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説教 「永遠の生命」  
               (ヨハネ 17:1-5)      2015/05/17
(於・燕教会・三条教会朗読)
 今日は、使徒信条の最後にあります「永遠の生命(とこしえのいのち)」を信じるということについて学びたいと思います。

 「永遠の生命(とこしえのいのち)」。これは、今使っております私たちの聖書の言葉で言えば、「永遠(えいえん)の命」ということであります。

 「永遠(とこしえ)の生命(いのち) ・ 永遠(えいえん)の命」。
これは、結論から先に言えば、聖書が教える最終目標とでもいうのでしょうか、私たちが目標として歩むべき世界なんだろうと思います。

 フィリピの信徒への手紙の3章13節以下の所で、パウロは、こんなことを言っています。
 「兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13-14)

 ここにあります「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」。これこそ「永(えい)遠(えん)の命」とは言えないでしょうか。パウロは、この言葉の前に、こんなことを言っています。「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)

 パウロの願いは、「何とかして死者の中からの復活に達したい」ということであります。勿論、「死者の中からの復活」なんてありましても、これは単に「一度死んだ者がよみがえる」とか「肉体が復活する」というような、そんな単純なことではありません。

 先週、パウロは、「朽ちる肉体でも、朽ちない霊の体に復活する」なんてことを語っておりましたが、朽ちることのない、栄光に満ちた輝かしい霊の体、これこそ「永遠の命」とは言えないでしょうか。

 パウロは、何とかして死者の中からの復活に達したい、永遠の命に達したいと願っているのであります。

 でも続いてすぐ、「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもない」(3:12)と語り、
そして、「兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」だと、こう言うのであります。(フィリピ3:13-14)

 「永遠の命」。
それは私たちが目標とすべき、それに向かって走るべき、そういう目標。言い換えれば、私たち人間の本来の姿がそこにある。永遠の命を得ることが、私たちの最終目標と言ってもいいのだろうと思うのであります。

 そして、この「永遠の命」を私たちが得る時、実は、神様の願われる「神の国」も完成するということではないでしょうか。

 神様は、エデンの園、神の国を造ろうとされました。
しかしながら、あのアダム・エバの堕落によってエデンの園、神の国は失われてしまったというのが、聖書の教える世界観であります。

 でも、神様は、その失われたエデンの園、神の国を何とかして取り戻そうとして来られた。それが聖書に記されている「救済史」、救いの歴史なんだろうと思います。

 そして、時至って、神様はご自身の独り子イエス様をこの世に遣わし、あのイエス様の十字架と復活を通して、神の国を成就しようとされた。

 イエス様の十字架と復活を信じる者は皆、神の国に招かれているのであります。でも、神の国は未だ完成しておりません。だからこそ、私たちは今も「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り続けているのであります。

 でも、神の国が完全に成就するときが来るのでありますね。それが、イエス様の再臨の時。使徒信条で言えば、イエス様が「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という、そういう「時」であります。

 そして、そのときには、死者もよみがえり、朽ちない者へと変えられる。(1コリント15:52)

 先週、私たちは「からだのよみがえり」ということで、朽ちない霊の体によみがえるということを学びましたけれども、そのとき、私たちは本当の意味で「永遠の命」をいただくのであります。

 そして、私たちが「永遠の命」をいただくとき、神の国は完全に成就する。神様が望んでおられた「神の国」が完成するのであります。

 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」から始まる使徒信条。
天地を造られ、エデンの園・神の国を造ろうとされた神様。
その神様の願われる世界が、「永遠の命を信ず」という、この使徒信条の最後の言葉で完成する。
なぜならば、私たちが「永遠の命」をいただくとき、「神の国」もまた完成するからであります。

 使徒信条というのは、これは単なる私たちの個人的信仰告白ではありません。
 確かに、文字面(もじづら)から見れば、「我は…信ず」、私は信じますという表現が使われておりまして、私はこんなふうに信じます、信じていますということですけれども、
その内容は、聖書が教えようとしている事柄の要約と言ってもいいのではないでしょうか。

 仏教の心髄が「般若心経(はんにゃしんぎょう)」で語られているとするならば、キリスト教の心髄は「使徒信条」で語られている。そんなふうに言ってもいいのだろうと思います。

 いずれにせよ、今日の「永遠(とこしえ)の生命(いのち)」を信ず」ということで、一応使徒信条の学びは終わりになります。長い、長~いお話でした。全部で25回もの学びでした。なぜ、こんなにも時間をかけて学んで来たのかと申しますと、いくつか理由があります。

 一つは、聖書は全体として何を私たちに教えているのか分からないという人が必ずおられるからであります。

 一つ一つのお話は分かっても、この分厚い聖書、全体として何を語っているのか、何を私たちに語ろうとしているのか。それが分からないという人が必ずいる。だから、時間をかけてでもお話しして来た。

 また、こんなことを言う人もよくおられます。
使徒信条なんて一度も学んだことがないと言われる人。そういう人も必ずいる。学んだとしても忘れてしまっているのでありますね。
 聖書の心髄は何か。それは、使徒信条に記されている。 いくらそんなふうに言っても分からない人。使徒信条なんて学んだことがないという、そういう人が必ずいる。 だから、学んで来ました。

 それから、もう一つ。これは非常に言いにくいことなんですけれども、クリスチャンの人たちというのは、自分にとって非常に都合のいい聖書の読み方をしてしまうという、そういう傾向があるからであります。

 例えば、イエス様の十字架と復活によって、私たちは救われた。主に感謝しましょう。主はすばらしい。主を讃美しましょう。ハレルヤ。

 勿論、主に感謝し、讃美することは大切であります。でも、「『主よ、主よ』という者が皆天の国(神の国)に入る訳ではない。神の御心を行う者だけが神の国に入ることが出来るんだ」(マタイ7:21)という、そういう言葉を軽んじる。そういう人もいる。

 問題は、神の国に入れてもらうことではないでしょうか。「救われた」ということで終わってしまって、もっと大切な「神の国に入る」ということが、おざなりになっては元も子もありません。そういう意味では、聖書が教えようとしている心髄をしっかりと踏まえておくことは、とても大切なことではないでしょうか。

 まあ、いろいろな意味で使徒信条を学ぶことの大切さを挙げることが出来るかも知れませんが、取りあえず、今日で使徒信条の学びは終わります。聖書の全体的な教えをしっかりと踏まえた上で、神様の御心を行う。そういう日々の歩みへと導かれたいと思います。

 ところで、今日は「永遠の生命(とこしえのいのち)」を信ず」「永遠(えいえん)の命を信じる」というお話でしたけれども、今までのお話だけでは不完全燃焼を覚えている方もおられると思いますので、最後にもう少しだけお話したいと思います。

 今日、お読みいただきましたヨハネ福音書の17章3節には、このような言葉が記されております。 「永遠(えいえん)の命(いのち)とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

 「永遠の命」。それは、神様とイエス・キリストを「知ること」だというのであります。

 これは、「永遠なるもの」を通して「永遠」を理解しようという、そういうあり方・方法と言ってもいいと思います。

 私たち人間は有限な存在、限りある者ですから、「永遠」なんて申しましても、本当の所はよく分からない。
でも、神様・イエス様を「知る」とき、「永遠なるもの」と出会うのであります。
勿論、聖書でいう「知る」というのは、単に「頭で理解する」ということだけではなく、「生きた交わり」を通して「知る」ということですけれども、
いずれにせよ、「永遠なるもの」と出会うことによって、私たちは「永遠」というものを知ることが出来るのであります。

 「永遠の命」。それは「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」。
神様、イエス様と出会うとき、それは、私たちが「永遠の命」と出会うときであります。
イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。
神様・イエス様と出会うとき、私たちは「永遠の命」と出会う。
聖書には、「御子(イエス様)を信じる人は(既に)永遠の命を得ている」(ヨハネ 3:36)なんて言葉もあります。

 イエス様を信じるとき、私たちは「永遠の命」を恵みとして与えられるのであります。
イエス様は「永遠なるお方」であります。「きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」。
その「永遠なるお方」と出会い、イエス様と交わるとき、私たちにもまた「永遠なるもの」が見えてくる。

 イエス様は、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である」(ヨハネ15:5)とおっしゃいました。

 私たちは、ぶどうの木であるイエス様に、枝として結びつくとき、イエス様と同じ「一つのぶどうの木」になることが出来るのであります。
「永遠なるもの」と結びつくとき、私たちもまた「永遠なるもの」の一部に変えられる。

 「永遠の命」というのは、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」。
イエス様のことを知り、イエス様と出会い、イエス様との交わりを与えられ、イエス様と結びつくとき、「永遠の命」が、私たちにも流れ込んで来るのであります。

 聖書が教える「永遠(えいえん)の命」。
それは、今ある肉体が永遠に生きながらえるというような、そんなことではありません。
「永遠の命」を求めて、昔は「不老不死」の薬を探すなんてお話もありました。今ではiPS細胞(人工多能性幹細胞)を用いて、悪くなった臓器をその都度新しくし、永遠に死なない「永遠の命」を求めるとか、あるいは、クローン技術を用いて自分のクローンを作り「永遠の命」を手に入れようなんて考える。そんな人もおります。

 でも、聖書が言っている「永遠の命」というのは、こういう私たちが考えるものとは全く異なるもの。今ある肉体が「永遠に生きながらえる」というような、そういうことでは決してないのであります。

 そうではなくて、聖書の教える「永遠の命」、それは、繰り返しますけれども、イエス様と結び付くときに与えられる恵みなのでありますね。
 「子は(イエス様は)あなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ17:2)

 私たち、これからもイエス様にしっかりと結びついて、イエス様を信じて、この恵みにあずかるものでありたいと思います。

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