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説教 「助けてくださる聖霊」
               (ヨハネ 14:15-21)      2015/05/24
(三条教会ペンテコステ礼拝・聖餐式執行)
 今日は、今から2000年近く前、イエス様の弟子たちに聖霊が与えられたという出来事、その日を覚え、その日を記念して守っております「ペンテコステ」であります。

 使徒言行録の2章1節以下の所に、「五旬祭の日が来て」、イエス様の弟子たちが一つになって集まっていた時、聖霊が与えられた、という、そういう出来事が記されている訳ですが、ここにあります「五旬祭」という言葉が「ペンテコステ」という言葉ですので、キリスト教では今でも「ペンテコステ」という言葉を使っている訳であります。
 それではなぜキリスト教では「ペンテコステ」という横文字を使っているのでしょうか。「五旬祭」ではダメなんでしょうか。

 クリスマス、イースター、ペンテコステ。これはキリスト教の三大祭でありますが、みんな横文字なので横文字にしているのでしょうか。

どうもそういうことだけではなさそうであります。実は、キリスト教で「ペンテコステ」と言っているのは、これはユダヤ教の「五旬祭」とは違うんだという、そういうことを示そうとしているのではないかと思うのであります。

 ペンテコステも五旬祭も、意味は「50日目」という、そういう意味であります。で、ユダヤ教では、過越祭から50日目に「小麦の刈り入れの祭り」「七週(ななしゅう)祭」、一般的に「五旬祭」とも呼ばれていたお祭りを守って来ました。

 でも、キリスト教では、たまたま、その「五旬祭」の日に「弟子たちに聖霊が与えられた、聖霊降臨という出来事が起こった」訳であります。
で、キリスト教では、この日を「ペンテコステ」と呼んで、やはり記念の日として守っている訳ですれども、同じお祭りの日なのでややこしくなる訳であります。
 ということで、ユダヤ教では「刈り入れの祭り」「七週(ななしゅう)祭」、あるいは「五旬祭」、キリスト教では「ペンテコステ」。 まあ、こんなふうに呼び方も変えている。それが本当の所ではないでしょうか。

 ところで、今「たまたまその五旬祭の日に弟子たちに聖霊が与えられた、聖霊降臨という出来事が起こった」ということを申し上げましたけれども、実は、聖霊が与えられるというこの出来事。これは決して「たまたまそういう出来事が起こった」ということではないのであります。

 ユダヤ教の五旬祭の日に「たまたま」聖霊降臨という出来事が起こった。それは事実ですけれども、聖霊が与えられるという出来事、聖霊降臨という出来事、それは、既に予告されていた出来事だった訳であります。そのことが今日の所にも語られておりますので、ちょっと見てみたいと思います。

 今日の所は、ヨハネ福音書の14章15節からの所ですが、16節以下の所には、このようなイエス様の言葉が記されております。
「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者(㋺「助け主」)を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊(これは聖霊と言っていいと思います)である。」(ヨハネ14:16-17)

 「私」というのは、イエス様。イエス様は弟子たちに、弁護者、助け主を遣わすと約束してくださっていたのでありますね。そして、その約束通り、弟子たちに聖霊が与えられた。

 ですから、聖霊降臨の出来事というのは、「たまたま」そういう事が起こったということではなくて、約束の成就、そんなふうに言ってもいいと思います。いずれにせよ、イエス様の約束通り、聖霊が与えられた、それが、あの聖霊降臨、ペンテコステの出来事だったのでありますね。

 ところで、イエス様は、「聖霊」のことを「弁護者・助け主」なんて呼んでおりますけれども、これは、私たちを弁護してくれる者、助けてくれる者という意味であります。

 それでは、聖霊は、何を弁護してくれると言うのでしょうか。何を助けてくれると言うのでしょうか。いろいろなことが考えられると思いますが、一言で言えば、「私たちの味方になって助けてくれる」、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。私たちが困った時に、私たちの味方として、私たちを助けてくれる。それが「聖霊」なのであります。

 でも、聖霊は、私たちの目には見えません。目に見えない聖霊が、どのようにして私たちを助けてくれるのでしょうか。これは大きな問題であります。目に見えない聖霊が、どのようにして私たちを助けてくれるのか。

 聖書には、このことについて、こんなふうに語っています。17節の所。
「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなた方はこの霊(聖霊)を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」(14:17)

 聖霊は霊(スピリチュアルなもの)ですから、私たちの目には見えません。ですから、見ようとも知ろうともしなければ、そもそも聖霊なんて、そんなもん存在しないんじゃないか。そんなふうにも思ってしまう。

 しかし聖書は、「あなた方はこの霊を知っている」というのであります。そして「この霊はあなた方と共におり、これからも、あなたがたの内にいるから」と言う。

 これは、私たちが聖霊というものを信じるかどうかという、そういう問題なのかも知れません。そして、これは私たちが困ったとき、助けを必要とするときに、本当の意味で分かるものなんだろうと思うのであります。

 例えば、私たちの回りには、目に見えない空気というものがありますけれども、普段は「空気がある」なんて、意識しないで生活している。でも、溺れて息が出来ない、苦しい、死にそうだ。そうなってはじめて私たちは空気の存在というものに気付くのではないでしょうか。

 空気がないと困る。空気がないと息が出来ない、苦しい。そうなってはじめて空気があるということを知り、また、空気のありがたさというものが分かるのだろうと思います。

 私たちは、実際に困らないと分からない、実際に苦しまないと分からない、そういうことがよくあります。
例えば、病気になって寝込まないと、苦しまないと、健康のありがたさというものが分からない。あるいは、ケガをして手の骨を折ってしまったとか、足の骨を折ってしまった、そうなってはじめて、手が動かせるということがどんなにありがたいことか、また歩けるということがどんなに便利なことなのかということがよく分かる。

 困らなければ分からないこと、あるいは、苦しまなければ見えてこないもの、そういうもの、たくさんあるのではないでしょうか。

 健康も、空気も、そうであります。そして、聖霊もまた、似たようなところがあるように思うのであります。聖霊もまた、私たちが本当に困った時に見えて来る、分かってくる、そんなふうにも言えるのではないでしょうか。

 ところで、先程の「目に見えない聖霊が、どのようにして私たちを助けてくれるのか」という問題ですけれども、聖霊の助けを求めるのであれば、やはり先ず「聖霊の存在」を認めることであります。信じることであります。そして、祈るのであります。聖霊に「助けて下さい」とお祈りする。

 実は、聖霊というのは、神様の霊ですから、「神様助けて下さい」と祈ってもいいと思います。また、聖霊はイエス様の霊でもありますから「イエス様助けてください」と祈ってもいいと思います。とにかく祈る。助けを求めるのであります。

 聖書には、「求めなさい、そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)という言葉もあります。私たちが本当に困ったとき、苦しいとき、助けを必要とするとき、心からお祈りすれば、助けてくださる。それが、弁護者、助け主である真理の霊・聖霊ではないでしょうか。

 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」。これはイエス様の約束の言葉であります。

 イエス様は聖霊を遣わし、「永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」と言っておられます。

 「永遠に」というのは、私たちが困った時、苦しい時だけということではありません。いつでも、どんなときでも、これからずっとずっといつまでもということであります。

 聖霊は、いつも私たちと共にいて下さるのであります。そして、私たちに正しいこと、真理を示してくださる。
聖霊は「真理の霊」でもあります。そして「この霊はあなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」。

 私たちと共にいてくださる聖霊、私たちの心の中にいつもいてくださり、私たちを支えてくださる聖霊。
聖霊は、さっきも言いましたように、神様の霊、イエス様の霊であります。
私たちは、いつも私たちと共にいて下さる聖霊を信じ、神様に守られ、また、イエス様に導かれて力強く歩んで行きたいものであります。

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