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説教 「われ汝を見捨てじ」
               (申命記 31:1-6)      2015/06/14
(於・三条教会・燕教会録音)
 現代は、「高齢化社会」ということがよく言われます。

 政府が毎年出しております「高齢社会白書」というものがありますが、「平成26年版高齢社会白書」によりますと、「日本の総人口は、平成25年(2013)10月1日現在、1億2,730万人」。「65歳以上の高齢者人口は、過去最高の3,190万人(前年3,079万人)となり、総人口に占める割合(高齢化率)は25.1%(前年24.1%)と過去最高となった」とあります。

 65歳以上の高齢者が、25.1%。4人に一人が高齢者ということになります。

 最近は、高齢者も増えてきましたので、75歳以上を「後期高齢者」なんて呼んで区別したりもしておりますが、いずれにせよ、高齢者は増え続けている訳であります。

 で、これは教会においても「然り」でありまして、教会も高齢者の方が多くなって来ている。これは裏返せば、教会に来る若者が少なくなって来ているということかも知れませんが、いずれにせよ、教会も高齢者の方が多くなって来ている訳であります。

 で、高齢者の方が多いということは、よい面も沢山ある訳ですけれども、高齢者には高齢者なりの悩みや苦しみもまたある訳であります。

 で、前にですね、年を取ると今まで出来ていたことも段々出来なくなる。でも、出来ないことを数えるよりは、「まだこれも出来る。あれも出来る」と、出来ることを数えていくことが大切ではないかなんて、そんなお話もしましたけれども、今日は、この「高齢者」について、年を取っていくということについて、少しばかり考えてみたいと思います。

 ホイヴェルス神父(Hermann Heuvers)という人がおられました。
おられましたというのは、もう40年近く前(1977年(昭和52年)6月9日帰天)に亡くなられたからですが、
この方は、日本に来て上智大学で働かれ、1937年(昭和12年)7月20日には、上智大学の第二代学長にも就任されました。
 1969年(昭和44年)2月11日には、日本政府から、明治百年記念叙勲において、教育文化に尽したという功績で、勲二等瑞宝章も贈られています。

 で、このホイヴェルス神父が年をとったとき、南ドイツの友人が、こんな「詩」を贈ってくれたということで、「最上のわざ」という、こんな詩があります。有名な詩ですので、皆様も一度や二度はお聞きになった方もおられると思います。

 この世の最上のわざは何か?

 (それは) 楽しい心で年をとり
 働きたいけれども休み
 しゃべりたいけれども黙り
 失望しそうな時に希望し
 従順に平静に おのれの十字架をになう

  若者が元気一杯で神の道を歩むのを見てもねたまず
  人の為に働くよりも 謙遜に人の世話になり

  弱って もはや人の為に役立たずとも
  親切で柔和であること (それが「最上のわざ」)

 老いの重荷は神の賜物
 古びた心に これで最後の磨きをかける
 まことのふるさとへ行くために

 実は、この詩、まだ続きもある訳ですけれども、ここまでの所が、ある映画の中に用いられておりました。日本の“ツナグ”という映画であります。

 この映画は、辻村深月(みづき)さんの「ツナグ」という小説を映画化したものですが、映画の中で、主人公の高校生渋(しぶ)谷(や)歩(あゆ)美(み)と祖母(おばあちゃん)が、よく口にしておりました。

 実は、原作や脚本の中には、この詩の言葉はなかったそうですが、映画の打ち合わせ段階で主人公の祖母・アイ子役の女優さん・樹木(きき)希(き)林(りん)さんが、是非この詩を映画の中に取り入れたいということで、取り入れられたんだそうであります。

 年を取り、心臓の持病もあり、“ツナグ”という「死者との再会を一度だけかなえてあげる」という役割を負って来た祖母・アイ子。
 息子夫婦が亡くなり、今、高校生の孫と一緒に生活している。そんな中で、このおばあちゃんと孫がよく口にしていた言葉であります。

 「楽しい心で年をとり、働きたいけれども休む」。また「しゃべりたいけれども黙る」。それが年寄り、老人というもの。 でも、失望しそうなときにも希望を捨てないで、従順に平静におのれの十字架を担って行く。それがこの世に長く生きてきた老人、年寄り、高齢者というものではないか。

 人生にはいろいろなことがあり、生涯負わなければならない重荷、十字架もあります。でも、希望をもって、従順に平静に自分の十字架を担っていく。イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われましたが(マタイ16:24)、そういう現実もある訳であります。

 クリスチャンの中には、イエス様のあの十字架と復活によって、既に自分の重荷、十字架はすべてなくなったと、そんなふうに言う人もいます。でも、本当にそうなのでしょうか。現実的には、私たちの重荷、十字架はなくならないのではないでしょうか。

 確かに、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいました。でもこの意味は、イエス様が私たちの重荷すべてを取り除いてくださるという、そういうことではありません。イエス様は「休ませてあげよう」と言っておられるのであります。

 私たちの負うべき重荷、十字架、それは最後の最後まで自分でしっかりと背負って行かなければならない。でも、イエス様は「休ませてくださる」。私たちの重荷を共に負い、私たちの重荷を少しでも軽くしてくださる。そういうお方なのではないでしょうか。

 いずれにせよ、私たちには重荷があります。そして、失望しそうになるときもある。でも、希望を捨てないで、従順に平静に自分の十字架を担っていく。それが真面目に人生を生きる人の生き方ではないでしょうか。

 この世の最上のわざは何か? (それは) 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙る。そして、失望しそうな時にも希望を失わず、従順に平静に、おのれの十字架を担って行く。

 若者が元気一杯で神の道を歩むのを見てもねたまず、人の為に働くよりも 謙遜に人の世話になり、 弱って、もはや人の為に役立たずとも、親切で柔和であること。それが、「最上のわざ」。

 年を取れば、若い人たちのように元気一杯歩むことはできません。元気な若者を見て、ねたんでも仕方ありません。
 年を取れば、人のために働くことも段々できなくなります。ですから、謙遜に人の世話になることもまた大事なのではないでしょうか。
 年を取り、弱って、もはや人のためには役立たないかも知れません。でも、親切で柔和であることなら出来る。それが「最上のわざ」。

 老いの重荷は神の賜物。
年を取ること、それは神様の祝福かも知れません。でも、老いを生きる。したいことも段々出来なくなるというのは、老いの重荷と言ってもいいかも知れません。
でも、それを神様から与えられた賜物として受け止めて行く。

 古びた心に これで最後の磨きをかける  まことのふるさとへ行くために

 老い、年をとるということは、「まことのふるさとへ行く」ための、最後の磨きをかけるときなのかも知れません。
古びた心。若いときのように柔軟に物事を考えることが出来ない。
年寄りは、よく「頑固だ」などと言われますが、若者のようには、なかなか自由に物事を考えることが出来ない。それなりに出来上がったものを持っていますから、若い人とのギャップもあります。ジェネレーション・ギャップであります。

 でも、古びた心でも、最後の磨きはかけられる。それはまた「祈り」であるというのが、この詩のテーマなんだと思いますが、映画では、この最後の「祈り」のところは出てきませんでした。 でも、私は、この最後の部分に非常に感銘を受けます。最後の所は、このような詩になっております。

 おのれを この世につなぐ鎖を少しずつはがしていくのは
 真(まこと)にえらい仕事

 (この世とあの世、この世の鎖を少しずつはがしていくのが、年をとった者の最後の仕事なのかも知れません。勿論、自分は最後の最後まで、この世の生活をエンジョイしてポックリ行くことを願っているなんて言う人もいます。でも、みんながみんな、そんなふうにうまくは行かない。最後は、病気になったり、動けなくなったりしてお迎えを待つ。そういう人の方が多いのではないでしょうか。年をとれば、したいことも出来なくなるのであります。でも、…

 こうして何も出来なくなれば、それを謙遜に承諾する
 (最後は、そういう自分の現実を謙遜に受け入れるしかないのだろうと思います)

 (でも) 神は 最後に一番よい仕事を残してくださる
  それは祈り
  手は何もできない。
  けれども最後まで合掌できる
  愛するすべての人の上に
  神の恵みを求めるために
   (そして)すべてをなし終えたら
  臨終の床に神の声を聞くだろう
   「来れ わが友よ われなんじを見すてじ」と

 この最後にある言葉。これは私たちクリスチャンの特権なんだろうと思います。

 年をとって何も出来なくなっても、手を合わせることは出来る。祈ることは出来る。愛するすべての人の上に、神の恵みを求める為に、祈ることなら出来る。
 そして。すべてをなし終えた時、「来れ、わが友よ。われ汝を見すてじ」という神様の声を聞くことができる。すばらしいことではないでしょうか。

 最後の「われ汝を見捨てじ」という言葉。これは神様・イエス様の約束であります。

今日読んでいただいた申命記の31章6節の所には、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」とあります。

 この言葉は、モーセが120歳で亡くなる、その前に、イスラエルの人たちに語った言葉ということになっておりますが、この言葉はモーセの後継者ヨシュアにも、同じように語られます。「主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない」。正に、「われ汝を見捨てじ」であります。

 イエス様も弟子たちに、「私は、あなた方をみなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)と語られました。
 これも「われ汝を見捨てじ」という事であります。

 「われ汝を見捨てじ」。 これは神様・イエス様の約束であります。

 死が近づきますと、私たちは不安になります。死ぬのがコワイ、そんなふうにも思います。
でも、私たちは、この神様・イエス様の約束を信じて、神様にすべてを委ねて歩んで行けたらと思います。

 私たちの人生。今までも神様が守り導いてくださいました。ですから、すべてをなし終えて、神様のところに帰って行くときも、この「われ汝を見捨てじ」という神様の声を聞きながら、神様の所に帰って行きたい。そんなふうに思います。

 最後に、もう一度、ホイヴェルス神父に贈られたという「詩」を読んで終わりたいと思います。

 この世の最上のわざは何か?
 楽しい心で年をとり
 働きたいけれども休み
 しゃべりたいけれども黙り
 失望しそうな時に希望し
 従順に平静に
 おのれの十字架をになう

 若者が元気一杯で神の道を歩むのを見てもねたまず
 人の為に働くよりも
 謙遜に人の世話になり
 弱って もはや人の為に役立たずとも
 親切で柔和であること

 老いの重荷は神の賜物
 古びた心に
 これで最後の磨きをかける
 まことのふるさとへ行くために

 おのれを この世につなぐ鎖を少しずつはがしていくのは
  真(まこと)にえらい仕事 (でも)
 こうして何も出来なくなれば、それを謙遜に承諾する
 神は 最後に一番よい仕事を残してくださる
  それは祈り

 手は何もできない
 けれども最後まで合掌できる
 愛するすべての人の上に
 神の恵みを求めるために (そして)

 すべてをなし終えたら
 臨終の床に神の声を聞くだろう
  「来れ わが友よ
   われなんじを見すてじ」と

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