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説教 「からだのよみがえり」  
               (1コリント 15:35-49)      2015/05/10
(於・三条教会・燕教会録音)
 今日は、使徒信条の最後の方にあります「身体(からだ)のよみがえり」ということについて学びたいと思います。

  「身体(からだ)のよみがえり」。これは、前に学びましたイエス様の復活・よみがえりを信じるという「復活信仰」というものと関連していると言ってもいいと思います。イエス様が復活されたように、終わりの日、イエス様が再臨されるとき、私たちもまた復活するという、そういう教えであります。

 ところで、「身体(からだ)のよみがえり」という表現ですが、使徒信条では「身体(しんたい)」という言葉を用いて「からだ」と読ませておりますが、「身体(しんたい)のよみがえり」ということになりますと、これは「肉体のよみがえり・肉体の復活」といった、そういうイメージが強いと思います。

 聖書のうしろの「用語解説」の所にも、「永遠の命」の説明の所に、「キリスト者は、この世に生きているとき既にこの永遠の命を持っているが、決定的にそれに生きるのは、肉体の復活が行われる「終わりの日」を迎えるときである」なんて書いてあります。

 「肉体の復活が行われる『終わりの日』」なんて、「肉体」という表現が用いられておりますから、私たちは、今ある私たちのこの「肉体」、要するに、今生きているこの重力の影響を受ける「肉体」がよみがえる。そんなふうに受け止めてしまいがちであります。

 でも、この「用語解説」の所に記されている、聖書の箇所を見ますと、「肉体の復活」なんてことは記されておりません。

 用語解説の所に挙げられている聖書の箇所は、ヨハネ福音書の6章40節と54節ということになっておりますが、ヨハネ福音書の6章40節には、「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」とあり、
 また、6章54節の所には、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」と書いてあるだけであります。

 要するに、聖書に書いてあるのは、「終わりの日に復活させる」ということだけであって、今生きているこの重力の影響を受ける「肉体が復活する」なんてことは書いてない訳であります。

 確かに、聖書の中には、「兄弟たち、既に眠りについた人たち(死んだ人たち)については、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」ということで、
 「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たち(要するに、死んだ人たち)をも、イエスと一緒に導き出してくださいます」とあります。(1テサロニケ4:13-14)

 でも、聖書が語っているのは、死者のよみがえり、「死んだ人も終わりの日には復活するんだ」ということでありまして、今ある私たちのこの「肉体」がそのままよみがえるという、そういうことが書いてある訳ではありません。

 一度死んだ者が、ゾンビのようによみがえったらどうでしょうか。とんでもないという事にはならないでしょうか。

 なぜ、こんなお話をするのかと申しますと、私たちは、誰か偉い神学者がこう言ったとか、神学書には「こう書いてある」とか、あるいは、先程の聖書のうしろの「用語解説」には、こんな説明がなされている、というようなことで、聖書そのものよりも、むしろ、そういう人たちの意見というか、あるいは、解説書のような説明を、そのまま信じてしまうということがあるということであります。

 でも、私たちが信じるのは、あくまでも「聖書」ですから、先ず聖書の御言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。

 聖書の解説書は、聖書を読む上で、とても役に立ちます。でも、すべて丸呑みにするのではなくて、先ず聖書の御言葉にあたってみる、そういう姿勢が大切ではないかということなんでありますね。

 私が調べた範囲では、聖書の中に、私たちが死んだあと、終わりの日、復活の日に、私たちの肉体がそのままよみがえるというような、そういう「肉体の復活が与えられる」という表現は一つも見つけることが出来ませんでした。

 勿論、イエス様が、ラザロを生きかえらせた(ヨハネ11:43-44)とか、ヤイロの娘を生きかえらせた(マルコ5:41-42)。また、ペトロが、タビタという婦人を生きかえらせた(使徒9:40)というような、そういうお話はあります。

 勿論、イエス様の復活だって、そうであります。三日目に墓からよみがえられたイエス様。それは肉体を伴う復活だったようであります。

 ですから、肉体の復活ということが全くないということではありません。また、死者の復活、体のよみがえり、ということも、聖書の中には記されております。ですから、死者も復活するのであります。

 でも、繰り返しますけれども、よみがえりの日、死者が復活するとしても、私たちがこの世で生きていたような「肉体でそのまま復活する」なんて表現は、聖書のどこにも見当たらないのであります。

 今日取り上げましたコリントの信徒への手紙一15章の所には、1節の所からは「キリストの復活」ということが取り上げられ、12節の所からは「死者の復活」ということが語られております。

 確かに、その日、その時、終わりの日が来るとき、死者も復活するのであります。でも、死者の復活=私たちの肉体の復活ということではない。死者が復活するとしても、それは私たちがこの世に生きていたときと同じ姿で復活するという、そういうことではないのであります。

 で、そのあたりのことが詳しく記されているのが、今日の聖書の所だと思いますが、今日の聖書の所、第一コリントの15章35節以下の所には、「復活の体」という小見出しが付いており、こんな言葉から始まっています。

 「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」。こんな言葉から始まっている。

 そして、そのあとすぐ「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」と語り、麦のような穀物ももともとは死んだような種粒(たねつぶ)に過ぎないけれども、蒔かれればそれが成長し、別のかたち・別の体を持つようになる。

 また、体には、人間の体、獣の体、鳥の体、魚の体等、いろいろな体があるように、「天上の体」というものもあれば「地上の体」というものもあるんだと、こうパウロは説明して行く訳であります。

 そして、「死者の復活」というものも、これと同じだということで、このように語ります。

 「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

 つまり、自然の命の体(要するに、肉の体・肉体)が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体(肉の体・肉体というもの)があるのですから、「霊の体」というものもあるんだ」と、こう教える。

 私たちがこの世で持っている「地上の体」、肉体は、いずれ朽ち果てるのであります。でも、私たちには「天上の体」、すなわち、朽ちることのない「霊の体」が与えられ、私たちは、その日、その時が来れば「霊の体」を与えられて復活する。
 これが聖書の教える「からだのよみがえり」ということなのであります。

 繰り返しますけれども、「からだのよみがえり」というと、「身体(しんたい)、肉体のよみがえり」ということをイメージする人が多いと思います。

 でも、今日の所を読む限り、今生きているこの重力の影響を受ける「肉体」がそのままよみがえる、ということではないのであります。

 よく考えて欲しいのですけれども、もし、この世で生きていた姿そのままで、よみがえるとしたら私たちはどうなるのでしょうか。
 生まれつき目の見えない人は、復活しても目が見えないままなのでしょうか。
 水野源三さんのように小児麻痺で寝たきりの人生を送られた方は、復活しても寝たきりの状態で復活するとでも言うのでしょうか。
 年をとって、視力も衰え、目がよく見えなくなる。また、耳も遠くなる、腰も曲がってくる。そんな状態で復活するとしたら、これは残酷であります。

 使徒信条が言っている「からだのよみがえり」。英語では“the resurrection of the body” とあります。
body のよみがえり、体の復活であります。先程の聖書にあった「霊の体」、これも英語では “spiritual body”。 やはり body なのであります。

 ついでに申し上げますと、聖書の原典であるギリシア語では、「霊の体」の「体」という言葉は“ソーマ”、、英語では、やはり “body”と訳される言葉であります。

 “body”だから“肉体”。単純に考えれば、確かにそうであります。でも、肉体(サルクス)=体(からだ)(ソーマ)ではないのであります。“body”だから「肉体」と訳したっていい。
 でも“body”は「からだ」とも訳せる言葉なんであります。

 なぜ、こんなことをグダグダと言っているのかというと、使徒信条で「からだのよみがえり」と言っているのは、必ずしも「肉体のよみがえり」ということではないということなのであります。

 “body”のよみがえりだから「肉体のよみがえり」、“body”の復活だから「肉体の復活」。そんなふうに理解するのは、人間の願望がそこにあるからではないでしょうか。

 先程の聖書の所には、「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」なんてありますから、この世で肉体的なハンディをもって生きて来た人も、肉体がいやされ、健康な肉体が与えられて復活する。

 年をとった人も、一番元気だった青年の頃の姿で復活する。そんなふうに受け止めようとする。否、そんなふうに受け止めたいのではないでしょうか。

 でも、それは私たちの願望であります。そうだったらいいなあという願望、願い。でも、私たちの願望から、聖書の言葉をねじ曲げてしまうというのはどうかと思います。

 聖書が語っているのは、「肉体の復活」ということではなくて、あくまでも「霊の体の復活」なのであります。

 「死者の復活もこれと同じです。
 蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する。
 つまり、自然の命の体(肉体)が蒔かれて、霊の体が復活するのです。
 自然の命の体(肉の体・肉体というもの)があるのですから、「霊の体」というものもある訳です。」(15:42-44)

 私たちが、使徒信条の「からだのよみがえり」を信じるというのは、「霊の体」のよみがえりを信じるということであります。私たちがこの世で生きていた姿そのままでよみがえるというような、そういうことではありません。

 むしろ、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」とありますように、この世ではいずれ朽ち果てる肉体、あるいは「卑しい」と思われるような、また弱々しいと思われるような、そんな肉体であっても、
復活のときには、朽ちない霊の体、光り輝く力強い霊の体、そういう素晴らしい霊の体が与えられるのであります。

 目の見えない人だって目が見えるようになるのであります。耳の聞こえなかった人も聞こえるようになる。この世では寝たきりだった人でも、復活の時には踊り上がり、飛び跳ねることが出来るようになるのであります。

 そういうすばらしい体、霊の体が与えられるのであります。これが使徒信条の「からだのよみがえり」を信じるということではないでしょうか。

 そして、このような、すばらしい恵みを与えられる人たちというのが、イエス様と結ばれている人たち、イエス様を信じ、イエス様につながっている人たち、そういう人たちなんだと、聖書は教えているのではないでしょうか。

 私たちは、聖書の御言葉を信じ、イエス様を信じ、これからもイエス様としっかりと結ばれて、イエス様につながって、このようなすばらしい恵みを与えられる者でありたいと思います。

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