唐突ながら、先代の父が鬼籍に入って今年で14年になります。
還暦も過ぎて、父が残したものを改めて見ながらその心象風景を思い図ってみるのもいいかもしれないなどと気まぐれに思い、
生前父の手がけてきた堂宮を久しぶりに巡ってみることを思い立ちました。少し手前味噌な話になりますが、今後飛び飛びにでもこのうんちく欄で取り上げてみたいと思います。
そんなわけで最初に赤城山大沼湖畔にある赤城神社を久しぶりに訪ねてみました。
四月初旬、平野部では桜が満開に咲き誇って春日和でしたが、標高1,800mを超える赤城大沼では気温も10度を下回り、
湖面は氷が融け切らない情景でまだまだ若葉が芽吹く春には遠い冬景色でした。
駐車場から啄木鳥橋を渡って大沼の湖畔に建つ朱塗りの社殿が赤城神社本拝殿です。
最近塗り替えられたようで朱の色が廻りのモノトーンの殺風景な風景に一つだけ色を添えて目立ちます。
関東平野の北部に君臨する最初の霊峰として美しい山容を持つ赤城山信仰の歴史は古く、
万葉の歌人にも謳われ1,200年以上前の大同元年(806年)には地蔵岳中腹から大沼湖畔に遷宮された記録が残っているそうで、
この年号に因んでその地を「大洞(だいどう)」と名付けたと云われます。赤城沼神はその後朝廷から神位も賜り平安時代には正一位まで上り詰めます。
寛永年間に家光により再建された際には家康公も合祀され江戸期を通じて武家にも広く信仰を集めたようで、
拝殿正面の賽銭箱には皇室、武家、徳川将軍家の「菊紋章」「五三桐紋」「徳川葵紋」の三つが並べられています。明治期には山内の豊受社や厳島社、
高於神社等を合祀して大洞にまとめられいよいよ観光地化されていきました。
そして昭和44年に老朽化したのを契機に1,200年鎮座した大洞の地を離れ、小鳥ヶ島の地に再遷宮をしたのが現在の本拝殿です。
この本拝殿は柱から頭貫までの軸部が鉄筋コンクリート造で作られていて、その上の組み物から小屋組、屋根までが木造で作られている混構造になっています。
2,000m近い山頂の過酷な自然環境から躯体のRC造が選ばれたのだろうと思いますが、その上の木造部分の屋根工事を先代の父が担当して当社で施工させていただきました。
設計は大光院を手掛けた太田の故北村常太郎氏で、会社の現寸場で千鳥破風や軒反りの具合を検討している二人の姿を思い出します。
当時中学生だった私も夏休みに父に連れられて現場に来たことを覚えています。
今でこそわかりますが、破風上の銅板下地蓑甲の曲面を出すために小木を細かく打ち据えていくのをこういう風に作っていくのかと、
足場の上から見させてもらった記憶があります。11月の頃を迎えると冬支度となって工事ができなくなるため、
秋までに工事を終わらせようと太田の会社から職方たちが毎朝5時に出て通っていました。先代も当時43歳、大工職たちも若かったのですね。
5間間口の入母屋造りの拝殿には少し小さめの向い破風が付いて、本殿は3間切妻造りとなって幣殿に繋がれています。
化粧垂木は小断面のものを小間返しのような細かい間隔で並べ出組みとなって軒を支えています。特に本殿の切妻千鳥破風と蓑甲が奇麗に納まっているように思います。
私は昔から先代の千鳥破風の形が好きでした。
垂水の中心を少し上にあげて拝みの部分の勾配を強く求めます。夜、晩酌の時に分からないのを承知で中学生の私によく話して聞かせたものでした。
「現代の名工」受章の際の記念パーティーでこの時のスライドを上映したときの先代の話しに「アポロ11号が月面に着陸して歓声を上げているニュースを屋根野地の上で聞いていたのを思い出す」とありました。
昭和44年(1969年)の7月はそんな時代だったのですね。
江戸期に信仰を広めた赤城神社は関東を中心に全国で334社あるとされ、特に新宿区神楽坂にある赤城神社は有名です。
神楽坂の地名自体が坂の途中に赤城神社の神楽殿があったことに由来しているともいわれています。もともとは、
鎌倉期に上州・大胡から出た大胡氏により勧請されたと社史にはあるようです。
学生時代6年間も神楽坂に通いながら一度も訪れたことがなかったのは汗顔の至りで、今度改めて詣でてみたいと思います。
大洞の本社も小鳥ヶ島に移された昭和遷宮のころより整備が進み、平成18年には大洞御遷宮1,200年祭が奉祭斎されました。
境内には立派な社務所やホールが建てられ、今では結婚式も執り行われているようです。
あの昭和44年当時と比べて今はずいぶんと華やいだように見えます。
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