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説教 「神に愛されている人生」
               (マタイ 6:25-30)      2015/06/07
(於・燕教会・三条教会朗読)
 先週は、人間の一生、寿命について考えて見ました。今日は私たちの人生について考えてみたいと思います。

 2015年4月23日(木)、国連(UN)は、世界の幸福度(幸せの度合い)についての「2015年版の調査報告書」を発表しました。World Happiness Report 2015 (世界幸福度報告書2015)というものであります。

 この報告書は、世界158か国の2012年-2014年の間の幸福度を調査し、各国の幸福度をランキングしているものですが、日本の幸福度は世界的には46位ということで、大きく取り上げられました。

 「世界で最も幸せな国はスイス、国連幸福度調査」というタイトルで、「158か国中、1位はスイス、2位はアイスランド、3位はデンマーク、云々」なんてありまして、「日本は46位」。そんな記事もありました。

 あるいは、「国連が世界幸福度報告書を発表=スイスが1位、日本は韓国を上回る(韓国は日本の次の47位だったんですね)」。あるいは、「国連が世界の幸福度ランキングを発表 日本は46位にランクイン」なんてタイトルもあれば、「『幸福度』 日本46位に下がる」なんてタイトルもありました。

 国連の「世界幸福度報告書」というのは、2012年、最初の報告書が作成され、今回で3回目になります。前回は、2010年から2012年までのデータを分析し、2013年に「世界幸福度報告書2013」というものを出しています。

 そのときは日本は43位でした。今回は46位ですから、3位下がった訳であります。ですから、「『幸福度』 日本46位に下がる」なんてタイトルも出てくる訳であります。

 ちなみに、前回の調査では156か国中、第1位はデンマーク、2位はノルウェー、3位はスイスでした。アメリカは17位、日本は43位でした。今回はアメリカは15位ということで2位上がりましたけれども、日本は46位で3つ下がった訳であります。

 最下位は、前回も今回もトーゴという国。トーゴは、正式名称「トーゴ共和国」と言いますが、西アフリカにある国。首都はロメであります。
 この国は、19世紀まで奴隷の供給地とされていた所ですが、1960年フランスから独立。でも、独裁政権が長く続き、いつも国内が混乱。流血事件が起きたりしています。また、世界でも最も貧しい国の一つということで、幸福度も最下位。

 でも、ここで考えてみたいのは、「幸福度って何か」ということであります。何をもって幸福とするのか、「幸せとは何なのか」ということであります。

 私たちは、お金があれば幸福なのでしょうか。確かに、今は貨幣経済ですから、お金がなければ生きていけません。お金がなければ病気になっても病院にも行けない。住む場所も与えられない。食べ物も買えない。衣・食・住という人間が生きて行くための必要なものも、お金がなければ与えられない訳であります。

 ですから、先程の国連の幸福度調査では、先ず「国民1人あたりの実質GDP(国内総生産)」というものを考えています。
 「GDP(国内総生産)とは、国内で、1年間に新しく生みだされた生産物やサービスの金額の総和のこと」。これは経済産業省が、子供たちにも分かるようにということで説明している文章ですが、要するに、国内の経済の大きさというものを、お金で表わそうとしている指標であります。

 国連が「国民1人あたりの実質GDP」というのを取り上げているのは、経済が好調なときはGDPの成長率も高くなり、国民一人あたりの生活も豊かになる。逆に経済が不調なときは生活も苦しくなるということで、これはお金があれば「幸せ度・幸福度も上がる」という考え方であります。

 でも、国連は、お金だけが全てではないということで、「健康寿命、社会的支援、人生選択の自由度、汚職レベルの低さ、そして寛容度」。こういうことも考慮しています。

 先ず「健康寿命」。
 病気ばっかりしていては、幸福とは言えません。寿命もあまり短ければ幸福感は減少してしまいます。戦争や内戦で、若者がどんどん亡くなっていく。そんな状況では幸せにはなれない。
 勿論、単純に長生きすれば幸せなのかと言えば、必ずしもそうではない。長生きしても孤独死するような人が幸せだと言えないからであります。でも、健康や寿命、そういうものも幸福度の一つの基準になるのではないかということで、国連では指標の一つに加えています。

 それから、「社会的支援」。
 健康保険や年金、いろいろな社会福祉がどれだけ充実しているか。これも指標になっています。社会福祉が充実していれば、それだけ幸福度もあがるだろうという、そういう考え方であります。

 それから、「人生選択の自由度」。
 自由主義社会では、これは当たり前かも知れませんが、インドのカースト制度のようなものがある社会では、仕事を選ぶことも制限されている。中国のように「一人っ子政策」なんてもので縛られれば、幸福感も薄れる。
いろいろあると思いますが、自由を制限されれば、必然的に幸福感も制限される訳であります。ですから、「人生選択の自由度」というものも、幸福度の指標の一つになっている訳であります。

 それから、「汚職レベルの低さ」。
 最近はFIFAの汚職事件が問題となっておりますが、汚職がまかり通るような国は信用出来ません。でも、現実的にはどこの国にも汚職はあるようで、日本だって決して例外ではない。でも、汚職は「あって当たり前」なんて考えるようでは、これは「汚職レベルの低さ」を露呈するようなもので、幸福度も減退するのではないでしょうか。

 それからもう一つ「寛容度」。
 ほかの宗教は認めないとか、人種差別を行うとか、いろいろあると思いますが、自分たちだけが正しくて、他は間違っている、他のものは受け入れないという、そういうあり方は根本的におかしいと思いますし、そういうことが実際に行われている国は幸福度も低いということになります。

 ということで、国連の「世界幸福度調査報告書2015」によれば、第1位がスイス、2位はアイスランド、3位はデンマーク、そして日本は46位ということになっている訳ですが、先程の問題、私たちは、「何をもって幸福と考えるのか」、「幸せとは何なのか」という問題。もう少し考えてみたいと思います。

 先程の国連の報告書による「世界各国の幸福度」。それは、今説明したような6つの要素、「国民1人あたりの実質GDP」「健康寿命」「社会的支援」「人生選択の自由度」「汚職レベルの低さ」「寛容度」という6つの要素を勘案し、それを数値化して導き出したものでありますが、ある意味、これらの報告書はそれなりに客観性があると言えるのかも知れません。

 でも、「幸せ」や「幸福感」というのは、一人ひとりの心に関わる主観的なものであります。自分が幸せだと思っている人は、たとえお金がなくても幸せだと思う。家族がいるだけでも幸せ。仕事があるだけでも幸せ。たとえ病気でも幸せだと思う人もいるのであります。それは、よく言われる「生活の質(QOL、quality of life)」の問題なんだろうと思います。

 「生活の質(QOL)」。
 よく聞く言葉ですが、これは、その人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、そういう所から人生というものを考える大切な視点であります。

 お金も必要だけれども、お金だけが全てではない。心や体の健康はどうなのか。人間関係はうまくいっているのか。やりがいのある仕事をしているのか。趣味はあるのか。そういう諸々の観点から「生活の質」というものを見直してみる。そして、このような「生活の質」から私たちの幸福というものを考えてみる。これはとても大切なことではないでしょうか。

 「幸せはお金では買えないよ」とよく言われますが、お金だけが人生のすべてではないのであります。
「幸せとは何か」、「何が幸せなのか」ということを考える時、そこにはいろいろな要素があるのであります。幸せ・幸福というのは、生活の多様な側面が様々に影響し合う中から生まれてくるものではないでしょうか。
そして、その中の一つに「信仰」というものもまたあるように私は思います。

 今日の聖書の所は、有名な「空の鳥、野の花」のお話でありますが、イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は、鳥よりも価値あるものではないか。」と教えられました。(マタイ6:26) 

 また、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。でも、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか」と、こんなふうにも教えられました。(マタイ6:28-30)

 空の鳥を見ても、また、野の花を見ても、特別何も感じないという人もいるかも知れません。でも、イエス様は、空の鳥を見て、神様は鳥を養っていてくれていると、こう感じたのでありますね。

 野の花もそうであります。野の花がきれいに咲いている。明日は炉に投げ込まれて死んでしまうかも知れないけれども、今は、美しく咲くことを神様は許してくださっている。神様は、空の鳥も野の花も、御手のうちに守っていてくださっている。まして、私たち人間は、なおさらのことではないかと、こうイエス様は言われるのであります。
 これは、私たちが神様に愛されているということを語っている言葉と言ってもいいのだろうと思います。

 勿論、今日の聖書のお話は、小見出しにありますように、「思い悩むな」ということが言われているのかも知れません。
空の鳥も野の花も、神様はちゃんと守っていてくれている。私たち人間は、鳥や花よりももっと価値のある者だから、神様は私たちに必要な物を必ず与えてくださる。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31) 確かに、大切な教えだと思います。

 でも、同時に、このお話は、先程も申しましたように、神様が私たちを愛しておられるという、そういうお話でもあるのだろうと思うのでありますね。空の鳥も、野の花も、神様は愛しておられる。ましてや、私たち人間はなおさらのこと、神様は私たちを愛しておられる。

 でも、こういうことは科学的に証明できる事柄ではありません。私たちが神様から愛されている。どのようにして、それを立証することが出来るでしょうか。

 聖書の中には、確かに、私たちが神様から愛されているという言葉、沢山あります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16) 神様は、その独り子イエス様を与えてくださった程に、この世を、私たちを愛してくださっているというのであります。

 また、ヨハネの手紙一4章10節には、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに(神の)愛があります」なんて言葉もあります。

 また、エフェソの信徒への手紙5章1節には、「あなた方は神に愛されている子供(神の子)ですから、神に倣う者となりなさい」なんて言葉もあります。

 確かに、聖書には、私たちが神様から愛されていると語っている言葉、沢山あります。また、実際に「私は神様から愛されている」と証しする人もいると思うのであります。

 でも、繰り返しますけれども、それは科学的に証明され得る事柄ではないのであります。私たちが神様から愛されている。それは「信仰的な真実」なのであります。
 私たちの人生。それは、神様に愛されている人生。そんなふうに考えることが出来るというのは、これは「私たちの信仰」なのであります。

 でも、そのような信仰のおかげで、私たちの人生は豊かになっている。いろいろな困難があっても、神様が助けてくれる。導いてくれる。だって神様は私たちを愛してくださっていてくれるから。

  「信仰」。それは、人によっては「どうでもいいもの」かも知れません。でも、私たちにとっては、信仰は私たちの人生を豊かにし、私たちを「幸せ・幸福」へと導いてくれる、とても大切なものであります。

 信仰を持つか持たないか。それによっても私たちの「幸福度」、大部違うものになっていくのではないでしょうか。
 いずれにせよ、私たちには信仰が与えられています。私たちの人生、それは神様に愛されている人生なのであります。神様を信頼して、これからも神様から愛され、力を与えられて、力強く歩んでまいりたいと思います。

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