亡命渡来人と呼ばれる人たちでした。
一説に百済からは4,000~5,000人が主に西国へ、高句麗も同程度の規模で東国に、新羅も数十名を武蔵・新座の方面に住まわせたということが伝えられています。
この高麗郡を設置してからちょうど1,300年に当たる5月、日高市で建郡1,300年記念祭が行われたのを見る機会がありました。
色艶やかな原色の民族衣装を纏った老若男女のパレードが市内の目抜き通りを数キロにわたって練り歩く光景は、一瞬ここが高句麗かと見まがうほどでした。
幼い園児たちも同じように身に纏っているのを見ると、皆この記念祭のために新調した衣装なのではないかと想像されます。
出発地点にはかつて高麗人が住んでいたとされる周辺の市町村から模擬店が出展されて、それぞれの物産を展示しパレードを盛り上げていました。
高句麗は今の北朝鮮の地域とほぼ一致し、かつては中国東北部まで勢力を伸ばしていた騎馬民族でした。
彼ら高麗人は乗馬の風習のなかった倭人たちに乗馬技術を伝え、
古墳時代を迎えるころには日本の古墳にも馬具が盛んに副葬されるようになり騎馬の風習が定着したことをうかがわせます。
彼ら渡来人の日本への影響力は大きく、横穴式石室やカマドの採用、
鉄器や須恵器の生産、機械工芸や土木技術、銀や銅などの鉱物資源の利用、紙や漢字、果ては儒教や仏教なども伝えその後の日本思想形成の背骨を作ったともいわれています。
中央平城京政権はなぜこの武蔵・日高の地を彼らに宛がったのか。遺跡発掘から読み取れるこの地方は、縄文期の遺跡が多く出るものの弥生・古墳遺跡が皆無であることから、
稲作には不適な地形であり長い間無人の地で既存勢力が不在だったことがその理由かと思われます。
その証拠に、高麗人が最初に行った事業として高麗川を一部堰き止めての水田開発があり、その跡が今でも「巾着田(きんちゃくでん)」として保存されています。
入植した彼らが当時稲作には不適だったこの武蔵野の雑木林を苦労して開墾・開発していったことが想像されるのです。
そのなかで高句麗滅亡前からその使節として在日していた高麗王・若光(じゃっこう)が郡司に任命され高麗人入植に尽力します。
同郷人から慕われ人望があったことが窺い知れ、その没後彼を祀って高麗神社が建てられています。
ここの官職は代々この若光の直系によって受け継がれ60代を数えると云いますから驚きます。
また戦前から歴代の総理大臣などが多く訪れていることから「出世神社」とも呼ばれているようです。
ここから少し山側に登ったところに若光の菩提寺で聖天院という古刹があります。創建が751年とされ、江戸期には門末54箇寺を擁したと云われるほどの隆盛を誇った大寺で、
平成12年に7年の歳月をかけて落成したのが総欅造りの現在の本堂です。
尾垂木様式三手先の軒造りや内外陣の2尺はあろうかと思われる欅丸柱など圧巻で、
近在では見ない豪壮な造りとなっています。
使節として来日した若光は再び故国の土を踏むことなくこの地で没しました。
そこの見晴台から見える旧高麗郡の景色は、入植した当時とは様相を異にしたよく見かける一地方の街並みに変貌しています。
高麗人の名残りは地名や建物に残されているものの、1,300年という長い時間の中に次第に埋没していったのでしょうか。
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