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説教 「思いわずらい」
               (マタイ 6:25-32)      2015/06/21
(於・燕教会・三条教会朗読)
 今日は、「思いわずらい」という事について、少しばかり考えてみたいと思います。

 聖書には、先程お読みいただきましたように、繰り返し「思い悩むな」ということが語られております。

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:25)。
31節 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(6:31)。
そして、34節の所には、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」という有名な言葉もあります。

 確かに、「思い悩むな」という教えはすばらしいですし、人生、思い悩まないで生きて行ければ、これ程すばらしいことはありません。
 でも、私たちの現実はと言うと、思い悩むことがいっぱいある。みんな思い煩いをかかえて生きているのではないでしょうか。
 「牧師には悩みなんてないでしょう」なんて言われる方もおられますけれども、決してそんなことはありません。牧師には、牧師なりの悩みもありますし、また、私生活についての悩みもあります。

 牧師の主な悩み。牧師は毎週礼拝で「説教をする」のが、まあ大切な仕事の一つでありますが、でも、その「説教」、スムースに書けるときはいいのですが、現実的にはなかなかそううまくは行かない。
 今、説教を書くということを申しましたけれども、昔は、説教は語るものであり、書くものではないなんてことも言われました。
 昔の牧師は、説教の大体の流れを紙に書いて、実際の礼拝のときには、聖霊が導いてくれるということで説教をした、そんな牧師先生も多くおられました。

 でも、最近は、完全原稿というのでしょうか、説教でお話しする「原稿」をあらかじめ作っておいて、それをお話する。そういうことが一般的に行われています。燕教会でも三条教会でもそうでありますね。
 それは、耳の遠い人もいるので、説教原稿をコピーしてお渡しするということで、そういうことが行われている訳ですけれども、この説教原稿を書く作業、結構大変な訳であります。

 先程も申し上げましたけれども、スムースに書けるときはいいんであります。でも、いくら考えてもなかなか書けない、そういうときもある。うちの家内なんかですね、私が説教原稿を書けなくて、行き詰まって悩んでいると、「それがあなた仕事でしょ」なんて返してくる。
 「ぷっつん」しそうになりますが、そこで腹を立てても仕方がありませんので、気分転換をして、また書き始める。そんなことをしょっちゅうしております。

 今の時代、毎週毎週、説教原稿を書く、完全原稿を書くというのは、これは結構ストレスにもなる訳であります。それが牧師の仕事だとは分かっていても、現実的には、牧師も悩み苦しむのでありますね。
 勿論、説教原稿だけではありません。教会員のこともありますし、教会全体のこともあります。

 先日は、ある教会員から電話で、献金出来ないので、教会をやめたいなんてお話もありました。
 よく聞いてみると、教会から、週報とかいろいろな文書が送られて来たということなんですが、その中に献金袋も入っていたというのでありますね。で、自分は、今献金出来るような、そんな状態ではないから、教会をやめるというのであります。
 その方は、以前、教会の人から、献金の大切さというものをよく聞いておられたそうであります。教区や地区の負担金。教会員一人頭に換算するといくら位になるなんて、そんな話も聞いていたそうなんですが、自分は、その上納金も納められないので教会をやめたいというのであります。
 上納金というのは、その方の表現ですが、とにかく、献金がささげられないから、教会をやめたいと言う。

 で、いろいろお話をしたのですが、「でも、神様にはすがりたい、すがっていたい」なんてことを言われましたので、「それなら、献金は、出来るときが来たらまたすればいいし、これからも神様にすがって歩んで行きましょう」ということで、とりあえず、教会をやめるという申し出は撤回させることが出来ました。

 教会には、いろいろな問題がありますし、牧師はその中心にあって、様々な問題と関わっていかなければなりません。
 聖書に「思い悩むな」とあるからと言っても、思い悩まざるを得ないのが、私たちの現実ではないでしょうか。
 牧師だから悩みなんてない、そんなことはないのでありますね。むしろ、牧師なんて、人の悩みまでかかえこんで、より悩み苦しむことだってある。

 勿論、私生活においても、そうであります。牧師は、定年もないし、住む所も保証されているし、贅沢しなければ一生楽な生活が出来る。そんなふうに思っておられる方もいるかも知れません。
 確かに、現役の牧師であれば、ほとんどの教会には牧師館というものがありますから、住む家には困りません。謝儀も少ないかも知れませんが、贅沢をしなければ、なんとか生活して行けます。
 でも、牧師をやめたらどうなるでしょうか。

 先ず住む所がなくなりますね。牧師館から出て行かなければなりません。牧師在職中に、住宅ローンを組んで家を建てられればいいのですが、住宅ローンを組めるような、そんな牧師はめったにおりません。ですから、自分の家を持っている牧師なんてほとんどいない。

 で、定年退職して牧師館を出るということになりますと、当然住む所を見つけなければならない。昔は「橋の下にでも住めばいい」なんて冗談を言っていましたが、今はそんなことは言えない。橋の下なんて、津波が来たり、洪水が起きたりしたら、あっという間に流されてしまう。
 ですから、冗談でも「橋の下に住めばいい」なんてことは言えなくなってしまった。

 じゃあどこに住むのか。自分一人だけであるならば、田舎の方の空き家、今空き家は全国に約820万戸(平成25年)もあるそうですから、探せば一つや二つは見つかるかも知れない。でも、自分だけではない、家族もいるということになれば、家族のことも考えなければならない。

 うちの家内に言わせれば、年をとれば病気にもなるだろうから、近くに病院があった方がいい。あまり辺鄙な所だと病院に通うのも大変だから病院が近くにあるような所がいいというような話にもなる訳であります。
 また、買い物のこともあるので、近くにスーパーがあった方がいいとか、あまり辺鄙な所で熊が出るような所はコワイからいやだとか、いろいろ出てくる。

 勿論、お金のこともあります。大きな教会で何十年も牧師をやっていれば、退職金もそれなりに出るでしょうが、小さな教会を転々としてやって来た牧師なんて、退職金と言っても雀の涙。今までの教会でその都度すでに退職金をもらっていますから、最後の教会でもらう退職金なんてほんのわずか。引越費用だけで消えてしまう。

 保育園とか幼稚園、それもちゃんとした社会福祉法人とか学校法人とかの保育園や幼稚園の付帯事業に関わってきた牧師ならば、それなりの退職金も出るかも知れません。でも、宗教法人立の幼稚園なんかで奉仕してきた牧師なんて、退職金なんて言ってもたいしたことはありませんし、年金だってほんのわずかであります。

 収入が少ないから年金の掛金も少ない。そのときはそれでいい、むしろ助かる、手取りが多くなるから助かる訳ですけれども、いざ年金を受け取るという段になれば、掛金も少ないから年金額も少ないということになる。

 勿論、日本基督教団にも年金局というのがありまして、教団からの年金もあります。でも、教団からの年金なんてほんのわずか。本当に雀の涙くらいしかもらえません。まあ、これも掛金と関係する訳ですれども、掛金が少なければ当然受け取る年金額も少ない。これはどこの社会でも同じであります。

 で、若い時は、年金のことなんて、あまり考えない訳ですが、実際に年金で生活して行かなければならないということになれば、こういう年金のことも考えなければならない。正にこれ「思いわずらい」。思い悩む訳であります。
 しかも、我が家には病気の息子のこともありますから、これからどうして行ったらいいのか。 悩み、思いわずらいも半端ではない訳であります。「明日のことまで思い悩むな」(6:34)なんてありましても、実際は思い悩む。それが私たちの現実なんだろうと思うのであります。

 だからこそ、神様に委ねる、お任せすることが大切だなんてことも言われます。

 ペトロの手紙一の5章7節には、こんな言葉があります。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていてくださるからです」。
 前の聖書には「神はあなた方をかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」なんてありました。

 思い煩いを神様に委ねる、神様にお任せする。確かに、そうだと思います。これは本当に大切な御言葉であります。神様に委ねるとき、神様は私たちのことを心にかけていてくださるお方ですから、私たちを導いてくださるのであります。

  しかしながら、何でもかんでも神様任せでいいんでしょうか。神様が導いてくれるのだから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねる。確かに、そうですけれども、何でもかんでも神様まかせでいいのでしょうか。

 クリスチャンの方(かた)がよく批判されることに、自己責任の欠如ということがあります。勿論、みんながみんなそうであるというのではありません。でも、神様にお任せするということを強調し過ぎますと、「じゃ、あんたの責任はどうなのか」なんてことも言われる訳であります。

 「神様任せも結構だけれども、あなた自身には責任がないのか。責任を感じないのか。それは無責任だ」と、そういうニューアンスで批判されることもある訳でありますね。

 最近は、よく「自己責任」ということが言われます。殺されるかも知れない危険地域に出かけて行く。殺されても、それは自己責任。
危険な山に登る。自己責任でそうする。
この世に生きている限り自己責任も必要なんだろう思うのであります。してはいけないことをするのは、それは自己責任でそうする。
 でも、これは「すること」だけではなくて、「しないこともまた自己責任」ということでもあるのではないでしょうか。

 将来こうなるかも知れないから、こういう準備をしておく。いつ地震が起きるか分からない。いつ火山が噴火するか分からない。洪水が起きるかも知れない。だから、こういう準備、備えをしておく。でも、それをしない。

 それもまた自己責任ということではないでしょうか。老後のことも、ある意味において「然り」。 なんでもかんでも神様任せ。自分は何もしない。それこそ無責任と言われても仕方ないのではないでしょうか。

 「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。
 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていてくださるから」(1ペトロ5:7)。

 大切な御言葉であります。でも、何でもかんでも神様に丸投げではなくて、同時に私たちは、私たちに出来ることを精一杯していく。 責任ある務めを果たしていくということも、また忘れてはいけないのではないでしょうか。

 私たちは、神様から「産めよ、増えよ、地を支配せよ、管理せよ」(創世記1:28)と言われました。
それは、私たちには責任がある、責任をも与えられているということではないでしょうか。

  いずれにせよ、この世に生きている限り、私たちの思い煩い、悩みはなくなりません。食べ物や着る物の悩みならまだしも、仕事の悩み、家庭内の悩み、友人、知人、人間関係の悩み、大きなことで言えば、社会的、国家的な悩み、思い煩い、数限りなくある訳であります。

 それらの悩み、思いわずらいを、神様に委ねながら、でも、すべて丸投げではなくて、「神様がやってくれるから、私は知りません」ということではなくて、私たちに出来ることはちゃんとして行く。そんな歩みをして行ければと思います。

 やるべきことはちゃんとやり、あとは神様に委ねる。お任せする。その時、神様は必要なものを私たちに備えて下さるのではないでしょうか。

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