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説教 「罪の赦し」  
               (ローマ 3:9-20)      2015/05/03
(於・燕教会・三条教会朗読)
 使徒信条には、「罪の赦し」を信じるという言葉が出てまいります。これは、キリスト教の最も大切な教えの一つであります。でも、この「罪の赦し」ということ、誤解している人も多いのではないでしょうか。

 ある人は言いました。「キリスト教は罪を犯しても許される。どんな罪でも許されるなんて教えている。都合のいい教えだ。でも、現実はそんなに甘くはない。」

 確かに、キリスト教では「罪の赦し」ということを教えています。でも、それは「どんな罪を犯しても、その罪が許される」という、そういう短絡的な教えでは必ずしもないんだろうと思います。

 さだまさしの「償(つぐな)い」という歌があります。

 月末になると ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに
 必ず横町(よこちょう)の角(かど)にある郵便局へ とび込んでゆくのだった
 仲間はそんな彼をみて みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
 飲んだ勢いで嘲笑(あざわら)っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり

 僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前にたった一度だけ
 たった一度だけ哀(かな)しい誤ちを犯してしまったのだ
 配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影に
 ブレーキが間にあわなかった 彼はその日とても疲れてた
 (ゆうちゃんは、交通事故を起こし、人を轢いてしまうのでありますね)

  “人殺し、あんたを許さない”と 彼をののしった
   被害者の奥さんの涙の足元で
  彼はひたすら大声で泣き乍(なが)ら
  ただ頭を床(ゆか)にこすりつけるだけだった
  (“ごめんなさい、ごめんなさい”と何度も何度も彼は謝るんでありますね)
 
  それから彼は人が変わった
  何もかも忘れて 働いて 働いて
  償(つぐな)いきれるはずもないが せめてもと
  毎月あの人に(奥さんに)仕送りをしている

 今日ゆうちゃんが僕の部屋へ 泣き乍(なが)ら走り込んで来た
 しゃくりあげ乍(なが)ら 彼は一通の手紙を抱きしめていた
 それは事件から数えてようやく七年目に初めて
 あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り

 「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました
 だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度(たび)に
  主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど
  それよりどうかもう あなたご自身の人生を もとに戻してあげて欲しい」
 
  手紙の中身はどうでもよかった それよりも
  償(つぐな)いきれるはずもない あの人から
  返事が来たのが ありがたくて ありがたくて
  ありがたくて ありがたくて ありがたくて
 
  “神様っ”て 思わず僕は叫んでいた 
  彼は許されたと思っていいのですか
  来月も郵便局へ通うはずの
  やさしい人を許してくれて ありがとう
 
  人間って哀(かな)しいね(いとおしいんですね) だってみんなやさしい
  それが傷つけあって かばいあって
  何だか もらい泣きの涙が とまらなくて
  とまらなくて とまらなくて とまらなくて

 さだまさしの「償(つぐな)い」という歌であります。ご存じの方もおられると思います。

 配達帰りの雨の夜、疲れていたのかも知れないけれども、不注意で人を轢いてしまった“ゆうちゃん”。奥さんから“人殺し、あんたを許さない”と言われたゆうちゃん。ゆうちゃんは、刑務所を出てから、一生懸命に働いて、働いて、毎月月末になると給料袋を持って郵便局へ行くのでありますね。

 ご主人の命を奪ってしまった、その償(つぐな)いのために奥さんに、お詫びの手紙と一緒に、毎月毎月送金し続けるのであります。前科者のゆうちゃん、たいした給料がもらえる訳ではない。でも、その給料を奥さんに送り続ける。

 ゆうちゃんの事情を知らない仲間からは“付き合いが悪い”とか“しみったれ”と言われながらも、彼は黙々と有り金みんな、奥さんに送り続ける。でも、奥さんからは、何の返事も来ないんでありますね。何ヶ月も何年も、音沙汰なし。

 そりゃ、そうかも知れません。奥さんにしてみれば、ご主人の命を奪った憎い憎いゆうちゃんであります。お金をもらったって、許せるような、そんな気持ちにはなれない。

 被害者の気持ちなんて、その立場になってみなければ、誰にも分からない。“もうそろそろ許してあげてもいいんじゃないか”なんて他人事のように言う人もいますが、現実は、そんなに簡単ではないのでありますね。

 被害者がいて加害者がいる。そして、それを見守る第三者がいる。

 第三者は、比較的簡単にものを言います。クリスチャンだったら、「あなたは神様からゆるされているんだから、あなたも許してあげなさい」とか、「イエス様は「7の70倍までも赦しなさい」なんて教えている(マタイ18:22)。だから赦すことも大切。赦せるようになりましょうね」なんて、したり顔で言う。

 加害者だって同じように、簡単に罪を許してもらえるものと思っている。特に、クリスチャンなんか、洗礼を受ければ「罪の赦しが与えられる」なんて教えられていますから、罪を犯しても簡単に許してもらえるという、そういう幻想をいだく人もいる。
 でも、現実は、そんなに甘くはない。

 被害者の気持ち。それは、被害者でないと誰にも分からない。分かりようがないのであります。
 ゆうちゃんから、お詫びの手紙とお金を送ってもらっても、なかなか心の整理がつかない奥さんの気持ち。
奥さんは返事も出さない、否、出せないのであります。
ゆうちゃんも、ただ“償(つぐな)い”の思いをもって送金し続けるしかない。

 でも、あの交通事故から7年経って、やっと一通の手紙がゆうちゃんの所に届く。それは、自分が命を奪ってしまった、あのご主人の奥さんからの手紙でした。

 「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました
 だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度(たび)に
  主人を思い出して辛(つら)いのです あなたの気持ちはわかるけど
  それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」。

 この手紙は、必ずしも「ゆうちゃんを許す」という内容のものではありません。7年経っても「許す」という気持ちにはまだなれないのであります。それが奥さんの素直な気持ち。
 でも、ゆうちゃんの気持ちは届いた。「あなたの優しい気持ちは、とてもよくわかりました。だから どうぞ送金はやめて下さい」。

 ゆうちゃんの気持ちが奥さんに伝わるのであります。でも、「あなたの文字を見る度(たび)に主人を思い出して辛い」。気持ちは分かるけど、まだ心の整理はつかない。それが奥さんの素直な気持ち。
でも、ゆうちゃんの気持ちは確かに届いたのであります。それが一通の手紙となって郵送されて来た。

 勿論、これで問題が解決された訳ではありません。ゆうちゃんの“償(つぐな)い”は、これからが本番なのかも知れません。でも、ゆうちゃんにとっては、その手紙は救いにもつながるものだったと言ってもいいのではないでしょうか。

「手紙の中身はどうでもよかった。それよりも 償(つぐな)いきれるはずもない あの人から返事が来たのが、ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて」。

 ゆうちゃんのことを知っている「僕」は、おもわず“神様っ”て叫んでしまいます。「彼は許されたと思っていいのですか?」。

 たった一通の手紙で、ゆうちゃんの罪が許される訳はありません。ゆうちゃんだって、この手紙で自分の罪が許されたなんて思っていません。

 でも、ゆうちゃんの心は、前とは違います。そこには、今までなかった喜びが、“思いが通じた”という喜びが、平安が与えられたのであります。“心の重荷”が、ほんの少しばかりかも知れないけれども、軽くなったと言ってもいいかも知れません。

 ゆうちゃんのことをよく知っている“僕”は、「来月も郵便局へ通うはずの やさしい人を許してくれて ありがとう」と、つぶやきます。

 この「ありがとう」は、奥さんがゆうちゃんを許してくれて「ありがとう」という、そういう「ありがとう」じゃないんだろうと思います。あえて言うならば、神様がゆうちゃんの心を軽くしてくれて「ありがとう」、ゆうちゃんに、新しい光を与えてくれて「ありがとう」、これからは、ゆうちゃんも少しは前を向いて歩いて行くことが出来る、だから「神様、ありがとう」という、そんな「ありがとう」ではないかと思うのであります。

 「罪の赦し」。人が人を許す。それはとても難しいことであります。でも、一生懸命、自分に出来る精一杯の“償(つぐな)い”をして行くとき、また、罪許される、そういう可能性も生まれて来るのではないでしょうか。

 そして、それは同時に「神様からの赦し」というものにもつながっていく、そんなふうにも思われるのであります。

 七年目にして初めて届いた便り。それが「ありがたくて、ありがたくて」、涙があふれ出てくる。それは、自分の罪と向き合ってきた“ゆうちゃん”だからこそ、与えられた“恵み、感謝、感動”と言ってもいいのかも知れません。

 今日の聖書の所には、「正しい人はいない、一人もいない」。「善を行う者はいない。ただの一人もいない」。私たちは皆、罪の下(もと)にあると教えています。要するに、私たちは皆「罪人」だということであります。

 そんな私たちのために、イエス様が十字架の道を歩んでくださった。そして、あのイエス様の十字架が、私たちの罪を赦すためのものであったということを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けるならば、私たちの「罪は赦される」と、こう聖書は教えている。すばらしい教えであります。

 でも、自分の罪というものを曖昧にしたままで、ただイエス様を信じれば救われるということだけで洗礼を受けても、“ゆうちゃん”のような恵み、感謝、感動があたえられるでしょうか。「ありがたくて、ありがたくて」という感謝、感動。本当に神様によって「罪赦されている」という感謝、感動、そういう恵みを味わうことができるでしょうか。

 勿論、聖書の言う「罪」というのは、この世的な罪ということだけではなく、むしろ、神様に対する「罪」、神様の御心に背いている「罪」、そういう「罪」のことを語っているのでしょうが、「罪の赦し」「罪が赦される」という感覚は、神様に赦されるのも、人から許してもらうのも、これは同じと言ってもいいのではないでしょうか。

 いずれにせよ、「罪の赦し」を信じるのが、私たちクリスチャンであります。自分の罪としっかりと向き合い、その罪が赦されているという、その恵みをしっかりと受け止めて行く者でありたいと思います。

 そして、願わくは、「罪赦されている恵み」、「ありがたくて、ありがたくて」と感謝出来るような、そんな歩みへと導かれたいと思います。

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