若狭湾に面した岬に三方五湖と呼ばれる淡水と汽水の五つの湖があります。
この湖群のなかの水月湖という日本ですら有名とはいえないその湖が、近年一夜にして世界の「レイク・スイゲツ」になったことはあまり知られていません。
2012年10月、当時の新聞見出しはこう謳っています。
「福井の湖 考古学の標準時に 過去5万年 誤差は170年」(朝日)
「世界一精密な年代目盛り=福井・水月湖、堆積物5万年分——日欧チーム」(時事)
一見何のことかと思いますが、水月湖の湖底に積もった堆積物をボーリングして採取した45mのコアサンプルから、年輪のような年稿(ねんこう)と呼ばれる7万年分の堆積物が発見されたということなのです。
年稿とはプランクトンや鉄分など、季節によって異なるものが湖の底に毎年積もることで縞模様になった泥の地層のことをいいます。
世界にも北欧の氷河湖やドイツの火口湖などにも明瞭な年稿が見つかっていますが、水月湖以上に長く、静かに、連続した美しい年稿は例がなく、
それによって年代測定の世界標準に選定されたということが新聞見出しの内容なのです。
過去の年代測定には14C炭素同位体による測定とそれを裏付ける具体的なメジャーが必要です。木の年輪だと氷河期の期間が空白となって数千年が限度、
鍾乳石やサンゴなどには古い時代の炭素が混じる可能性があって誤差が生じるなど、そ
れに代わる新しい尺度が求められていたところにこの水月湖の年稿が発見され世界を驚かせました。
この「レイク・スイゲツ」を拝したのには地理的、気候的条件が必要でした。通常の湖では動植物で湖底の堆積物がかき乱され年稿を刻まないことが多いのですが、
水月湖では水深が深いことと山や木々に適度に囲まれていることから湖面に風の影響が少なく河川の流入がないことで、湖底の酸素が不足して無生物状態にあったこと。
そして長い年月堆積が続くと自然と湖底が埋まり、やがては湖そのものが干上がってしまうことがありますが、
近くにある活断層によって引き起こされる地震による地盤沈下で堆積速度より早く湖底が沈んでいくことで水深を維持してきたという2点によって「奇跡の湖」の冠を戴いていると云われます。
近くには鳥浜貝塚で有名な縄文遺跡がありその保存状態の良さから縄文文化が研究され、環境考古学的なアプローチがなされてきたことも年稿発見に寄与したとされます。
展示施設には実際の年稿サンプルが展示されていますが、45mものサンプルを縦に展示することができないため、1mほどの長さにカットされたものを暦年に横並べしています。
バックライトに照らされたそのサンプルはステンドグラスのように輝いて美しく見えます。
年稿は乾燥に弱く空気に触れると酸化して色が変わってしまうため、樹脂に埋め込み光を通すほどに薄いフィルム状にしてガラス板に挟み空気を完全遮断したといいます。
この年稿ステンドグラスはドイツの一職人にしかできない技術といわれ1ミリの20分の1の薄さまで研ぎ上げて作られているそうです。
夏目の暗い部分と冬目の明るい部分で1年を示しその平均厚みは0.7ミリです。全体の45m先が7万年前の地層で、人類がアフリカを出たのが5万年前といわれていますから、
この堆積物はその2万年前から積もり続けている遺構なのです。人類史のほぼ全体を正確にさかのぼることができる優れモノなのです。
この水月湖では、地質時代に「何が」起きたかだけではなく、それが「いつ」だったのかを世界最高の精度で知ることができます。
タイミングが正確にわかるということは変化のスピードや伝播の経路が正確に分かるということでもあります。
スピードと経路が分かれば気候変動のメカニズムにまで切り込んで考察することができ、正確な将来予想にも繋がっていき、
水月湖研究のすそ野は広いと研究者の中川先生は語ります。
年稿の実物を展示するために建てられたのが「若狭三方縄文博物館」に隣接して建てられた「福井県年稿博物館」で、
45mのサンプル群を横並べに展示するために横に長い建物になっています。その軸線は採取された水月湖の地点に向けられ、
湖と川がすぐ近くなので冠水の懸念からピロティ形式に持ち上げられた2階展示室になっており、
豪雪地帯のためポストテンションを入れたRC造のピロティの上に鉄骨トラスで木造の切妻屋根を支えるというハイブリッドな構造建物になっています。
設計は内藤廣氏で中部建築賞やBSC賞を受賞した秀逸な建築となっています。大手ゼネコンでない地元の業者の手による施工で、
設計者に「ピロティのコンクリートが異様に美しい。ここしばらく見たことのない完成度の高い仕上り」と言わしめた出来栄えになっています。
地元職人の気概を見たようでうれしい気持ちにさせられました。
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