赤城山麓南面に広がる大間々扇状地の中ほどに岩宿遺跡という教科書にも出てくる有名な遺跡があります。
相澤忠洋によって石器が発見され、日本にも旧石器時代があったことを初めて明らかにした記念碑的な場所として知られています。
冬の休日その岩宿博物館を訪ねました。
大間々扇状地はかつて渡良瀬川が今よりもっと南側に蛇行して流れていたころよりの堆積地で、赤城山の麓から伊勢崎・太田付近まで及んでいる広大な扇状地です。
そのほぼ中央にある笠懸野と呼ばれる丘陵地に岩宿遺跡はあります。JR両毛線岩宿駅から徒歩で15分ほど西に行ったところになります。
相澤忠洋が通ったその切通しは今では盛土と舗装がされ車が楽に行き来できるほどになっていますが、当時は荷車が1台通れるほどのまさに崖の谷間だったようです。
その崖の露出した地層から黒く光り輝く黒曜石の「槍先形尖頭器」という石器を発見したのです。
その地層とは赤土の関東ローム層といわれるもので、1万年以上前、主に富士山や鹿児島の姶良(あいら)火山の大噴火によって吹き上げられた火山灰が降り積もったもので、
幾重にも重なって3m以上の地層を形成していることからその噴火の規模の大きさが窺い知れます。この火山灰によってその頃の日本列島は寒冷化が進み、草木も生えず、
動物や人も生きていけない「死の世界」だったと考えられていました。そのため当時は発掘調査で1万年以上前を示す赤土の関東ローム層が出てくると、
考古学者の間では「ここから先は何も出ないから」と言って埋め戻されていたのが常で、永らくの間日本には縄文以前はなく、
旧石器時代は存在しなかったというのが通説となっていたのです。
そこへ一行商人でアマチュアの相澤忠洋が土器を伴わない石器をローム層の中から発見したといっても、中央の学会は俄かには信じてくれませんでした。
運よく後年「旧石器の神様」と呼ばれた芹澤長介の知遇を得て、
昭和24年9月杉原荘介率いる明治大学考古学研究室との合同発掘を試みて見事同じローム層から楕円形のハンドアックス(握斧)と呼ばれる石器を掘り当て「世紀の大発見」となっていったのです。
アマチュア考古学者中の「伝説の人」となった相澤忠洋ですが、その半生は栄光とは裏腹に決して恵まれたものではありませんでした。
9歳の頃に一家離散を経験し、東京の履物屋に奉公に出された後夜間中学で考古学に興味を持ち、旅芸人だった父親に呼ばれて桐生に移ったことで岩宿との縁ができます。
自転車で行商をしながら岩宿の切り通しへ通い、無いはずの赤土からの石器を幾つも見つけていくのです。
根気のいる仕事でしたが、その粘りは貧しさから培ってきたものだと云われます。
戦中までその皇国史観によって閉ざされていた考古学は戦後花開いた比較的新しい分野でしたが、地層優先主義で発掘物の型式を尊重しない空気を持っていました。
しかも考古学会は松本清張が「断碑」や「石の骨」に描いたように、学閥と権威の白い巨塔とも言われ、アマチュアが石器や土器を発掘しても学会の権威のお墨付きがなければ、そこら辺のただの石ころや土器片としか扱われません。無学な相澤はそこに苦労をしました。幸い在野の考古学ボーイに理解のあった芹澤長介と縁を持てたことで日の目を見ることができたといえます。
しかしこういった考古学会の閉鎖的で非科学的な部分が、後年世界を騒がしめた「旧石器ねつ造事件」に繋がっていったとされます。
当事者の藤村新一は「第二の相澤忠洋」になりたかったと述懐し、不自然と思われる後期様式の石器形を周囲の学者たちも見抜けなかったのです。
その時原人ブームに沸いた考古学は60万年前までの日本原人を想起させましたが、この大スキャンダルで一気に岩宿時代まで戻され、
教科書も書き直されるような事態を起こしてしまったのです。
20万年前新人が東アフリカの高原に生まれて、そこから何万年もかけてユーラシア大陸やジャワ島を経てこの日本列島にたどり着いたとされます。
そして3万年くらい前この日本列島にたどり着いた先祖たちは、火山活動の真只中の過酷な環境に耐えて、強く逞しく生き抜いて今の私たちにその血を繋げてきました。
その一団がこの赤城南麓に居たのです。この群馬の地で土器を持つ前の旧石器時代があって、
石器を使って山や川の動物を狩猟し木の実を採集して数個のムラを形成していた時代があったことに思いを馳せます。
博物館に常設展示されている「細石刃」や「尖頭器」に使われている黒曜石はこの群馬の地では採れず、近くても長野県からもたらされたものであったことからその交易も窺い知れ、
どんな人がどんな思いで作っていたのか想像を巡らしてしまいます。
スタンリー・キューブリックが映画「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンで、
類人猿が落ちていた骨を初めて敵を打ちのめす道具として使用したところを「人類の夜明け」というスーパーを添えて描いていましたが、
それに倣えばこの岩宿遺跡の石器群こそが「原日本人の夜明け」と言えるかもしれません。
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