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赤石建設株式会社 一級建築士事務所
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令和4年7月

  やや教科書風になりますが、鎌倉期以後の封建制度というのは領主が家臣に封土を与えて、その代わりに軍役などの義務を課する主従関係を言いますが、それまでの奈良・平安時代までは律令制という制度をとっていたと教わりました。その律令制の基本は公地公民制で、田地もそれを耕す農民も公と称する国家・天皇が所有するというものでした。
 農民は公のために公田を耕し土木工事などでも働かせられました。公地公民といえば聞こえはよいですがいわゆる一種の農奴のような状態に置かれていて、それゆえその生産意欲も少なかったといわれます。
 その意味でその後の鎌倉時代の墾田による封建社会の成り立ちは彼らに所有の喜びを与え、生産意欲を掻き立てられたことは想像に難くありません。
 しかし日本国すべてが公地であるという制度が一夜にして封建制度に移行したわけではなく、その前段階としてよく知られるように荘園の成立がありました。
 荘園とは公認された私設農地ともいうべきものでこれが公地公民制と決定的に矛盾するものでした。おもに貴族や有力社寺のみがこれを持つ特権がありましたが、抜け穴はいくらでもあったようです。新田を増やすために荒れ地や湿地を開墾させ、それを私有するという政策をとって生産意欲を刺激し一部の新荘園としました。地方の社寺勢力もこれをやりましたが、力がないため墾田の公認がされませんでした。そのためには政治力が必要でいかに強い親方の傘下に入るかでその公認が左右されたようです。前置きが長くなりましたが、福井越前の勝山市にある白山平泉寺という寺社がその歴史を体現していて悲哀を感じさせるのです。
 平泉寺の歴史は古く717年に泰澄(たいちょう)が白山を開いたときに遡るといわれています。当然山岳信仰からの修験の社として発展し神仏習合により仏教色を強め中世には多くの僧と僧兵がそこに住むようになりました。後年明治政府による廃仏毀釈により一時は白山神社と称されていましたが、その歴史を鑑みると平泉寺の寺号で呼んだほうが適切かとも思われます。往時その白山系荘園を担保してくれたのが叡山で、その権勢と権威は都にも恐れられていたとされます。異を唱えようものなら御所に向けて僧兵がこぞって神輿を担いで強訴したといわれます。隆盛を極めた南北朝の時代には社領九万石、社堂四十八社三十六堂、六千の僧房があったと書かれています。
 しかし平泉寺は悪僧の巣窟でもあったともいわれ、その暴力性や利害に聡い軽薄さは宗教を治める者たちの場所としては不釣り合いに映ります。南北朝時代に藤島荘の寄進欲しさに南朝を裏切り新田義貞を敗死させ、戦国期には信長による朝倉攻めの際にも朝倉氏の援軍要請に応じず義景を自害に追い込むなど、「正義」という倫理はなく「勝ちそうな側につく」ということだけがその判断基準であったかのようにさえ思えます。こんな集団ですから勝山領内の農民たちに対する振る舞いも傲慢と横暴を極めていたらしく、農民は救うべき存在でなく搾り上げるべき奴隷であり不浄の者たちだとして扱っていたといわれます。司馬遼太郎さんの言葉を借りれば「平泉寺というのは何のために日本の社会に存在したのであろう。仏教がここで深まったということもなく、単に暴力装置としてのみ存在したかに思われる。里人にとっては魔物の巣窟のようなものであった。」ということになります。
 しかし、全盛を極めたその二百数十年の幕切れはあっけなく訪れました。皮肉にも不浄のものとして蔑んだ農民による焼き討ちにあって滅ぶのです。
 親鸞の浄土真宗中興の祖といわれる蓮如が室町期にその教えを北陸の地で拡めます。その講となったつながりを組織しいわゆる一向一揆を各地で起こし、政治化し軍事化して守護大名まで倒すに至ります。その中にあって越前門徒は加賀門徒の力を借りて一大蜂起、平泉寺攻めを起こすのです。天正二年二月からの二ヶ月にわたり一揆と平泉寺衆八千三百が勝山盆地で激戦し、市中の村岡山に陣地を築いた平泉寺領農民はその歴史的な鬱屈と宗教感情上の憎悪が噴き出し士気が高くよく戦い、決死隊七百を選び夜陰間道を伝い平泉寺背後から林間から奔り狂って放火し六千坊を一夜で灰燼にしてしまったと伝わります。火を見て衆徒は四散しこの天正二年四月十三日夜をもって滅亡したのです。このとき領民は遠い過去から自分たちを支配し続けてきた平泉寺を滅ぼすことを目の当たりにして喜び、陣地のあった村岡山を「勝ち山」と呼んで、以来この地を「勝山」と呼ぶようになったと伝わります。武装農民が古代的性格を引きずる中世社会を没落させたという点において時代の画期だったのかもしれません。
 その後平泉寺は織豊期を通じて大名たちの好意によって灰の中から再興されましたが、往年の規模から比べると岩と小石ほどの違いがあるといわざるを得ません。
 現在の本殿は江戸期に越前松平氏の援助を受けて再建されたものですが、灰の中から自生して育った樹齢280年ほどの老杉群の中にひっそりと佇んでいます。その根の周りに敷き詰められたように生える苔を見ていると平泉寺六千坊の栄華をしのぶことは難しいかもしれません。
 巨大化した教団というものはしばしば政治団体化して、宗教であることの本質が失われるといいます。つい最近も元首相が狙撃された事件が起きましたが、その裏にあったものが新興宗教に起因していると巷間言われているのもその証左になっているのかもしれません。










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