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説教 「賢い人、愚かな人」
               (マタイ 7:24-29)      2015/07/26
(於・三条教会)
 今日は、「賢い人、愚かな人」ということについて考えて見たいと思います。

 私たちは「賢い人」なんて言いますと、普通、頭のいい人とか、いろいろなことをよく知っている人、いわゆる「物知り・博学者」、あるいは、この世の処世術にたけている人、世渡りが上手な人、そういう人を思い浮かべるかも知れません。

 池上 彰さんという人、知っている人も多いと思います。NHKを退職後(2005.3月)、今はフリーのジャーナリストとして活躍しています。『そうだったのか!何とか』という本や政治・経済・国際問題等の本も沢山書いていますし、テレビにもよく出ております。
 NHK時代には『週刊こどもニュース』でお父さん役を務めて人気をはくし、今でも『そうだったのか!池上彰の学べるニュース』とか、『池上彰の何とか』ということで、テレビでも大活躍。
 今は東京工業大学の教授、名(めい)城(じょう)大学の特別講師、信州大学の特任教授、京都造形芸術大学の客員教授、愛知学院大学の特任教授等、大学からもひっぱりだこで、とにかく、池上さんの語るニュース解説は分かりやすくて多くの人から好評を博しております。テレビでは「自分の意見言わない」ということでも有名であります。

 池上彰さんは、私と同じ1950年生まれですが、私なんかととは段違いの“賢い人”なんだと思います。
また、“賢い人”と言えば、ノーベル賞をとるような人もそうでしょうし、少しニューアンスは異なりますが“ずるがしこい人”だって沢山おります。

 聖書の中にも、賢い人、沢山出て来ます。
 あのエジプトに売られたヨセフ、のちにエジプトの宰相、総理大臣になったあのヨセフ。
彼はエジプトのファラオから、こんなふうに言われています。
「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう」(創世記41:39)。 口語訳聖書は「あなたのようにさとく賢い者はない」とあります。
 ヨセフは、その知恵を用いて、飢饉のときも多くの人を助けました。

 また、ダビデの子の「ソロモン」。ソロモンと言えば、「ソロモンの知恵」という言葉があるくらい賢い人でありました。
 彼は、神様から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたとき、「民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、聞き分ける心」を求めました(列王記上3:9)。
 そして、「知恵に満ちた賢明な心」を与えられたといいます(列王記上3:12)。
ソロモンは、数々の難問を解決し、人々に多くの知恵を語りました。

 列王記上の5章12節以下の所には、ソロモンについて、このように書かれております。
 「彼の語った格言(箴言)は三千、歌は千五首に達した。彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた。あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた」。列王記上3章12-14節、口語訳聖書では、列王記上4章32-34にある言葉であります。

 とにかく、ソロモンは賢い王様だったようであります。 旧約聖書にある「箴言」、「コヘレトの言葉」、「雅歌」、これらもソロモンによるものだという、そういう書き方で書かれています。(各1:1)

 新約聖書にも、賢い人が出て来ます。例えば、ザアカイという人。彼は背が人一倍低かったものですから、イエス様がやって来たとき、イエス様を見ようとしても人に遮られて見えなかった。そこで走って先回りをして、いちじく桑の木に登り、イエス様から声をかけられた。そんなお話がルカ福音書19章1節以下にあります。
ザアカイは、瞬時にどうしたらいいのかということが分かる、そんな賢い人間だったのだろうと思います。

 勿論、イエス様だってそうであります。イエス様ほど賢い人はいなかったと言ってもいいかも知れません。
先週もお話しましたけれども、イエス様は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか、それとも適っていないか」と聞かれたとき、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられました。(マタイ22:15-21)

「どっちか」なんて聞かれたら、どっちが正しいのかと考えてしまうのが私たちですけれども、イエス様はその本質を見抜いて、本当の正しい答えを教えるのであります。イエス様ほど賢い人はいなかったと言ってもいいのではないでしょうか。

 確かに、賢い人というのは、歴史上、そして今も沢山いると思います。シャーロック・ホームズやポワロ、万能鑑定士のQちゃん(凜田莉子)なんかは小説の中の登場人物ですけれども、頭のいい人、いろいろなことをよく知っている「物知り」、いろいろな知識を沢山持っている人。そして、その知識を生かし、こういうときにはこうしたらいいということを的確に判断し実行できる人。賢い人には、だれでもあこがれるのではないでしょうか。
 勿論、「ずるがしこい」という人もおりまして、こちらは嫌われる傾向がありますが、いずれにせよ、「賢さ」にあこがれる人は多いのではないでしょうか。

 で、今日の聖書のお話ですけれども、今日の所には、「岩の上に自分の家を建てた人」を「賢い人」。「砂の上に家を建てた人」を「愚かな人」なんて呼んでいる訳ですけれども、でもこのお話は、単に「岩の上に自分の家を建てる人は賢くて」、「砂の上に家を建てるような人は愚かな人だ」というような、そういうお話ではありません。

 確かに、土台がしっかりしていれば、その家は長持ちするでしょうし、反対に、砂のような軟弱な土台の上では、どんな立派な家を建てたって、雨が降って洪水になったり、また、台風の時のような強い風が吹いたりすれば倒れてしまう。そういう可能性もあります。いわゆる「砂上の楼閣」であります。

 最近は、何十年ぶりの大雨で地盤がゆるんでいるとか、地盤がゆるんでいるので土砂災害に注意するように、なんて報道がよくなされます。そして実際、何十メートルにもわたって土砂が崩れ落ちたなんて話もよく聞きます。洪水や強風による災害。これからもまだまだあるかも知れません。

 地面の下、いわゆる「地下」は目には見えませんので、実際はどうなっているのかよく分からないところがあります。

 私が前におりました石巻の教会。そこには幼稚園もありまして、もう大部前ですけれども、地震で幼稚園の建物が数十センチ程沈んだことがあるそうであります。私が赴任する前なので詳しいことは分かりませんが、修理したあとがはっきりと残っています。実は石巻の教会は、あの東日本大震災で大きな被害を受けた石巻駅の近くに前はあったんだそうですが、細川先生という牧師先生の時代、今の所に土地を買って、教会と幼稚園を建てたんだそうであります。

 でも、その土地というのは、昔は湿地帯だった所で、昔は「南谷地」、南の方の湿地帯と呼ばれていた所でありました。住所も昔は「南谷地」でありました。その湿地帯を埋め立てて宅地にした所が、今の教会・幼稚園のある所であります。で、地震が起きたものですから、地盤沈下を起こして、幼稚園の建物が数十センチも沈んでしまった。そんなことが昔あったそうであります。

 ですから、家を建てるときは、その土地がどういう土地なのか、しっかり調査してから建てないと、あとで後悔する。地面の下、地下というのは、実際どうなっているのかよく分からないという所がある訳ですから、十分注意することが必要なんだろうと思います。

 今日のお話のように、地面の下が「岩」なのか、それとも「砂」なのか、そういうところまで気をつかうというか注意する。これは、聖書の言葉で言えば、「目に見えるものだけではなくて、目に見えないものにも目を注ぐ」(2コリント4:18)ということなんでしょうけれども、でも今日のお話は、単にそういうお話ではありません。

 今日のお話で大切なのは、イエス様の言葉を聞いてどうするかということであります。

イエス様は「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」ということで、賢い人と愚かな人のお話をしておられる訳であります。
 単に「岩の上に自分の家を建てる人は賢い人」。「砂の上に家を建てるような人は愚かな人」という、そういうお話ではない。そうではなくて、繰り返しますけれども、イエス様の言葉を聞いてどうするか。イエス様の言葉を聞いて、それを行うのか、それとも行わないのかという、そういうお話をしている訳であります。
 そして「イエス様の言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てるような賢い人」。でも、「行わない人は、砂の上に家を建てるような愚かな人」。そんなふうに言っておられる訳であります。

 ですから、問題は、やはりイエス様の言葉を聞いてどうするかということであります。私たちは、イエス様の言葉を聞いて、それを行っていく者なのでしょうか。それともただ聞くだけで終わってしまう者なのでしょうか。

 聞くだけだったら気楽なんであります。ただ聞くだけでいい。でも、ただ聞くだけでは、おもしろかった、参考になった、ためになった、ということだけでおしまい。それ以上のことはあまり望めません。勿論、聞かなければ話にもならない。そういうこともあります。知らなければお話にもならない。そういうことは確かにあります。でも、ただ聞くだけでは、それだけなのではないでしょうか。

 聖書の言葉を知っている、イエス様の言葉を知っている。それは確かにすばらしいことかも知れません。でも、単に知識として知っていても、それを実際に役立てなければ何の意味もないのではないでしょうか。

 イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と語られました。でも、悔い改めもせず、信じもしなければ、「神の国は近づいた」というすばらしい福音も、何の意味を持たなくなってしまうのではないでしょうか。

 賢い人、それはただ知っているだけの人ではありません。役立てることの出来る人だと思います。
 知識は必要であります。知らなければ話にもなりません。でも、本当に大切なのは、その知識を生かすことではないでしょうか。
 知っていることを生かし、実践していくこと、実際に役立てること、それが大切なのではないでしょうか。

 イエス様は、「私の言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と教えられました。しっかりとした岩、ゆるぎない土台の上に自分の人生を築いていくこと。それが大切なのではないでしょうか。

 ここでイエス様は「岩」という言葉を用いておりますが、イエス様が「岩」という言葉で語ろうとしているのは、動かないもの、不動なもの、確固たるもの、そういうものを象徴しているのだろうと思います。そして、それは私たちにとっては、聖書の言葉であり、イエス様の言葉であると、こう言ってもいいんだろうと思います。

 私たちは、聖書の御言葉、イエス様の言葉に耳を傾け、でも、ただ聞くだけではなく、それを行うことによって、私たちの人生を、日々の歩みを確かなものとして行きたいと思います。

 私たちの人生、いろいろなことが起こります。でも、しっかりとした「岩」の上に立っていれば、大丈夫。どんな大きな試練に遭おうと、困難に直面しようと、それに耐えていける、乗り越えていける。「砂の上に」立派な楼閣をつくりあげるのではなく、しっかりとした「岩の上に」、私たちの人生を築き上げて行きたいものであります。

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