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説教 「豚に真珠」
               (マタイ 7:6)      2015/07/19
(於・燕教会・三条教会朗読)
 「豚に真珠」という諺があります。
ある辞書には、「新約聖書‐マタイ伝から」とありまして、こんな説明がなされております。「価値のわからない者には、貴重な物も何の役にもたたない」ということのたとえ。同じような意味で「猫に小判」という言葉も挙げられておりました。

 「豚に真珠」。確かに、今日の聖書の所には「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方にかみついてくるだろう」とあります。
 価値の分からない者には、貴重な物、大切な物を与えても何の役にもたたない。正に「豚に真珠」であります。

 それでは、ここで語られている「神聖なもの」とか、「真珠」ということで語られているものとは、一体何でしょうか。普通、聖書のこの言葉を読む時、私たちクリスチャンは、「神聖なもの」と言えば、神様の御言葉である聖書、あるいは福音、また、教会で守られているいろいろな神聖な儀式、そういうものを思い浮かべるのではないかと思います。

 使徒言行録の18章5節以下には、こんなお話があります。
 パウロが「ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした」ところ、ユダヤ人は「反抗し、口汚くののしった」というのであります。そこで、パウロは服の塵を振り払って、このように言ったとあります。
「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。私には責任がない。今後、私は異邦人の方へ行く。」 使徒言行録18章5節~6節にあるお話です。

 神様に選ばれ「神の民」と言われていたユダヤ人。パウロはそのユダヤ人にイエス様のことを語ったのであります。イエス様が神から遣わされた神の子メシア・キリストであると語った。福音を語った。
 でも、ユダヤ人は、逆に反抗し、口汚くののしった。彼らは、パウロの語る福音、イエス様のことを受け入れようとはせず、逆に「かみついて来た」のであります。

 また、初代教会が大切にしていた「十二使徒のディダケー」。
「ディダケー」というのは教え、教訓という意味で、「十二使徒の教訓・十二使徒の教え」なんて訳されておりますが、この「十二使徒のディダケー・教え」の中には、聖餐式に関して、このように述べられております。
 「主の名によってバプテスマ・洗礼を受けた者以外は、誰もあなた方の聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。これについて、主は「神聖なものを犬に与えるな」と言われたからである」なんてあります(ディダケー9:5)。

 キリスト教会で聖礼典・神聖な礼典として守られている洗礼式とか聖餐式。
 で、聖餐式にはいろいろな考え方がありまして今でもいろいろ問題となっておりますが、初代教会では、「洗礼・バプテスマを受けた者以外は誰も聖餐式にはあずかれない」「洗礼を受けていない人には、パンと杯を与えてはならない」という、そういう教えがあった訳であります。

 そして、その根拠として、今日取り上げているマタイ福音書7章6節の言葉「神聖なものを犬に与えてはならない」という言葉が引用されているのであります。

 ですから、こういう事例をみますと、私たちは、聖書の御言葉、あるいは福音、また、教会で守られている様々な神聖な儀式、そういうものを、価値の分からない者に与えても、これはしょうがない。
 まあ、価値の分からない者には、貴重な物、大切な物を与えても何の役にもたたない。正に「豚に真珠」ということで、妙(みょう)にあっさりと納得してしまう、そういうところがあるのではないかと思うのであります。

 確かに、イエス様は「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方にかみついてくるだろう」と教えられました。

 これは、先程も見ましたように、初代教会の中で、実際に起こった出来事であります。また、私たちの現実の中でも実際に起こり得ることであります。イエス様のことを語り、聖書の言葉を語っても、かえって開き直り、かみついてくる、そういう人たちも実際にいるのであります。

 このイエス様の言葉は、昔も今も、人間の現実を語っている言葉と言ってもいいと思います。神聖なものを犬に与えても意味がない。真珠を豚に与えても意味がないのであります。その価値が分からない人には、貴重なものも何の役には立たないのであります。

 それでは、聖書の言葉を語っても、分からない人は結局分からないのだから、語らなくてもいいのでしょうか。イエス様のことを宣べ伝えても、かえって「かみついてくる人がいる」から、宣べ伝えなくてもいいんでしょうか。

 テモテへの手紙二4章2節以下には、このような言葉が記されております。

 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(2テモテ4:2-5)

 パウロは弟子のテモテに、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」と語るのであります。
「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝える」。それは、御言葉を宣べ伝えても、信じてもらえないならば意味がない。だから語らない。神聖なものを犬に与えても、また、真珠を豚に与えても、価値の分からない者には、何の役にもたたないから、与えない、要するに「豚に真珠」という、そういう考え方とは全く反対の立場であります。

 さて、どうしましょうか。
イエス様は「神聖なものを犬に与えるな」なんて教えている。
一方、パウロは、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」なんて教えている。
さて、私たちはどちらの立場に立ったらいいのでしょうか。

 実は、こういう問い、どちらなのか、どちらが正しいのか、どちらの立場に立ったらいいのかという、こういう問い。これには大きな問題があるように思います。
 というのは、「あれかこれか」という問いを出して、どちらかを選ばせようとするのは、相手を陥れる手口でもあるからであります。

 イエス様を言葉の罠にかけようとした人たちは、イエス様に「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか、それとも適っていないか」と聞きました。

 皇帝・カイザルに税金を納めてもいいのか、それともいけないのか。どちらなのか。律法に適っているのはどちらなのかという問いであります。

 イエス様は彼らの悪意を知って「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と語り、彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、「これは、だれの肖像と銘か」と、逆に聞き返しました。そして、彼らが「皇帝のものです」と答えると、イエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、こう言われました。

 「皇帝のものは皇帝に(カイザルのものはカイザルに)、神のものは神に返す」。マタイ福音書22章15節以下にある有名なお話であります。(マタイ22:15-21)。

 「あれかこれか」、どちらなのか、どちらが正しいのか。確かに、そういう判断をしなければならない場合もあると思います。でも、すべてが「あれかこれか」で割り切れる訳ではありません。

 先程、イエス様は「神聖なものを犬に与えるな」と教えられたということで、それは「貴重な御言葉をむやみやたらに与えてはならない。豚に真珠を与えても、かえってかみついてくるだけだから、価値の分からない者には御言葉を与えても仕方ない。だから与えない」。そんなふうに解釈して問いを出しました。

 パウロは、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」なんて教えている。でも、イエス様はむしろ「豚に真珠」、価値の分からない者には貴重なものを与えても無意味だから、与えない。そんなふうに教えているようだということで、私たちはどちらの立場を取ったらいいのかなんて問いを出した訳であります。

 でも、もっと素直に、単純にイエス様の言葉を考えたらどういうことになるでしょうか。

 イエス様は、「神聖なものを犬に与えてはならない」。また「真珠を豚に投げてはならない」と教えられたのであります。「犬」や「豚」に、神聖なもの、あるいは、真珠を与えたって意味はない。だから与えてはならない。

 これを文字通り受け取れば、犬や豚ではなくて、神聖なもの、それは、むしろ私たち人間に与えられるべきものではないかとイエス様は教えている、こう単純に受けとめることは出来ないでしょうか。

 実際、神聖なものを「犬」に与えたって意味がない。真珠を「豚」に与えたって、かみついてくるだけであります。ですから、それらは犬や豚ではなく、私たち人間に与えられるべきもの。そんなふうに素直に、単純に考えたらどうでしょうか。

 それでは、イエス様が神聖なもの、あるいは、真珠ということで語ろうとしているものとは何かということになる訳ですけれども、マタイ福音書13章44節以下の所には、こんなイエス様のたとえ話が載っています。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。
 商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46)

 どうでしょうか。イエス様は、天の国・神の国を、「宝物」あるいは「高価な真珠」にたとえ、なんとしてでもそれを手に入れようとするという、そういうお話をしているのであります。

 本当に大切なもの、本当に価値があるものを見つけたならば、どんな犠牲を払ってでも、それを手に入れようとする。天の国・神の国というのは、そういうものだとイエス様は教えているのであります。

 天の国・神の国。それはお金では替えられない神聖なもの、本当に価値のあるものであります。それは「犬」や「豚」ではなく、正に私たちに与えられるべきもの。そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 今日のイエス様の言葉は、必ずしも「豚に真珠」という、私たちがよく知っている「諺(ことわざ)」を教えている訳ではありません。確かに、今では「諺」になっている訳ですけれども、「諺」が先にあった訳ではないのであります。

 「豚に真珠」、「価値のわからない者には、どんなに大切なもの・貴重な物でも何の役にもたたない」。だから、与えても仕方ない。与えても開き直り、かみついてくるだけだから与えるな」。

 確かに大切な「諺(ことわざ)」かも知れません。でも、私たちはむしろ、今日のイエス様の言葉に啓発され、
「豚に真珠」、だからこそ、私たちは、本当に大切なもの、本当に価値のあるものに目を向けて行かなければならない。
 本当に大切なものとは何かということをしっかりと受け止め、それをどんな犠牲を払ってでも手に入れる。そういう歩みへと導かれて行かなければならないということになるのではないでしょうか。

 「豚に真珠」という言葉、知っていますか。これは聖書から来ている言葉なんですよ、なんて知識をひけらかしても、意味がありません。

 むしろ、神聖なもの、本当に大切なものがあるんですよ、と私たちは語っていくべきではないでしょうか。

 イエス様が「神聖なものを犬に与えるな」と言っているのは、決して、福音を語るな、聖書の御言葉を語るなというようなことではありません。
 むしろ、「折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」ということなのではないでしょうか。

  私たちは、これからも、神の国の福音、イエス様のこと、そして聖書の御言葉を、折が良くても悪くても、語り続けて行く者でありたいと思います。

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