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説教 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
               (マタイ 9:14-17)      2015/08/16
(於・燕教会・三条教会朗読)
 「新しい酒を古い革袋に入れる」、あるいは、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」なんていう「格言」があります。これらは先程お読みいただきましたマタイ福音書の9章17節の言葉から取られた「格言」であります。

 マタイ福音書9章の17節には、このようにあります。
 「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(マタイ9:17)

 新しいぶどう酒、酒を古い革袋に入れると、革袋が破れてしまう。新しいぶどう酒は発酵がすすみますと膨らんで革袋を膨らませます。古い革袋はのびきっていますから、その圧力に耐えられず破れてしまう。だから、新しい酒は、新しい革袋に入れるべし、新しい革袋に盛れという訳であります。

 この格言は、一般的には、新しい内容や考えを古い形式にあてはめますと、共に生きない、要するに、共に駄目になるということから、新しいものには新しい入れ物が必要だという、そういう意味でよく使われます。

 「新しい酒を古い革袋に入れる」、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」。

 今や、時代が変わり、社会がいちじるしく変わっています。新しいものがどんどん生まれてきています。ですから、古いものにこだわっていると取り残されてしまう。そういうこともあります。実際、100年前と今とでは生活様式も全然違います。100年と言わず、この50年を見ても、私たちの生活は相当違って来ているのではないでしょうか。

 50年前。携帯電話なんてありませんでした。今では携帯を持っているのが当たり前。私も一応携帯を持っておりますが、いつも不携帯で繋がらないことが多い。普通の電話ですとすぐ出られるのですが、携帯ですと近くにあってもすぐには出られない。大体どこに携帯を置いたのかよく覚えていないというような、そんな状態ですから、音だけは鳴っていても、そこに行き着くのにも時間がかかる。やっと見つけて携帯を手に取ると、もう切れている。そんなことも多い訳であります。

 50年前。100円のものは100円で買えました。100円という値札(ねふだ)がついていれば、100円払えばよかったんでありますね。でも今は100円と書いてあっても100円では買えないこともある。税込み100円て書いてあればいいのですが、そうじゃないと108円払わないと買えない。そういうこともある。

 50年前、インターネットなんてありませんでした。そもそもパソコンなんてものもなかった。でも、今ではインターネットなんて当たり前。買い物だって、商品が同じものであれば、インターネットで買った方が安いものも沢山ある。勿論、消費税や送料のこともありますから慎重に考えなくてはなりませんが、でも、そういうことを考慮しても、ネットの方があきらかに安い。そういうものも沢山ある訳であります。しかも、自宅まで届けてくれる。便利な時代になりました。

 時代が変わり、社会がいちじるしく変わって来ている時代。いつまでも昔のあり方にこだわっているとついて行けない。取り残されてしまう。そういうことが実際あるように思います。

 「昔の方がよかった」とか「生きづらい世の中になった」なんて言う高齢者の方の声も時々聞きますが、それは、昔をなつかしむということもありますが、なかなか時代の変化について行けない、そういう現実を語っている言葉でもあるのではないでしょうか。

 新しいぶどう酒、酒を、古い革袋に入れると、革袋が破れてしまう。昔人間の多くは、破れそうになっているのではないでしょうか。だから、「新しい酒は、新しい革袋に入れるべし」。時代が変わってきているのだから、私たちも変わらなければならない。確かに、そうなのかも知れません。

 でも、今日のイエス様の言葉。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」という、この言葉は、単にそういうことを教えている言葉なのでしょうか。

 確かに、この言葉は、先程も申しましたように、新しいものを生かそうとすれば、古いものではなくて、新しい器、新しい入れ物が必要になるという、そういうことを教えているんだろうと思います。でも、問題は、イエス様が「新しいぶどう酒」ということで語ろうとしている「事柄(ことがら)」ではないでしょうか。

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきである」。確かに、そうであります。それでは、その「新しいぶどう酒」というのは、一体何でしょうか。

 今日のお話の所には「断食についての問答」という小見出しがついておりまして、こんなお話が載っています。

 ヨハネの弟子たち、これは洗礼者ヨハネの弟子たちということでしょうが、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエス様のところに来て、こんなことを言ったというのであります。

 「私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マタイ9:14)

 それに対して、イエス様は、このように答えられました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」(マタイ9:15)

 イエス様の答えは明瞭であります。今は結婚式のようなうれしいとき、喜ばしいときだから、断食なんかしないということであります。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。

 イエス様の時代、結婚式は非常に盛大に行われたようでありまして、特に婚宴、日本で言えば披露宴ですが、披露宴は長いときには七日間も行われたということであります。新郎新婦、花婿や花嫁は王様や王妃のように扱われ、親しい友人たちは「花婿の子どもたち」なんて呼ばれて、みんなで飲み食いしてお祝いしたのであります。そして、この披露宴の間は、断食をする義務も免じられていた。

 当時のユダヤでは、新年に行われる大贖罪日の断食のほかに、4月、5月、7月、10月の年4回の断食、また、悲しみや悔い改めを行う時などにもよく断食をしたようであります。ヨハネの弟子たちは、「私たちとファリサイ派の人々はよく断食している」と言っていますが、これは週2回、月曜日と木曜日の断食のことを言っているのだと思います。ルカ福音書の18章9節以下にある「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ話の中に、「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げている」(ルカ18:12)というファリサイ派の人の祈りがありますが、実際に彼らは毎週、月曜日と木曜日に断食をしていたのであります。

 でも、そういうユダヤ人がよく守っていた「断食」も、結婚式のときにはしなくてもよかった。おめでたい時だから、断食なんてふさわしくないという、そういうことなんでしょうが、とにかく、結婚式で花婿・花嫁がいるときには、断食なんかしなかった。しなくてもよかった訳であります。

 でも、「花婿が奪い取られる時が来る」とイエス様は言われます。そして「そのとき、彼らは断食することになる」と、こう言われた。これは、どういうことなんでしょうか。

 ここで語られている「花婿が奪い取られる時」というのは、これは「イエス様が十字架に付けられる時」ということを語っているんだろうと思います。イエス様は、このあと十字架につけられ殺されてしまうのでありますね。そして弟子たちの前からいなくなってしまう。花婿が奪い取られるのであります。その時には、弟子たちも断食をすることになる。

 でも今は、先程申しましたように、結婚披露宴のような、そういう喜びの時なんであります。イエス様が目の前におられるのであります。イエス様は、神の福音を宣べ伝えて、このように言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。 神の御子・イエス様と共に神の国がこの世に来たのであります。

 イエス様は、繰り返し繰り返し「神の国」のお話をされました。神の国は、からし種のようなものである。それはどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る(マルコ4:30-32)。
  また、神の国はパン種に似ていると言われ、女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れるように、神の国も膨れあがっていくんだと教えられました(ルカ13:20-21)。

 イエス様は、神の国についていろんなお話をされ、また、病気の人をいやしたり、悪霊に取り憑かれている人もいやされました。そして、言っています。「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、すでに神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。(マタイ12:28)

 イエス様は、神様から遣わされ、この世に神の国をもたらそうとされたのであります。イエス様を中心とした神の国が今目の前にやって来ているのであります。そういう喜ばしい時に、断食なんかしてはいられない、弟子たちにも断食なんか勧められないというのが、先程の「花婿が一緒にいる間は」という結婚披露宴のたとえなんだろうと思います。

 要するに、今は、うれしい時、喜びの時、祝いの時なんであります。イエス様と一緒に神の国がやって来たという、そういうすばらしい時なんであります。「新しいぶどう酒」のお話で言えば、今まさに「新しいぶどう酒」が与えられたのであります。 「新しいぶどう酒」。それは、イエス様と共にこの世にやって来た「神の国」、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきである」。確かに、格言としては、新しいものには、新しい入れ物が必要だというような、そんな意味になるのでしょうが、イエス様が教えようとされたのは、「神の国が来ているのだから、素直なまっさらな気持ちで神の国を信じなさい。受け入れなさい」ということではないでしょうか。

 確かに、今日のたとえ話。「だれも、古い服に新しい布きれで継ぎ当てなんかしない」とか、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者なんていない」なんて、「新しい」とか「古い」という言葉が繰り返し出て来ます。これは、イエス様によってもたらされた新しい世界と古いユダヤの伝統の問題と言ってもいいのかも知れません。

 でも、イエス様は必ずしも、ユダヤの伝統、ユダヤ人が守って来た律法や預言者を否定している訳ではありません。
 イエス様は言っています。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである(前の聖書では「成就するためにきた」とあります)」(マタイ5:17)

 イエス様は、古いものはどうでもいいというようなことは言っていないのであります。そうではなくて、完成するため、成就するため、ユダヤの人たちが大切にしてきたものを成し遂げる、完成・成就させるために来たというのであります。

 これは、単に古いものはダメ、新しいものがいい、というような、そういう短絡的な発想ではありません。そうではなくて、新しいものによって、古いものも生かされるという発想ではないでしょうか。

 長い間ユダヤの人たちが守り育てて来た神の国への道。それが今イエス様によって成し遂げられようとしている、完成しようとしているのであります。そのためにこの世に来られたのがイエス様なのであります。

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」。
 これは単に「イエス様によってもたらされた新しい世界と古いユダヤの伝統という「対立の問題」ではありません。対立ではなくて、イエス様がもたらした神の国の福音は、ユダヤ教の伝統という枠には入りきれない、おさまりきれないという問題なのであります。
 どちらがいいのか。古いものがいいのか、新しいものがいいのかというような、そういう問題では決してないのであります。

 イエス様の福音は、神の国がイエス様と共にこの世にやって来たという、そういう喜ばしい福音であります。喜びが与えられたのであれば、その喜びを感謝をもって受け入れ、みんなでその喜びを分かち合えばいいのではないでしょうか。わざわざ断食してつらい思いをする必要はない。古い慣習や、古い伝統に固執する必要もないのであります。

 織りたての新しい布があれば、その新しい布で新しい服を作ればいい。わざわざ古い服に継ぎ当てをする必要はない。また、新しいぶどう酒が与えられたのであれば、伸縮性のない古い革袋を使うのではなくて、新しい革袋を用意することが必要なのであります。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」なのであります。

 イエス様によって新しい世界が与えられたのであれば、その新しい世界を新しい気持ちで受け入れることが大切なのではないでしょうか。

 古いもの。いいものがいっぱいあります。でも、古いものにこだわる必要はありません。伝統も大事です。でも、伝統に縛られる必要はありません。

 私たちは、イエス様を、そしてイエス様が与えてくださった新しいすばらしい世界を、新しい気持ち、新しい革袋で、受け入れて行く者でありたい、そんなふうに思います。

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