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説教 「光の子として」
               (エフェソ 5:6-14)      2015/09/06
(於・三条教会・燕教会録音)
 先程お読みいただきました聖書の所には、「光の子として歩みなさい」という言葉がありました。
「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)

 「光」また「光の子」という言葉は、聖書によく出てまいります。例えば、「あなた方は、世の光である」(マタイ5:14)とか「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)とか「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」(ルカ16:8)。

 また、「あなた方はすべて光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも暗闇にも属していません」(1テサロニケ5:5)。そして、今日の所「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」。だから、「光の子として歩みなさい」と、こう勧められている訳であります。

 「光」、それは聖書では、神様、あるいはイエス様を表す表現としてよく用いられています。
ヨハネの手紙一の1章5節には、「神は光であり、神には闇が全くない」とありますし、ヤコブの手紙の1章17節には「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」なんてあります。

 また、ヨハネ福音書の1章9節の所にある「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(1:9)という「まことの光」。それは神様・イエス様のことを語っている言葉でありますね。

 「光」である神様・イエス様。その神様・イエス様に結ばれているいる者は、また「光の子」とも呼ばれるのであります。

 ところで、今日の所にあります「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」という言葉。これによく似た表現がガラテヤの信徒への手紙にもあります。

 ガラテヤ書の3章26節、「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。
これは「主に結ばれて、光となっている、光の子となっている」という言葉と同じであります。

「主イエス・キリストに結ばれて、光となっている私たち(光の子)は、また同時に「キリスト・イエスに結ばれて神の子」でもあるのであります。「光の子」とは「神の子」のことなのでありますね。

 ところで、聖書は、神様に造られた者は皆「神の子である」ということも申します。創世記の天地創造のお話にありますように、神様は御自分にかたどって人を創造されました」(創世記1:27)。神様にかたどって造られた私たちは、本来「神様の子供・神の子」なのであります。

 しかしながら、私たちの現実は、必ずしも「神の子である」と言えるような存在ではない。
聖書は、そのことを「アダムとエバの堕落」のお話を通して私たちに語っておりますが、でも、神様によって造られた人間は、本来皆「神様の子供」なのであります。少なくとも、そういう要素、神の子・光の子としての要素は今も残っているのであります。

 あの東日本大震災のとき、人間の本性(ほんしょう)が現れました。一つは、人間の闇の部分。もう一つは、人間の光の部分であります。闇の部分というのは、罪人の姿であり、光の部分というのは、本来の人間の姿、すなわち、光の子・神の子としての姿であります。

 食べるものがない、飲み水がないという限界状況の中で、ある人たちは、店を襲い、強奪を始めました。それは人間の闇の部分の現れです。罪人の姿であります。しかし、同時に、ある人たちは人を思いやる「思いやり」に満ちていました。ないものを分かち合い、やさしい言葉をかけ合い、お互いに励まし合ったのです。小さなビスケットをみんなで分けて食べました。

 神様は、あの東日本大震災を通して、私たちに本来の人間のあるべき姿を教えようとされたんじゃないか、そんなふうに私は思っています。

 イエス様は「互いに愛し合いなさい」と教えられました。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」(マタイ19:19)。それが聖書の基本的な教えであります。

 困っている人、助けを必要としている人がいれば手を差し伸べていく。人間のやさしさ、思いやり。困っている人がいれば痛みを分かち合い、慰め合い、助け合う。それが本来の人間のあるべき姿ではないでしょうか。

 神様は、あの限界状況の中で、本来の人間のあるべき姿、光の子・神の子の姿を私たちに思い起こさせようとされた。そんなふうにも私には思われる訳であります。

 人間には、確かに「闇の部分」もあります。人を傷つけても、自分さえよければそれでいいという、そういう思い。生きるためには何をしても仕方ないという、そういう思い。水や食糧がなければ、有る所に行って、それを奪う。悪いことだとは分かっていても「生きるためだから仕方ない」と言う。そして、それを正当化する。そういう人間の「闇の部分」も確かにあります。

 しかし、それだけが人間の姿ではありません。人間には、神様に造られた「光の部分」もあるのであります。残っているのであります。

 繰り返しますが、私たち人間には「光の部分」と「闇の部分」があります。でも、「今は主に結ばれて、光となっている」、「私たちは光の子である」というのが聖書のメッセージであります。光である神様・イエス様と結ばれて、今や私たちは「光の子」となっている。

 勿論、このように言われても、私たちの現実はと言えば、必ずしもそうであるとは限らない。
「あなたは洗礼を受けてクリスチャンになったのだから、あなたはもう光の子なんですよ」なんて言われても、なかなかピンと来ない。あるいは、自分が「光の子」なんて、ちょっと抵抗がある。そんなふうに思っておられる方もおられるかも知れません。

 自分はイエス様を信じているから「光の子」なんだと、堂々と言える人、そういう人も勿論おられます。でも、すべての人がそうとは限らない。特に、謙遜な人ほど「光の子と呼ばれるには抵抗がある」と、そんなふうにおっしゃる方もおられる訳であります。

 しかしながら、聖書はイエス様を信じ、イエス様と結ばれている者は、みな「光の子」であると、はっきりと宣言しているのであります。

 にもかかわらず、自意識がないと言うのでしょうか、私たちは自分が「光の子」であるという自覚があまりない。逆に抵抗がある。どこに問題があるのでしょうか。

 それは多分私たちが「光の子らしく歩んでいない」からではないでしょうか。「光の子として歩みなさい」と言われているのに「光の子らしく歩んでいない」。どうもそのあたりに問題がありそうであります。

 それでは「光の子らしく歩む」というのは、一体どういう事なのでしょうか。どのような歩み、具体的にどうする事が「光の子らしい歩み」なのでしょうか。

 今日のテキストの所には消極的な表現として「暗闇の業に加わらない」という事が記されております。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(5:11)。
 「暗闇の業」、それは別の聖書の言葉で言えば、「肉の業」と言ってもいいかも知れません。

 で、この「肉の業」についてガラテヤ書の5章19節以下には、このようにまとめられております。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、⑳偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他この類(たぐ)いのものです」。

 このような「肉の業」「暗闇の業」に対して、聖書は「霊の結ぶ実」という事で、このようにも語ります。先程のガラテヤ書の続きですが、ガラテヤ書5章の22節以下。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

 これらを見ますと「光の子らしく歩む」というのは、肉の業として挙げられております「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」そういうものを避けて、霊の結ぶ実、すなわち「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といった、そういうものをめざして歩む事だとも言えそうであります。

 しかしながら、「光の子らしい歩み」というものを、このような道徳的な意味だけで捕らえ、パターン化してしまったらどうなるでしょうか。

 確かに、「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」としても、「光の子らしい歩み」というものを、先程のようなパターン化されたものだけで捕らえますと、結局、それらを私たちは守らなければならないという事になってまいります。
 そして、そこから守れる者は「光の子」だけれども、守れない者は「光の子ではない」というような、そういう事にもなってしまうのではないかと思うのであります。

 先程の「肉の業」として挙げられていたものを数えますと15種類あります。また、霊の結ぶ実として挙げられていたものは9つあります。その他にも、例えば、「人のものを盗んではならない」あるいは「あなたの父と母とを敬え」とか「偽証をしてはならない」とかといった旧約聖書の十戒、あるいは、今日のテキストにあります「正義」とか「真実」、勿論、内容的には重複するものがあると思いますけれども、とにかく、聖書に記されている、そういう全ての勧め、教え、そういうものを一つ一つ守る事が「光の子らしい歩み」なんだとしたら、どうなるでしょうか。私たちは到底「光の子」なんかにはなれなくなってしまうのではないでしょうか。

 しかし、聖書はそういう一つ一つの教え、掟を是非とも守らなければならない。守らなければ「光の子」としての資格はないというような事を言っているのでしょうか。
 勿論、「…しなさい」と書いてある限りにおいては、守る事が勧められている訳ですし、一つでも多くの教えを守るということは、これはとても大切なことであります。「…しなさい」あるいは「…してはならない」と教えられているのに、そんなのはどうでもいいとは決して言えないのであります。

 しかしながら、そう教えられていても、それが守れないからと言って、私たちは「光の子」の資格を剥奪される訳ではないのであります。なぜならば、守ろうとしても守れない、そういう弱い私たちのために、イエス様は十字架におかかりになったからであります。

 しかし、だからといって、守れないものは守れない、仕方ないと言って開き直る事は許されません。私たちは時として、こんな事は私には出来ません、そんな能力は私にはありませんなんて言って、すぐ逃げ腰になる事があります。出来ない事を正当化してしまうのであります。

 でも、本当に出来ないのかどうか、しようとしないだけなんじゃないか、面倒くさいからやらないだけなんじゃないか、そういう事を、私たちはもう一度素直に反省しなければならないと思うのであります。

 「光の子らしく歩む」。これは決してパターンがある訳ではありません。こうする事が「光の子らしい歩みなんだ」というような事は、なかなか言えないと思うのであります。

 でも、聖書は言っています。今日の5章10節、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)。

 「光の子」は、「何が主に喜ばれることなのか」をしっかりと吟味する。理解しようとすることが、やはり大切なのではないでしょうか。そして、神様に喜ばれる歩みを少しでもして行こうという、そういう気持ちを持って歩むことが必要なのではないでしょうか。

 私たちの毎日の具体的な生活の中には、いろいろな事がありますし、やらなければならない事も沢山あります。そして、そういう生活の中で、何が、どうする事が、本当に主に喜ばれる歩みなのか、神様に喜ばれる歩みなのか、どのような歩みが、光の子らしい歩みなのか、そういう事を少しでもわきまえ知らなければならないのだろうと思うのであります。

 勿論、繰り返しますが、こうする事が、光の子らしい歩みなんだというパターンがある訳ではありません。しかしながら、私たちは少しでも、主に喜ばれ、神様の御心にかなうような歩みをして行こうと、そんなふうに思いたいと思います。

 私たちが神様の方に心を向け、やる気を出せば、きっと道は開かれると思いますし、神様は温かい愛の御手をもって導いてくださると思います。要は、自分が神様の前にどのように生きて行くのか、その心構え、その決断一つにかかっていると言えるのではないでしょうか。

 「あなた方は、主に結ばれて、光の子である」。これは、聖書の宣言であります。
私たちは、光の子となる為に頑張る必要はありません。既に私たちは「光の子になっている」からであります。
ですから、光の子として、少しでも神様に喜ばれるような、そんな歩みを目指して歩んで行きたいと思います。

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