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平成27年10月


 少し前になりますが、業界の研修視察で飛騨の白川郷に行く機会がありました。
 庄川に沿って南北18里、四十余ヵ村と云われる白川郷ですが、五箇山集落と並んでユネスコの世界文化遺産に指定され合掌造りで有名となったのはその中の「荻町」地区のことで、 大きな白川の郷の一つ村落とみたほうが当を得ているようです。
 冬の雪に閉ざされてライトアップされた白川郷の深々としたポスター写真は有名ですが、行ったのは夏の盛りで合掌造りの周囲には田んぼが広がり青々とした稲穂が繁っていました。
   しかし、稲作が行われるようになったのは灌漑や品種改良がおこなわれてきた近年のことで、 おそらく中世のころはヒエやアワなどの穀物の他は山に依拠した狩猟採集の生活が続いていたものと思われます。周りを山で隔絶されたこの程度の広さの村落で、 自給自足をして生涯をこの地の中だけで暮らした何世代もの人たちのことを思うと、悲しい気分よりもかえって幸せではなかったかと思う気分のほうが強くあります。 今のほうがグローバルなどという掴みどころのない言葉に惑わされて、あたかも世界を知ったかのような気分になり、 さらにその影響から不幸な側面も味わっているではないかとすら思ってしまうのです。
 十二世紀成立の「今昔物語」にこの地の「猿丸」という地域の話がすでに出てくるようです。 不作や祟りを恐れて山の神に毎年生贄を一人出す習慣がありそれを村人から出していたのが、 たまたま訪ねてくるものがあるとそれを騙して生贄に供するという怖い話として綴られています。 そしてある時訪ねてきた一人の僧がそれを知って山の神として恐れられていたサルを退治し、祟りや霊などの迷信を一掃して村を繁栄させた話で結ばれています。 十二世紀の時代の書物にこんな「事件」らしい物語が引用されるほどにこの地方は情報の面では案外僻地ではなかったのかもしれません。
 この荻町集落の中心部に「明善寺」という浄土真宗のお寺があります。 その造りは合掌屋根ながら入母屋の形式をとって、決して簡素ではない相応の妻飾りや向拝彫刻を配しています。 この渓谷に住むひとびとのすべてが室町末期に真宗の門徒になり、この宗門の法義によって統一された単一の文化を形成したといわれます。
 門徒組織の横のつながりを成して渓谷を脅かしていた迷信・魑魅魍魎のたぐいを駆逐したことは先の「猿丸」の寓話とも整合します。 真宗の宗旨が弥陀の本願を信じる信仰以外のもの、呪術や迷信や神を排除するという「神祇不拝じんぎふはい」の伝統があるのと同じです。 狩猟採集しかなく殺生をせざるを得ない者でも念仏を唱えることで来世は極楽浄土へ行ける、という教えが受け入れやすい救いとなったことは否めません。 そういう意味で浄土真宗には合理的精神を先取りした進取性があったようにも思われます。五箇山と同じく流刑者の流入によるものだけでなく、 この門徒宗の往来によって京や尾張からの情報がいとも簡単にもたらされていたのかもしれず、唯一の産業だった焔硝づくりの技術伝来の元となったことは容易に想像されます。
 白川郷も世界文化遺産に指定されて以来、平日の昼間にもかかわらず観光客が国内どころか海外からも押し寄せ、 平素の暮らしを覗き見られている住人のストレスは如何ばかりでしょうか。現実の生活を伴っているからこその文化遺産とはいえ、 昔の儘の生活を強いられながら、好むと好まざるとにかかわらずこのグローバル社会に対応せざるを得ない窮屈さを感じてしまいます。 茅の葺き替えを行っている現場がちょうどありましたが、すでに近在での茅の調達さえままならず、遠く静岡の地から運んできているといいます。
 また指定後は後継者を置くことを義務付けられて、その対応に苦慮している家も多々あると聞きました。都会で便利な暮らしをしている観光客が、 旅人気分で地方を訪れて地方の自然と環境を守れと、上から目線で号令をかけていきます。 地方は地方でそんな第二の東京になりたくて道路や産業を誘致しては便利な生活環境を確保しようとしています。 東京の生活は豊かで地方の生活は貧しいと考えたがるのは一種の共同幻想だと云う人がいます。 所得格差よりもコスト格差のほうがずっと大きいことや、東京の出生数が1.1と全国で最低であることを鑑みるとどちらに幸福感があるか分からないというのです。
 白川の郷でも真宗的な後生を恐れない合理性がもたらされて良かったか否かは定かではありません。 「殺生をすることによる堕地獄の恐怖は洋の東西を問わず一種の秩序的幸福だったかもしれず、天国をあこがれ、地獄を恐れるということが人間社会から消滅して以来、 人間は偉大さというものを失った」と書いた人がいました。「少なくとも幸福という得体の知れないものがかつては実感として実在したのに、 今ではその正体をつかむことさえ難渋するようになっているのだから」と。
 展望台から見降ろす猫のひたいほどの合掌村落を見ながら、この盆地に長い時間をかけて熟成してきた自然と真宗の織りなす独自な文明に思いを馳せていました。








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