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説教 「何よりもまず」
               (マタイ 6:25-34)      2015/06/28
(三条教会創立67周年記念礼拝)
 今日は、三条教会創立67周年の記念礼拝を、皆様とご一緒に守っております。

 三条教会は、戦後まもなく、1948年(昭和23)6月30日、新潟教会の中井佐一郎牧師をお迎えして、西巻清さん・トミさんのお宅で、聖書研究会を行ったことから始まりました。
 三条教会では、この日、1948年(昭和23)6月30日を「教会創立の日」としております。以来67年間、山あり谷あり、いろいろなことがありました。

 三条教会は、教会創立10周年の時、すなわち、1958年(昭和33)の7月、裏館に教会堂が与えられ、その後、1980年(昭和55)、今から35年前に、今あるこの所(本町六丁目)に移ってまいりました。一時は、第二種の教会にもなりましたが(1982年7月)、現在は一桁の現住陪餐会員9名ということになっています。

 また、1963年(昭和38)1月には、38(さんぱち)豪雪。沢山の雪が降りました。そして、翌年(よくとし)、1964年(昭和39)6月16日には「新潟地震」、また、11年前の2004年の7月13日には、新潟豪雨水害、同じ年の10月23日には、マグニチュード6.8、最大震度7の新潟県中越地震も起こりました。 この水害と大震災で、教会員のお宅も大きな被害を受けました。

 とにかく、いろいろなことがありましたけれども、今日(こんにち)に至るまで、神様は、この三条教会を守り導いて来てくださいました。私たちは、先ずこのことを覚え、神様に心からの感謝をささげたいと思います。

 「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」(㋺詩118:1他)。

 神様の導きがあって今がある。これは、キリスト者の基本的な考え方でありますから、先ず神様に心からの感謝をささげたいと思います。

 ところで、今、私たちの教会は現住陪餐会員一桁の教会になっていると申しましたが、みんな女性で、役員も勿論全員女性であります。
 幸いなことに、創立当初からの教会員・西巻トミ姉妹が、ご健在で毎週礼拝にも出席されておられます。
 これは、とてもありがたいことであります。創立時のことなど、いろいろお話をお聞きすることが出来ますし、毎週礼拝に出席し、私たちに教会員としてのあるべき姿を教えてくださっています。これは本当にありがたいことですし、また感謝すべきことであります。

 でも、この三条教会、会員も段々減ってきて、また高齢化も進んで来ておりまして、これからのことを考えますと、一体教会はこれからどうなるのだろうか、どうなってしまうのかと、不安になり、「心配で心配で夜も眠れない」なんてことにもなる訳であります。

 で、そういう現実を考えますと、牧師としては、「大丈夫ですよ。神様はきっと導いてくださいますよ」と励まさなければなりません。
 ですから、前に「神様に愛されている人生」というお話をさせていただきました(6/7)。
 今日の聖書のお話、空の鳥、野の花のお話を取り上げ、神様は、空の鳥も野の花も、御手のうちに守っていてくださっている。まして、私たち人間は、なおさらのことではないかという、イエス様の言葉に教えられ、私たちは神様に愛されているということ学んだ訳であります。

 勿論、私たちが「神様に愛されている」というのは、「そのように信じるという信仰的な事柄」でありまして、みんながみんな、そう信じられる訳ではありません。中には「神も仏もあるもんか」なんて言う人も勿論いる訳であります。

 でも、私たちは神様から愛されている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」(ヨハネ3:16)という、そういう現実を知っている訳であります。ですから、私たちの人生。それは「神様に愛されている人生」。神様を信じ、これからも神様から愛され、力を与えられて、力強く歩んで行きたい。そんなお話をさせていただきました。6月7日の説教であります。

 それから、先週は、同じ聖書の箇所から「思いわずらい」について考えました。「思いわずらい」「私たちの悩み」。
 聖書には、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:25)。また、「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)なんて言葉もあります。

 確かに、聖書は、イエス様は「思い悩むな」と教えている訳ですけれども、私たちの現実は、思い悩みでいっぱい。みんな思い煩いをかかえて生きているのではないかということで、牧師の悩みも聞いていただきました。

 確かに、私たちの現実、思い悩み、思いわずらいがいっぱいある。三条教会のこれからのこともそうであります。でも、いや、だからこそ、神様に委ねる、お任せすることが大切ではないかということで、ペトロの手紙一の5章7節の「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていてくださるからです」(1ペトロ5:7)という言葉を取り上げて、お話させていただきました。
 前の聖書では「神はあなた方をかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」という言葉であります。

 「思い悩むな」と言われても、思い悩んでしまう私たちの現実。思いわずらいをかかえて生きている私たちの現実。でも、それを神様に委ねる、神様にお任せする。
 そのとき、神様は私たちのことを心にかけていてくださるお方ですから、私たちを導いてくださる。
 これはとてもありがたいことであります。励まされる言葉であります。信仰というのは、こういうものなんだろうとも思うのであります。

 でも、私はへそ曲がりの所がありますから、何でもかんでも神様任せでいいのか。神様に丸投げで自分は何もしなくてもいいのかという、そういう問題もお話しました。いわゆる「自己責任」の問題であります。

 そもそも神様が私たち人間を造られたのも、それはこの世を管理させるためであり、この世を神様の御心に適う、そういう世界にするためだったのではないかということで、私たちには人間としてのなすべき責任があるのではないかというお話もした訳であります。

 ですから、なんでもかんでも神様任せ。自分は何もしないというのではなくて、私たちに出来ることは精一杯ちゃんとして行く。そして、あとは神様に委ねる。お任せする。そうすれば、神様は私たちのことを心にかけてくださるお方ですから、ちゃんと導いてくれる。そういうお話もした訳であります。それが先週の説教のお話であります。

 で、今日は、同じ聖書の箇所から、「何よりもまず」というお話ですが、この「何よりもまず」というのは、「何を第一とするか」「何を第一として生きていくか」という、そういう問題であります。で、これについても前にお話したことがあると思いますが、もう一度考えてみたいと思います。

 私たちに、大切なもの、いろいろあります。先ず食べ物がないと生きていけない。着るものだってそう、裸で生活する訳にはいかない。「衣食足りて、礼節を知る」なんて言葉もありますが、食べ物や着る物、そういうものが満たされてはじめて礼儀や節度、人間らしい歩みも生まれて来る。確かに、そうなんだろうと思います。

 食べる物がなくて腹ぺこの人に、ああしなさい、こうしなさいといくら言ったってどうしようもありません。昔、何日も食べていなかった人が、ひもじさのあまり、人様のものについ手を出してしまったというような、そんなお話だってあります。

 繰り返しますが、人間、生きて行かなければなれませんから、食べ物や着る物は必要なんであります。今は「衣食住」ということがよく言われますが、そういう必要最低限のものは確かに必要。 必要なものが満たされてはじめて、私たちは精神的なものにも目を向けることができるようになる。確かに、そういうことだってあるんだろうと思います。

 で、イエス様は、そういう私たち現実を踏まえ、しかしながら、「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」と言って、『何を食べようか』『何を着ようか』と思い悩むな」と語り、そして、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられた。(マタイ6:33)

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 これは、私たちの生き方の「コペルニクス的転換」と言っていいと思います。コペルニクスは太陽が地球の周りを回っているのではなく、逆に地球が太陽の周りを回っているんだと言ったんでありますね。
 180度、全く違った見方をした。勿論、相対性理論から言えば、どうなるのかよく分かりませんが、とにかく、今までの考え方と全く正反対の考え方をする、それが「コペルニクス的転換」であります。

 私たちは、先程も申しましたように、食べ物や着る物、衣食住、そういうものがないと生きて行けない。そう考えます。それはその通り、間違いありません。

 でも、イエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えるのであります。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。必要なものはみな与えられるというのであります。これは私たちが考える人間の生き方の真(ま)逆(ぎゃく)、全く反対の教えであります。

 先程も申しましたが、「衣食足りて、礼節を知る」。それが普通の一般的な考え方なんだろうと思います。宗教、あるいは、私たちの信仰というようなものでも、「経済的にゆとりがないから教会には行けない」とか、「忙しくて、教会に行く程のゆとりはない」というような、そんなことを言う人もいる。じゃ、生活にゆとりが出来れば教会に行くのかと言えば、必ずしもそうではない。それが現実というものではないでしょうか。

 問題は、やはり「何を第一とするか、何を第一と考えるか」「何を第一として生きていくか」という、そういうことなんだろうと思うのであります。

 そして、イエス様が「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えられたのは、神様を信頼することから、あなたの人生を始めなさいよということなんじゃないでしょうか。言い換えれば、神様を信頼する信仰から始めましょうということなんだうと思うのであります。

 神様を信頼し、神様に寄り頼むとき、「これらのものはみな加えて与えられる」。私たちに必要なものも、また与えられる。そういう信仰をもって歩みましょうということなんだろうと思うのであります。

 三条教会、創立67周年を迎えました。先程も申しましたように、教会員も段々少なくなって来ておりますし、高齢化も進んで来ております。これからのことを考えると、心配で心配でということにもなります。

 でも、「神の国と神の義を求める」とき、必要なものも、また与えられるという、そういう信仰をもって歩んで行きたいと思います。要するに、「何を第一とするか、何を第一として歩んで行くか」ということであります。

 教会は、信仰者の集まりであります。神様を信頼する人たちが集まっている所であります。ですから、「何よりもまず、神の国と神の義を求める」。そういうところから出発したいと思います。

 三条教会、これからどうなるのか、どうなってしまうのか。人間的な頭で考えたら、なかなか先が見えて来ません。でも、私たちには信仰があります。信仰は、この世の常識を打ち破るものであります。コペルニクス的転換であります。

 聖書には、こんな言葉もあります。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」(1ヨハネ5:4)。

 信仰を与えられている私たち。 この世的には困難と思えるようなことがあっても、神様に寄り頼み、神様を信頼して、これからも力強く歩んで行きたいと思います。

 神様は、きっと、これからも、この三条教会を守り導いてくれるはずであります。人間的には不安もあるかも知れません。でも、信仰に堅く立って、希望をもって、神様を信頼して、歩んで行ければと思います。

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