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説教 「ともし火と油」
               (マタイ 25:1-13)      2015/08/09
(於・三条教会・燕教会録音)
 今日のお話は、「十人のおとめ」のたとえ話であります。十人のおとめが「ともし火」をもって花婿を出迎えるというお話。

 で、このお話は、花婿が出て来たり、婚宴の席というような、そんな言葉も出てきますから、結婚式のときのお話と言ってもいいと思います。

 それでは「十人のおとめ」とは一体誰でしょうか。花嫁さんが10人もいたということなんでしょうか。
 まあ、これはたとえ話ですから、そんなふうに考えてもいいかも知れませんが、でも、現実的には、この「十人のおとめたち」、彼女たちは「花嫁さんの付き添い・友だち」、そんなふうに理解した方が分かりやすいと思います。

 当時のユダヤでは、新郎と新婦は婚約してから約1年後に夫婦生活を始めたらしいのですが、その時盛大な祝宴・婚宴が開かれたと言われています。
 で、その婚宴は、普通は花婿の家で開かれたそうですが、その前に花婿は友だちと一緒に花嫁の家に花嫁を迎えに行ったんだそうであります。
 そして花婿の友だちが音頭を取り、また、花嫁の友だち・付き添いの友だちも美しく着飾って、花婿花嫁二人を婚宴の席に導き、盛大な祝宴が開かれた。

 で、今日のお話では、花婿の到着が「真夜中」という事になっておりますし、また、花婿の到着と同時に花嫁の家で「婚宴」が始まったようで、少々これは異例の結婚式というお話になっていますが、いずれにせよ、今日出てまいります「十人のおとめたち」、彼女たちは「花嫁の友だち・付き添いの友だち」、そんなふうに理解しますと分かりやすいと思います。
 花嫁が10人いたというよりはずっと分かりやすいのではないでしょうか。

 ところで、今日のお話は、この「十人のおとめ」が、「ともし火」をもって花婿を出迎えるというお話ですが、五人は「ともし火の油」まで用意していたのに、残りの五人は油を用意していなかったというお話であります。

 花婿が予定通り到着すれば油の予備は必要なかったのかも知れません。でも、花婿の到着が遅れたので、とんでもないことになってしまった。彼女たちは、婚宴の席・祝宴の席に入れてもらえなかったというお話であります。

 で、このお話は、「天の国は次のようにたとえられる」(マタイ25:1)とありますように、天の国・神の国に入れてもらえるか、閉め出されるかという、そういうお話である訳ですけれども、このお話から、私たちはいろいろなことを教えられるのではないでしょうか。

 先ず第一はやはり「用意周到」ということがあると思います。「賢いおとめたち」は、ともし火と一緒に、壷に油を用意していた。でも「愚かなおとめたち」は、油を用意していなかった。今ある「ともし火」だけで十分だと思っていたのであります。

 でも、実はこの「油」が大事なのではないでしょうか。油がなければ、いずれ「ともし火」は消えてしまうのであります。その事に気付かないと大変なことになる。

 勿論、予定通り、花婿が到着していれば、何も問題はなかったのであります。今ある「ともし火」だけで十分だった。でも、実際は何が起きるか分からないのでありますね。

 「予定は未定」という言葉がありますけれども、こうしよう、ああしようと、いろいろ計画を立てても、実際にその通りになるとは限らない。それが私たちの現実であります。

 何時に誰々さんとお会いして「こうする」、そして、そのあと「こうして」、それが終わったら「ああしよう、こうしよう」。私たちはいろいろ計画を立てます。でも、いくら計画を立てても、最初の「何時に誰々さんとお会いする」ということがドタキャンになれば、そのあとの予定が大部狂ってしまう。

 「予定は未定」。何時までにどこそこに行かなければならない。でも、途中で事故にでも巻き込まれれば、約束の時間までに着くことができない。こういうこと、いくらでもあるのではないでしょうか。

 だからこそ「余裕をもって」なんてことも言われる訳ですけれども、余裕をもって行動しても、それでも想定外のことが起こる。

 例えば、地震とか噴火とか、あるいは、突然飛行機が落っこちてくるなんてことだってある。要するに、何が起きるか分からない。それが私たちの現実というものなんだろうと思うのであります。

 今日のお話では、花婿の到着が遅れたということですが、このくらいのことなら、これは想定「内」と言ってもいいんだろうと思います。

 想定「外」のことに関しては、これはどうしようもないということがあります。でも、想定「内」のことであれば、それなりに「用意周到」、準備をしておくということも必要なのではないでしょうか。

 花婿の到着。遅れるかも知れない。遅れたら今ある「ともし火」だけでは十分ではない。だから油もしっかり用意しておく。これが「賢いおとめたち」でありました。

 でも、「愚かなおとめたち」は、油を用意しておかなかった。今ある「ともし火」だけで十分だと思っていた。
 彼女たちは、油のことまでは気が回らなかったというのでしょうか、やはり知恵が足らなかったのかも知れません。

 いずれにせよ、何が起きるか分からない私たちの現実、何が起きてもいいように「用意周到」、出来るだけの準備はしておく。これは大切なことではないでしょうか。

 ところで、この「油」、それは「ここに油がありますよ」とはっきり分かるものなのかどうか。

 「油壷」があれば誰だって「油」がそこに入っているのではないかと思う。でも「油壷」だけでは、「油」が実際に中に入っているのかどうか、本当のところはよく分からないのではないでしょうか。ですから、これは「目に見えないものにも目を注ぐ」ということにもなるのかも知れません。

 油壷だけは持っていても、中に実際に「油」が入っていなければ、何にもならない訳ですから、そのあたりのことも、私たちはちゃんと確認しておきたいものであります。

 ところで、今日のお話。油を用意していなかったおとめたちは、油を用意していたおとめたちに、「油を分けてください」と頼みます。でも、彼女たちはあっさり断られてしまう訳であります。
 『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』と断られてしまう。

 これは見方によれば、少し冷たい言い方にも聞こえます。「油を分けてください」とお願いされているのに、「分けてあげられない」とつっぱねるのは、なんか冷たい感じがしませんでしょうか。

 私たちは、変なところで寛容というのでしょうか、情け深いところがありますから、油を用意するのを忘れた人たちについつい同情してしまう。「人間なんだから誰だって失敗することはありますよ」なんて言って、慰め合ったり励まし合ったりする。

 そして逆に、油を用意していた人たちを非難したりする。「あの人たちは冷たいね」なんて思ってしまう。

 確かに、私たちの日常生活の中で、「これ足りないからちょっと貸してね」なんて言われたら、貸してあげるのが当然かも知れません。自分も十分はないけれども、少しぐらいならば分けてあげることが出来るということで、分かち合う。それが当たり前。要するに「分かち合いの精神」。確かに、これも大切であります。

 でも、今日のお話は、そういうことがテーマではありません。今日のお話は、「天の国・神の国のたとえ話」であります。油を分けてあげなかったおとめたちが「冷たい人間」というような、そういうお話ではないのであります。

 むしろ、先程お話しましたように、彼女たちは「用意周到」、花婿の到着が遅れるかも知れない。遅れたら今ある「ともし火」だけでは十分でないから油もしっかり用意しておこうという、そういう「賢いおとめたち」なんであります。

 「油を分けてください」と言っているのに、「分けてあげない」。実際は、『分けてあげるほどはない』ということですから、これは必ずしも「冷たい」とは言えないのでしょうが、それよりも、ここでは、「分けてあげようと思っても、分けてあげられない」、そういうものも沢山あるというお話になっているじゃないでしょうか。

 「分けてあげようと思っても、分けてあげられない」。そういうものも沢山ある。そんなふうに理解して、このお話を読むことが大切なんじゃないでしょうか。

 それでは「分けてあげようと思っても、分けてあげられないもの」、どんなものがあるでしょうか。

 例えば、健康なんてものはどうでしょうか。自分の健康を人に分けてあげられるでしょうか。自分は健康でぴんぴんしているのに、子供がカゼで寝込んでいる、苦しんでいる。親としては本当にせつない。でも、親の健康を子供に分けてあげることは出来ないのであります。励ましたり慰めたりは出来るかも知れませんが、健康そのものを分けてあげることは出来ない。

 学校なんかでは、試験、テストがよく行われますけれども、自分は頑張って100点とったとしても、50点しか取れなかった人に、それを分けてあげることは出来ない。60点ないと落第と分かっていても、自分の点数を友だちに分けてあげることは、これは出来ないのでありますね。

 信仰だってそうじゃないでしょうか。自分の信仰、それがどんなに立派なものであっても、それを人に分けてあげることは出来ない。

 親は子供に信仰を持ってもらいたいと思っている。熱心なクリスチャンであれば皆そうじゃないでしょうか。熱心じゃなくてもそうだと思うのでありますね。子供にもキリスト教の信仰を持ってもらいたいと思っている、願っている、そういう親。沢山いると思います。

 でも、自分の信仰は自分のもの。いくら自分の子供だからといっても、分けてあげることは出来ないのであります。それが現実であります。

 今日の「十人のおとめ」のお話は、ともし火の油を用意していたか否かというお話であります。用意していたおとめたちは「賢いおとめたち」。用意していなかったおとめたちは「愚かなおとめたち」。

 でも、賢いとか、愚かとかというのは、結果として、そう言われる訳でありまして、最初から、「この人たちは賢い」とか「この人たちは愚か」ということではないんだろうと思います。

 で、聖書では、この賢いおとめたちのようになりなさい、ということが教えられているのだろうと思いますが、ここで一つ考えてみたいことがあります。

 それは、このお話が、天の国・神の国に入れてもらえるか、閉め出されるかという、そういうお話であるとするならば、私たちはどうしたらよいのか、ということであります。

 勿論、賢いおとめたちのようになる。それがメインテーマなんだろうと思いますが、これを私たちの信仰生活に当てはめて考えてみますと、どういう事になるのでしょうか。

 ともし火の「油」、それが「ともし火」をともし続ける原動力という事で言えば、「油」は私たちの信仰生活にとって“なくてはならないもの”、すなわち、聖書の御言葉と言ってもいいのではないでしょうか。

 聖書の御言葉がありませんと、私たちの信仰生活の火はいずれ消えてしまう。この世の考え方や人の意見、この世の常識、そういうものに左右されて、信仰のともし火が消えてしまうのであります。
 ですから、聖書の御言葉を用意周到、いつも準備しておく。そういうことが大切なのではないでしょうか。

 聖書の御言葉をしっかりと身に着け、用意しておけば、いつどんなことが起こっても大丈夫。
 今日のお話は、イエス様がいつ来られるか分からないから、「目を覚ましていなさい」ということが言われている訳ですけれども、たとえイエス様の再臨の日がいつ来ても、聖書の御言葉をしっかりと持っていれば、あわてふためく必要はないんでありますね。

 私たち、いつも聖書の御言葉に触れ、養われ、また、聖書の御言葉を少しでも行いながら、信仰の「ともし火」を、これからもともし続けて行きたいと思います。そして聖書にあるような「賢いおとめたち」に変えられ、天の国・神の国に迎え入れられる者でありたい、と思います。

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