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説教 「神に倣う者」
               (エフェソ 5:1-5)      2015/08/30
(於・三条教会)
 今日の聖書の箇所は、先程お読みいただきましたエフェソの信徒への手紙の5章の所であります。最初にこのような言葉がありました。「あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。

 「あなた方は神様に愛されている子供なんだから、神に倣う者となれ」と、聖書は言う訳であります。イエス様も、マタイ福音書の中でこのように言っています。「あなた方の天の父(神様)が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ5:48)。要するに「神様のようになれ!」ということであります。

 「あなた方は神に倣う者になれ!、神様のようになれ!」。

このような言葉を聞く時、私たちはどんな思いを持つでしょうか。聖書は、とんでもないことを教えている。「神のようになれ!」なんて言われても、私たちには到底無理、不可能。そんなふうに戸惑う人も多いのではないでしょうか。

 それでは、聖書は私たちに出来ないような、不可能な事をあえて語っているのでしょうか。そうとも言えないと思うのであります。聖書には前後関係というものがありまして、お話の流れの中でいろいろな事が語られている訳であります。「神に倣う者になれ」というのでも、それは単に「神のように全知全能、完璧な者になれ」というのではなくて、前後関係から読めば、もっと具体的なことが語られていることに、私たちは気がつくのではないでしょうか。

 それでは、それは何か、ということですけれども、それは結論から先に言えば、「赦し合う」ということ、それから「愛によって歩む」ということ、それが「神に倣う者となれ」という具体的な意味、まあ、こんなふうに言ってもいいと思うのであります。

 今日の聖書の箇所は、新共同訳聖書では4章の25節から「新しい生き方」という小見出しが付いている所にあります。文章の流れも、4章は4章、5章は5章ということではなくて、4章、5章、これは続いています。

 よくクリスチャンの方は、「聖書を毎日読みましょう」なんて言われ、「一日一章」ということで、聖書を1章ずつ読み進めるという人もいます。とてもすばらしいことであります。でも、時には、今日の所のように4章5章、分けて読むのではなくて一緒に読んだ方がよいような、そんな所もある訳であります。

 もともと聖書には何章何節というような、そういう章とか節というものはありませんでした。でも、章とか節というものがあった方が読みやすいということで、章とか節というものが付け加えられた訳であります。「章」は1227年頃、ラングトン(Stephen Langton)という人によって付けられ、「節」は、旧約聖書は1448年ユダヤ人のナタン(Nathan)という人、また新約聖書の節は1555年ロベール・エスティエンヌ(Robert Estienne)という人によって付けられたと言われています。

 私たちの使っている聖書は、章とか節とかという番号が付いていて読みやすくなっていますが、もともとの聖書、原典と呼ばれる聖書には章とか節というものはありませんでした。ですから、「一日一章、毎日聖書を読みましょう」なんて言われても、額面通り一日一章、「昨日は4章だったから今日は5章」、こんなふうにこだわる必要はないと思います。クリスチャンの人は真面目な人が多いようで、なんでも生真面目に受けとめがちですが、あまり神経質にならずに、もっと融通性をもってもいいのではないでしょうか。

 ということで、今日のお話に戻りますが、今日の所は、4章の最後の所、32節の所に「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい」とあり、続いて5章1節「あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と、ある訳であります。

 このように続けて読みますと、「神様に倣う」というのは、「神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合う」ということ、そんなふうに言えるのではないでしょうか。

 それから、今度は、「神に倣う者になれ」という言葉のすぐ次の言葉ですが、5章の2節には「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げてくださったように、あなた方も愛によって歩みなさい」とあります。

 「キリストが私たちを愛して下さったように、あなた方も愛し合いなさい」。これが、もう一つの「神に倣う」ということではないでしょうか。

 要するに、「赦し合う、愛し合う」。それが「神に倣うということ」。こんなふうに理解すれば、「神に倣う者となれ」と言われても、私たちは少し安心する事が出来るのではないでしょうか。

 マタイ福音書の中で、イエス様が「あなた方の天の父(神様)が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ5:48)というのでも、それは、文脈から言えば、神様が全ての人を平等に愛しておられるように「私たちも平等に人を愛しましょう」ということが勧められているのではないでしょうか。

 「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)、そういう平等なお方。だから、あなた方も同じようにしなさい。平等に人を愛しましょう。そういうことが「完全な者となれ」という言葉で語られている。そんなふうに理解することも出来るのではないでしょうか。

 「神に倣う者となれ」とか「神のように完全な者となれ」なんていう、こういう言葉だけを聞けば、私たちは、そんなことは無理、不可能、そんなふうに思ってしまう訳ですが、それは「赦し合うこと、愛し合うこと、しかも平等に愛し合うということ」、そんなふうに受けとめれば、少し安心することが出来るのではないでしょうか。

 いずれにせよ、聖書はそんなに難しいことを私たちに教えている訳ではないと思います。神に倣う者となりなさい、あるいは、神のように完全な者となれ!と教えられていても、その言葉だけを取り上げるのではなくて、聖書が教えようとしている事柄に、私たちは耳を傾けて行ければと思います。

 で、そういうことで、もう一度今日の所を考えてみたいのですが、5章1節の所には、「あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」とある訳であります。そして、これは前後関係から、「神に倣う」というのは、「赦し合うこと」、また「愛し合うこと」。そういうことが教えられているというお話を先程させていただきました。

 それでは、「神に倣う」ということが、どうして「赦し合い、愛し合う」ということになるのか。言い換えるならば、「赦し合い、愛し合う」ということが、どうして「神様に倣う」ということになるのか。もう少し詳しく聖書を見てみたいと思います。

 繰り返しになりますが、先程の4章32節には、「神がキリストによってあなた方を赦してくださったように」、また5章2節には、「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げてくださったように」なんてありました。

 で、ここで語られているのは、イエス様の十字架と十字架による罪の赦しということであります。神様は、イエス様の十字架によって私たちの罪を赦し、また、それによって私たちに御自身が「愛の神」であることを示されたのでありますね。

 「神がキリストによってあなた方を赦して下さった」。それは、イエス様が十字架の道を歩んで下さったが故に、私たちの罪が赦されたということであります。そしてイエス様はそのために御自身を供え物、いけにえとされたのでありますね。そのようなイエス様の歩み、また神様の働きというものが先ずあって、私たちのあり方、生き方というものが示されて行くのであります。

 神様が私たちを赦してくださったんだから、そのように私たちも人を赦して行かなければならない。イエス様が、神様が私たちを愛してくださったんだから、私たちも人を愛して行かなければならない、それが「神様に倣う」というあり方、生き方へとつながって行くのであります。

 「神に倣う者となれ」。それはイエス様が、神様が示して下さった行為を、私たちもまたまねていく、倣っていくという、そういうあり方なのであります。

 ところで、「神様に倣う」ということが、「人を赦すこと」あるいは「人を愛すること」ということですけれども、これは表現は違いますけれども、同じことを語っていると言ってもいいと思います。なぜならば、人を赦すこと、それは、言い換えれば「人を愛する」ということでもまたあるからであります。

 弟子のペトロがイエス様に「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねた時、イエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えられました。

 そして、天の国、神の国はこのようなものだということで、次のような譬話を語られました。これはマタイ福音書の18章21節以下にあるお話ですけれども、このようなお話があります。

 ある王様が家来たちに貸したお金の決済をしようとした時のお話であります。非常に多額の借金、まあ聖書には一万タラントンとありますけれども、とにかく非常に多額の借金をした家来が王様の前に呼び出されて来る訳であります。しかし、この家来は借金が返せず、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように王様から命じられます。

 家来はどうしてよいか分からず、ただ王様の前にひれ伏して「どうか待ってください。きっとお返ししますから、どうぞ待ってください。」としきりに願ったというのであります。で、王様はその様子を見て、その家来が憐れに思えて、彼を赦し、その借金を全部帳消しにしてやりました。(なんと太っ腹な王様でしょうか。)

 ところが、この赦された家来は、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、その仲間の首を絞め「借金を返せ」と言ったというのであります。そして仲間が「どうか少し待ってくれ」と頼んでも、彼は耳を貸さず、借金を返すまで牢屋に入れてしまった。

 で、この事を聞いた先程の王様は、その家来をもう一度呼び出し、厳しくこのように言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と。そして、王様は怒ってこの家来を捕らえて、借金を全部返済するまで牢屋に入っておれ、ということで牢役人に彼を引き渡したというのであります。

 そして、このお話の最後で、イエス様はこのように語られました。「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなた方に同じようになさるであろう」。

 ここでイエス様は「七を七十倍するまで赦す」ということがどういうことなのか、また、私たちがお互いに赦し合わなければどうなるのか、ということを教えている訳ですけれども、これは言い換えれば「愛とはどういうものなのか」ということでもあるように思う訳であります。

 王様が一万タラントン借金している家来を赦したのは、王様の「愛」からであります。王様はその家来の姿を見て憐れに思って、彼を赦してやりました。それは王様の「愛」と言ってもいいと思うのでありますね。

 「愛は人をさばかず、人を赦す」という言葉がありますけれども、愛は人の過ち、人の罪を赦すのであります。

 そう言えば、「天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」と語られたイエス様は、その言葉のすぐ前の所で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられました。

 「敵を愛する」ということは、敵を赦すということであります。「自分を迫害する者のために祈れ」ということも同じであります。「愛」というのは「赦すこと」、このように言い換えてもいいのではないでしょうか。

 「神様は愛である」と言われます。それは神様が「私たちの罪を赦して下さったからであります」。言い換えるならば、赦してくださる神様であるが故に、私たちは神様を愛のお方として受け止めることが出来るのであります。

 キリスト教の神は「愛と赦しの神である」とよく言われますが、「愛と赦し」、実はそれは一つのものであります。「愛は人を赦す」のであります。私たちも、神に倣って、少しでも人を赦し、人を愛して行ければと、そんなふうに思います。

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