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説教 「いのちの旅」
               (詩編 90:1-12)      2015/09/13
(於・燕教会・永眠者記念礼拝)
 今日は「永眠者記念礼拝」。先に天に召され信仰の先輩たちのことを覚え、お写真を飾り、その在りし日を偲びながら礼拝を守っております。ご遺族の方々もお出でいただいて礼拝を守っておりますが、私たちは、このような時を大切にしたいと思います。

 この世に命を与えられ、走るべき道のりを走り終え、天に帰られた人たち。時間が経ちますと、お亡くなりになられた人の記憶というのは次第に薄れてまいります。でも、このように、お写真を見ながら礼拝を守るとき、故人の思い出もまたよみがえって来るのではないでしょうか。

 それだけではありません。年に一度ですが、このような機会が与えられているということは、私たちには信仰の先輩たちがおられた。それによって今の教会があるということも、また思い起こすことが出来るのではないかと思います。

 教会は、今いる私たちだけのものではありません。信仰の先輩たちがおられて、今の私たちがいるのであります。私たちは、時として、今いる自分たちだけの教会、そんなふうに考えることもあります。でも、本当は、信仰の先輩たちがおられ今の自分たちがいる。そしてこれからの教会もあるという、そういう時の流れの中で考えるべきではないでしょうか。

 いずれにせよ、このような時、このような機会が与えられていることを、私たちは先ず感謝したいと思います。そして、このような「永眠者記念礼拝」をこれからも守って行きたいと思います。

 ところで、今日は先ず「葉っぱのフレディ」-いのちの旅-という絵本のご紹介をしたいと思います。「葉っぱのフレディ」-いのちの旅-。これは、アメリカのレオ・バスカーリア(Leo Buscaglia)という人の絵本ですが、「みらい なな」さんという人が日本語に訳し、1998年10月22日、初版が童話屋という所から出されました。ミュージカルにもなっていますので、ご存知の方も多いと思います。こんな絵本であります。

 春になって「葉っぱのフレディ」は生まれました。数え切れないほどの葉っぱに取り囲まれ、どんどん大きくなって行きました。初めフレディは、どの葉っぱも自分と同じ形をしていると思っていましたが、やがて、一つとして同じ葉っぱはないことに気がつきました。

 フレディには友達が沢山いました。隣のアルフレッド、右側のベン、すぐ上のクレア。でも一番の親友はダニエルです。ダニエルは、ほかの葉っぱよりも大きくて、考えることが大好きで、フレディに、いろいろなことを教えてくれました。フレディたちが木の葉っぱであること、また、フレディたちの下は公園であることなど、いろいろ教えてくれました。

 夏になって、青々と茂ったフレディたちは、とても元気です。お日様は早く昇って遅く沈むので、沢山遊べます。かんかん照りの暑さは、なんて気持ちがいいのでしょうか。

 ある日、公園に、木(こ)陰(かげ)を求めて、大勢の人がやってきました。ダニエルは立ち上がり「さあ体を寄せてみんなでかげを作ろう」と呼びかけました。

 フレディはダニエルに尋ねました。「どうしてそんなことをするの?」。するとダニエルは言いました。「暑さから逃げ出してきた人間に、涼しい木(こ)陰(かげ)を作ってあげると、みんな喜ぶんだよ」。

 ダニエルの言った通りでした。木陰に、おじいさんやおばあさんが集まって来ました。子供たちも来ました。お弁当を広げる人たちもいます。フレディたちは、葉っぱをそよがせて涼しい風を送ってあげました。

 「フレディ、これも葉っぱの仕事なんだよ」。ダニエルの話を聞いて、フレディはうれしくなりました。

 でも、楽しい夏は駆け足で通り過ぎて行きました。たちまち秋になり、十月の終わりのある晩、突然寒さがおそって来ました。フレディも、仲間のアルフレッドも、ベンもクレアも、ぶるぶるふるえました。みんなの顔に、白く冷たい粉のようなものがつきました。朝になると、白い粉は溶けて、雫(しずく)がキラキラ光りました。「霜がきたのだ」とダニエルが言いました。もうすぐ冬になる知らせだそうです。

 緑色だった葉っぱたちは、一気に紅葉しました。公園は丸ごと虹になったような美しさです。アルフレッドは、濃い黄色に、ベンは明るい黄色に、クレアは燃えるような赤、ダニエルは深い紫色に、そしてフレディは、赤と青と金色の三色に変わりました。なんてみごとなんでしょう。

 一緒に生まれた、同じ木の、同じ枝の、どれも同じ葉っぱなのに、どうして違う色になるのか、フレディには不思議でした。「それはね-」とダニエルが言いました。「生まれた時は同じ色でも、いる場所が違えば、太陽に向く角度が違う。風の通り具合も違う。月の光、星明かり、一日の気温、何一つ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは、みんな違う色に変わってしまうのさ」。

 ある日、強い風が襲いかかって来ました。葉っぱはこらえきれずに吹き飛ばされ、次々と落ちて行きました。「さむいよう」「こわいよう」葉っぱたちはおびえました。

 そこへ、風のうなり声の中からダニエルの声が聞こえて来ました。「みんな引っ越しをする時が来たんだよ。とうとう冬が来たんだ。僕たちは、ひとり残らず、ここからいなくなるんだ」。

 フレディは悲しくなりました。「ボクもここからいなくなるの?」
 「そうだよ。ボクたちは葉っぱに生まれて、葉っぱの仕事を全部やった。太陽や月から光をもらい、雨や風に励まされて、木のためにも、他人(ひと)のためにも立派に役割を果たしたのさ。だから、引っ越すのだよ」とダニエルは答えました。

 「ダニエル、君も引っ越すの?」とフレディは尋ねました。「ボクも引っ越すよ」 「それはいつ?」 「ボクの番が来たらね」 「ボクはいやだ!ボクはここにいるよ!」とフレディは大声で叫びました。
 アルフレッドもベンもクレアも、「そのとき」が来て、引っ越して行きました。見ていると風に逆らって、枝にしがみつく葉もあるし、あっさり離れていく葉っぱもあります。

 やがて木は葉っぱを落として裸同然になりました。残っているのは、フレディとダニエルだけです。 「引っ越しをするとか、ここからいなくなるとか、君は言ってたけれど、それは…」 とフレディは胸がいっぱいになりました。「死ぬ、ということでしょう?」。

 ダニエルは口を堅く結んでいます。
 「僕死ぬのがこわいよ」とフレディが言いました。 「その通りだね」とダニエルが答えました。
 「まだ経験したことがないことは、こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化し続けているんだ。変化しないものは一つもないんだよ。春が来て、夏になり、秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。君は春が夏になるとき怖かったかい?緑から紅葉するとき怖くなかったろう?僕たちも変化し続けているんだ。死ぬというのも、変わることの一つなのだよ」。

 「変化するって自然なこと」だと聞いて、フレディは少し安心しました。

 「ねえダニエル、僕は生まれて来てよかったのだろうか」とフレディは尋ねました。
 ダニエルは深くうなずきました。「僕らは、春から冬までの間、本当によく働いたし、よく遊んだりもした。人間に木(こ)陰(かげ)を作ったり、秋には紅(こう)葉(よう)してみんなの目を楽しませたりもした。楽しかったろう。幸せだったろう」。

 その日の夕暮れ、金色の光の中をダニエルは枝を離れて行きました。 「さよなら、フレディ」。ダニエルは満足そうな微笑(ほほえ)みを浮かべ、ゆっくり静かにいなくなりました。

 このあと、フレディも初雪が降った翌日、静かに枝を離れて行きました。痛くもこわくもありませんでした。空中にしばらく舞って、それからそっと地面に降りて行きました。その時、はじめてフレディは、木の全体の姿を見ました。がっしりした、たくましい木。これならいつまでも生き続けるに違いありません。

 フレディはダニエルから聞いた「いのち」という言葉を思い出しました。「いのち」というのは、永遠に生きているのだ、ということでした。そして、フレディは雪の上で目を閉じ、静かにねむりに入る訳ですが、いかがですか「葉っぱのフレディ」のお話。

 私たちの人生も、この「葉っぱのフレディ」と同じようなものではないでしょうか。大自然の移り変わりの中で、すべてのものが移り変わっていく。仏教の言葉では「諸行無常」ということになるのでしょうが、キリスト教では「神の摂理」と言います。私たちもまた移り変わっていくのであります。神様から命を与えられ、なすべき事をなし、その働きを終えた時、再び私たちは神様のみもとに帰っていく。

 ところで、この絵本の最後は、こんな言葉で終わっています。
 フレディは知らなかったのですが- とあって、このようにあります。
 “冬が終わると春が来て、雪はとけ水になり、枯れ葉のフレディは、その水にまじり、土に溶け込んで、木を育てる力になるのです。
 「いのち」は土や根や木の中の、目には見えないところで、新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は、寸分の狂いもなく「いのち」を変化させ続けているのです。
  また春がめぐって来ました。”

 今日の聖書、詩編90編には、このようなことが語られています。
   主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
   山々が生まれる前から
   大地が、人の世が、生み出される前から
   世々とこしえに、あなたは神。
   あなたは人を塵に返し
   「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
   千年といえども御目には
   昨日(きのう)が今日へと移る 夜(よ)の一時(ひととき)(夜(よる)のひととき)にすぎません。
   あなたは眠りの中に人を漂(ただよ)わせ
   朝が来れば、人は草のように移ろいます。
   朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
   夕べにはしおれ、枯れて行きます。

 私たちの肉体は、枯れていきます。でも、「いのちの旅」は続いて行くのであります。私たち一人ひとりの人生。よく働き、よく遊び、人のためにも役立つような人生。楽しい人生、幸せな人生。そして、時至ったとき、帰るべきところに帰って行く。

 でも、「いのちの旅」は続いて行く。次の世代の肥やしとなり、命となって生き続ける。私たちの人生も、そんな人生でありたいと思います。

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