今日は「人を裁くな」ということについて考えてみたいと思います。
イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と教えられました。
「裁く」という言葉、聖書では「クリネイン」という言葉が使われていますが、これには二つの意味があります。
一つは、裁判所で裁判官が「人を裁く、判決を下す」という意味。それからもう一つは、自分の秤(はかり)で、自分の基準で相手を裁く、非難する、そういう意味もあります。
で、今日の所は必ずしも裁判のことが取り上げられている訳ではありませんので、私たちの判断で「人を裁く」という、そういう意味で使われていると言ってもいいと思います。
ところで、「人を裁くな」という教え、ルカ福音書には、このようにあります。
ルカ福音書6章37節、「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される」。
聖書には、こんなお話があります。これはルカ福音書の18章9節以下にあるお話ですが、イエス様は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、こんな「たとえ話」をしておられます。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』 (ルカ18:10-13)
そして、イエス様は言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14) こんなふうに言われたというのであります。有名なお話であります。
で、このお話に出てくる「ファリサイ派の人」の祈り、言葉。これが「人を裁く」ということなのではないでしょうか。
彼は、こう祈っています。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。
これは、一言で言えば、「私は、ほかの人たちのような罪人でないことを感謝する」という、そういう祈りであります。彼は、ほかの人たちは皆「罪人」だと決め付けているのであります。人を裁いているのであります。
先程のルカ福音書の「人を裁くな」という所には、「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることがない」なんてありましたが、まさにこのファリサイ派の人は、人を裁き、人を罪人だと決め付けているのであります。
しかも彼は、「自分は、そういうほかの人たちのような罪人でないことを感謝する」とまで言っている。「神様に感謝します」と祈っている。
「神様に感謝する」。これは一見すばらしいことのようにも思われます。
聖書には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」なんていう有名な言葉もあります。(1テサロニケ5:16-18)
どんなことにも感謝する。これを文字通りに受け止めれば、このファリサイ派の人の祈りも、すばらしいということにもなるんじゃないでしょうか。「神様、私は、この徴税人のような罪人ではないことを感謝します」と感謝しているのですから、この人の祈りはすばらしい。そんなふうにも言える訳であります。でも、そうなんでしょうか?
イエス様は、この「ファリサイ派の人と徴税人」のお話をされたあと、こんなふうに言われました。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、胸を打ちながら『神様、罪人の私を憐れんでください』と祈ったこの徴税人のほうであって、あのファリサイ派の人ではない。」
どうでしょうか。イエス様は、このファリサイ派の人の祈りを「よし」とはしていないのであります。むしろ、徴税人を見下す、その態度を逆に非難されたのであります。そして、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられた。
ですから、聖書に「どんなことにも感謝しなさい」とあっても、何でもかんでも感謝すればいい、感謝することはすばらしいことなんだと、単純にそんなふうに考えるのではなくて、感謝すべき中身というものを吟味する、そういうこともまた大切になって来るのではないでしょうか。
聖書のここにはこう書いてある。このように教えられている。でも、聖書のある一つの言葉だけを取り上げ、こう教えられているからこうだと短絡的に決め付けてしまうのではなくて、私たちの生きている状況の中で、一つ一つの言葉を吟味してみるということも、また必要なのではないでしょうか。
話が少しそれたようですけれども、イエス様が取り上げている「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ話。この話の中に出てくるファリサイ派の人の祈り、『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝する」というこの言葉。これは、確かに「感謝の祈り」かも知れませんが、実際は「人を裁く祈り、言葉」、そんなふうに言ってもいいのではないかと思います。
繰り返しますが、このたとえ話は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られたお話であります。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下す」。要するに、傲慢な人間。自分は絶対、自分は正しいという、そういう意識をもっている人間。高ぶっている人間。
それは必ずしも「ファリサイ派の人」だけではないと思います。私たちだって似たような所があるのではないでしょうか。だからこそ、イエス様は、「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである」と教えているのではないでしょうか。
私たちは、意識的であれ、また無意識であれ、自分の秤(はかり)で物事を見ている、自分の秤(はかり)で相手を量っている、そういう所があります。それは人間であるならば仕方のないことなのかも知れません。
私たちはロボットではありません。ロボットだったら、与えられたプログラム通りに動けばいい。簡単であります。でも、私たちはロボットではないのであります。自分の頭で考え、自分自身で物事を判断し、行動して行かなければなりません。ですから、やっかいなのであります。でも、そんな人間を造られたのが神様なんでありますね。
神様が造られた人間。それは自由を与えられた人間。自分で考え、自分で「善し悪し」を判断し、そして行動して行く、そういう人間であります。
で、そういう人間だからというのでしょうか、そういう人間だからこそ、皆「自分の秤(はかり)」を持っている訳であります。「自分の秤(はかり)」。それは本当は右と左、公平でなければなりませんが、現実は自分にとって都合のいい「秤(はかり)」になっています。
今日のイエス様の言葉の中に、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」という言葉がありますが、「おが屑」と「丸太」では大違(おおちが)い。でも、自分の秤では、「おが屑」も「丸太」も同じ、否、「おが屑は見えても、丸太は見逃してしまう」という、とんでもない「秤(はかり)」なのであります。
で、そういう「秤(はかり)」を持っている私たち、お互いがそんな秤で量(はか)り合ったら、これは大変なことになる。みんなが自分勝手に自分の秤で量ったらどうなるでしょうか。メチャクチャになるのではないでしょうか。
だからこそ、自分の秤は“一旦置いといて”ということが必要になるのだろうと思うのであります。そうじゃないと、お互いがお互いを裁き合ってどうしようもなくなる。そして、この“一旦置いといて”ということが、「人を裁くな」ということなんじゃないでしょうか。
お互いが自分の秤で裁き合えば、収集がつかなくなるのであります。嫁と姑(しゅうとめ)、お互いが自分の言い分ばかりを主張すれば泥沼にはまってしまう。(夫と妻だってそう)
相手を裁くあなたも、結局、相手から裁かれる。泥沼、悪の連鎖であります。 だからこそ、イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と教えられたのではないでしょうか。
それでは、この泥沼、悪の連鎖を断ち切るためにはどうしたらよいのか。聖書は、いろいろなことを教えております。例えば、先程のルカ福音書6章37節の所では、「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人だと決められることがない」とあって、そのあと「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される」とあります。
ここでは「赦し」ということが教えられております。イエス様は「7の70倍までも赦しなさい」なんて教えておりますが(マタイ18:22)、人を赦すということ、これはとても大切なことであります。お互いが赦し合えば、人を裁くというようなこともなくなるのではないでしょうか。
また、先程の「ファリサイ派の人と徴税人」のお話で、イエス様は最後に、このように教えられました。
「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)。
これは「へりくだりなさい」という教えであります。自分は正しくて、相手は間違っている、自分の方が上であるという「おごり・高ぶり」。そういうものがあるとき、人は相手を裁いてしまう。ですから、へりくだり、謙遜になることが大切なんであります。
「イエス様が弟子たちの足を洗った」(ヨハネ13:5)という有名なお話もありますが、聖書は、高ぶるのではなくて、へりくだることを私たちに教えている。お互いにへりくだるとき、人を裁くこともまたなくなるのではないでしょうか。
ところで、この「へりくだり、謙遜」。それは言い換えれば、愛を持つこと、そんなふうに言ってもいいかも知れません。
コリントの信徒への手紙一13章4節には、前の口語訳聖書ですが、こんなふうにあります。
「愛は寛容であり、愛は情け深い。またねたむ事をしない。愛は高ぶらない。誇らない」。
本当の愛は、「高ぶらない。誇らない」というのであります。本当の愛を持つとき、私たちは「寛容になり」、人を裁くこともしなくなるのではないでしょうか。
また、聖書には、こんな言葉もあります。
フィリピの信徒への手紙2章4節、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。
これも、人を裁かないために必要なことではないでしょうか。
私たちは、自分のことだけでなく、他人のことも考える。こんなことを言ったら、相手はどんなふうに思うだろうかと考えて見る、注意を払う。これは「思いやり」であります。「愛」と言ってもいいかも知れません。
いずれにせよ、人を裁くことからは何も良いものは生まれて来ませんし、険悪な関係しか生じないのですから、私たちは、自らへりくだり、謙遜になって、相手のことも考え、そして、少々のことでは怒らず、人を赦し、他人にも寛大でありたいものであります。
「人をさばくな、自分がさばかれないためである」。
これは私たちの人間関係にとって、とても大切な言葉であります。すぐ人を裁いてしまう、そんな自分がいる。だからこそ、人を裁かないためにはどうしたらいいのか。それを考えて見る。
で、ここまでが普通のお話であります。人間関係どうしたらうまく行くか?という、そういう普通のお話。道徳的なお話と言ってもいいかも知れません。
でも、聖書は、単に道徳的なお話だけを語っているのではありません。聖書が本当に語りたいのは、「真の裁き主である神様がいる」ということではないでしょうか。
人を裁き合っている私たちがいる。ですから、「人をさばくな、自分がさばかれないためである」と教えている。でも、そんな私たちを裁かれる真の裁き主、神様がおられる。そのことも、私たちは忘れないでいたいものであります。
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