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赤石建設株式会社 一級建築士事務所
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平成27年11月


 越後に日光あり、といわれる禅寺があります。魚沼市にある曹洞宗の西福寺がそれで、その開山堂は茅葺の二重層入母屋造りで正面に唐破風が設けられていますが、 全体に質素な感じのする堂に対して不釣り合いなくらいに、向拝の透かし彫り彫刻をはじめ内部の天井嵌め彫刻群の余りの細工の細かさと色彩のあでやかさに圧倒されます。
 恒例の会社協力会での研修視察でそんな秋の西福寺を訪れてきました。
 関越道小出インターからすぐ近くの鄙びた田園地帯が広がる中にその境内はあります。縁起には1534年室町時代後期に開山されたとあり、 現在の建物は幕末期に二十三世蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)和尚の中興により再建されたとあります。この彫刻の作者は石川雲蝶(うんちょう)という人で、 幕末江戸石川流の流れをくむ名彫刻師として苗字帯刀も許されたほどの名工でした。少し違和感はありますが、 ルネッサンスの巨匠にあやかってその名も「越後のミケランジェロ」と呼ばれているようです。
 ざっと経歴をたどると、文化年間に江戸雑司ヶ谷に生を受けて若くして石川流の彫刻師として名を馳せたようで、二十代で幕府御用勤めの彫り師になり、 この時から雲蝶を名乗ったとされています。しかし江戸での作品としての記録は残されてなく、その後請われて金物、鑿で有名な越後三条にある本成寺の修築にかかわった後、 酒井家に婿入りしています。その後は越後を中心に精力的な製作活動が行われ、西福寺の他長岡の秋葉神社奥の院、湯沢町の瑞祥庵金剛力士像など千点近くを残し、 明治16年70歳にて三条で没したとあります。
 雲蝶がこの越後の地を拠点におびただしい数の彫刻類を残せたのには、幕末という時代の舞台背景と二人のよき理解者との出会いがあるような気がします。
 雲蝶が御用勤めをしていた時代はあの天保の改革が行われた時期と重なって、倹約令が厳しく断行され、幕府お抱えの彫り師も多くがリストラされた時代でした。 雲蝶も例外でなく、世間に放り出されて仕事を自分で探さざるを得なかったことが窺えます。 そんな不景気な時期にある一人の金物商との出会いから大きく人生双六が変わっていくことになります。 雲蝶が彫った牛の置物を気に入った越後三条の豪商内山又蔵が訪ねて来て、「越後に来れば仕事はたくさんあるし、 よく切れる鑿もうまい酒も好きなだけやる。」という殺し文句に膝を叩いて越後入りします。 内山が総代を務める三条の本成寺の欄間や塔頭の仕事にたずさわりその名を知らしめ、さらに内山の世話で当地の仏壇屋・酒井家に婿入りも遂げます。 ここまでが第一の理解者、名伯楽だった内山又蔵との出会いで、ここから彼の越後での活躍の場が開かれていきました。
 そして第二の名伯楽がこの西福寺の蟠谷大龍和尚でした。大龍和尚は当時33歳の若き住職で、 かねてより先代からの念願だった道元禅師の教えの世界を再現するお堂を建立して貧しい地域の人々の心の拠り所となれるよう発願し、 そして雲蝶の噂を知って魚沼に招きこの宿願を成就させていきます。
 内部の天井3間四方一面に嵌められた彫刻は、道元禅師が入宋した際に虎に襲われそうになった時、 錫杖を投げたところそれが龍に変わって虎を退散せしめたという「道元禅師猛虎調伏之図」が元になっています。 もう一つ脇欄間には「永平寺血脈池縁起」という幽霊の出てくる縁起も描かれています。岩絵の具を使ったとされる彫り物はリアルさを極めていて、 ノミの入れ方をどのようにしたのか考えてしまうような彫りの技術とデッサン力に圧倒されます。
 西福寺開山堂の工事は15年から20年掛かったとされますが、雲蝶が彫刻にかけたのは実質5年くらいだったでしょうか。 ケヤキ材がほとんどですが、一部欄間にはブナの寄せ木も使われてその調達に難儀したことが窺い知れます。
 しかし天保の改革による不況が地方にも押し寄せていて、完成の頃は貧しい檀家農民から寺の贅沢さを批判され始めてもいたようです。 意に反した事態に大龍和尚は身を引くことを決意され、開山堂落慶の導師を務めることなく住職の座を追われていきました。無欲の人だったことが偲ばれる話しですが、 このよき理解者と雲蝶との付き合いはその後も続いたと云われています。
 雲蝶はこの大作ののちも、堀之内・永林寺などの仕事に携わり活躍の場を広げていき、前述のように35年間に千点を超す作品を魚沼を中心に残していきました。
 その生涯を俯瞰するにつけ、江戸市中の不況という時代を背に、確かな技術は持っていたとはいえ二人のよき理解者に巡り会えて、 越後の山里でその力量をいかんなく発揮することができた幸運も併せて考えてみなくてはいけません。
 その後は時代も明治へと移り、内山又蔵が明治12年に、大龍和尚が明治15年に逝き、雲蝶もそれを追うように明治16年に世を去ります。 長男に跡を継がせることもなかった腕一代の彫り師を重心に、幕末から明治の越後を舞台としたなにごとかが終熄したのです。 死後、明治26年の三条大火で不幸にも本成寺などが灰塵に帰し、越後入りした若き日の雲蝶の傑作群を今は見ることができません。
 雲蝶を忍ばせるのはこの西福寺と数ヶ寺になってしまっています。








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