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説教 「求めなさい」  
               (マタイ 7:7-12)      2015/04/26
(於・三条教会)
 今日の所は、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という所であります。これは、昔の文語訳の聖書では、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」。こんなふうにありました。有名な言葉であります。

 ところで、「求めなさい」、「探せ(尋ねよ)」、また「門を叩け」というのもそうですけれども、これらの言葉は、積極的に求めていく、積極的に物事に取り組んでいくという、積極性ということを語っている言葉と言っていいと思います。

 最近は、自分から積極的に何かを求めたり、積極的に何かに取り組んだりすることが少なくなって来たようにも思われます。例えば、「指示待ち症候群」という言葉がありますが、「こうしなさい」とか「ああしなさい」と言われないと、なかなかそうしない、そういう人たちも沢山います。

 勿論、みんながみんなそうだという訳ではありません。でも、最近は自分から積極的に何かを求めたり、何かに取り組んだりすることが少なくなって来ている、そんなふうにも思われるんですが、どうでしょうか。

 でも、イエス様は、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」という、こうおっしゃるんであります。求めれば、きっと与えられるよ。探せば、きっと見つかる。門を叩き続ければ、きっと開けてもらえるよ、と、こう教えるのであります。

 でも、イエス様は、ただ求めれば与えられる、私たちが努力して頑張ればきっとその結果が与えられるという、そういう人間の努力のことだけを語っているのではありません。イエス様は続けてこのようにも言っておられます。

 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」 (マタイ 7:9-11)

 イエス様は、私たちが求めるならば、あなた方の天の父、要するに、神様がきっと、それをかなえてくだるということなのであります。勿論、人間の努力も必要です、大切です。でも、人間の努力だけではどうしようもないということだってある訳であります。だから、神様に祈り求めなさいと、こう教えているのではないでしょうか。

 神様に祈り求めるならば、神様はきっと「良い物」を私たちに与えてくださる。それがイエス様の確信なのであります。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。

 でも、本当にそうなんでしょうか。時々、私たちは、一生懸命祈っても、それがかなえられないという経験をいたします。「あんなに祈ったのに、神様は願いをかなえてくれなかった」、そんなことをおっしゃる方もおられます。

 でも、そのお祈りとはどんなお祈りだったんでしょうか。ヤコブの手紙の4章3節には、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」なんて書いてあります。

 自分が楽しむために願い求める、間違った動機で祈り求めても、それはかなえられないのではないでしょうか。言い換えれば、神様の御心にかなわないような祈りは、いくら祈り求めてもかなえられない、そんなふうに言ってもいいかも知れません。

 自分さえよければ、人はどうなったっていい、そんな祈りが聞かれるはずはありません。自分さえよければという祈り、それはエゴイズムの祈りであります。人を不幸にするような祈り、そんな祈りは聞かれないのであります。そんな祈りがかなえられたら、逆にこれは「こわい」ということにはならないでしょうか。

 でも、そんな祈りではない、純粋に求めたのに、神様は願いを聞いてくれなかったというようなこともあります。でも、本当にそうだったんでしょうか。「Evan Almighty「という映画があります。現代版のノアの箱舟物語ですが、この映画の中で、神様はこんなことを言います。

 「忍耐を祈れば、神は「忍耐」をくれると思うかい? それとも、忍耐強くなれる「チャンス」をくれるのかな?」また、こんなことも言います。「神は、勇気を祈れば勇気をくれるのかな? それとも「勇気を出すチャンス」をくれるのかな?」

 「チャンス」、映画の言葉では、opportunity(機会)となっておりますが、神様は、忍耐強くなれる「チャンス」(機会)、また「勇気を出すチャンス」(機会)を与えてくれる、そういうお方なのではないでしょうか。

 もっと勇気が欲しい、もっと勇気があれば、なんて私たちは思う。「神様、勇気を与えてください」なんて祈る。純粋な祈りであります。でも、神様は、私たちが「勇気を出すチャンスを(機会を)与えてくれている、そんなふうに考えることも出来るのではないでしょうか。

 求めてもかなえられないこともある。確かに、そうかも知れません。でも、神様は別のかたちで、私たちに「必要なもの」を備えてくださる。そういうこともまたあるのだろうと思います。

 また、お祈りは、1回、2回祈ればそれでいいというものではありません。ルカ福音書の8章1節以下に、こんなお話があります。

 イエス様は、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに、こんなたとえ話をされたと言います。

 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、私を守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私をさんざんな目に遭わすにちがいない』」。

 そして、イエス様はこのたとえを語ったあと、こんなふうに言われたと言います。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。(ルカ8:1-7)

要するに、祈りは「根気よく、あきらめないで、忍耐強く、相手が困るくらいに執拗に、しつこく祈る」、そういう姿勢が大切なんでありますね。中途半端で、1回、2回祈って、それで願いがかなわなかったからあきらめてしまうというのでは、これではかなわないことも多いのではないでしょうか。

 確かに、イエス様は「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)と約束しておられます。でも、この言葉だって、決して1回、2回祈ればそれでいいという、そういうことではないと思います。やはり「根気よく、あきらめないで、忍耐を持って、相手が困るくらいに執拗に祈る」。かなえられるまで祈る。そういうことが必要なんだと思うのであります。

 私たちが積極的に、一生懸命に求めていくとき、しかも神様が困るくらいに執拗に求めていく時、神様は私たちの願いをかなえて下さる。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

 求め続けるのであります。探し続けるのであります。門をたたき続けるのであります。その時、求めていたものが与えられ、探していたものが見つかり、門も開かれるのであります。

 勿論、私たちが求めていたものと、違う結果が与えられるということもあるかも知れません。でも、それが「本当は必要だったんだ」ということもまたある訳であります。

 いずれにせよ、私たちは途中であきらめてはいけません。もっと積極的に、真剣に求め続けていかなければなりません。私たちが、もっと積極的に、真剣に求め続けて行く時、私たちは聖書の言葉が真実であることを知ることになるのであります。

 私たちそれぞれ、求めるもの、探す物、みな違うかも知れません。でも、求め方そのものは同じと言ってもいいと思います。繰り返しますけれども、私たちは、もっと積極的に、しかも、真剣に求め続けるものでありたいと思います。

 ところで、今日の最後の所には、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という有名な言葉が出てまいります。

 この言葉は、文脈から言えば、「あなた方の天の父・神様は、求める者に良い物をくださる」のだから、あなた方も「人からしてもらいたいことがあれば、人にしてあげなさい」という、そういう教えであります。

 これは聖書のGolden Rule(黄金律)と呼ばれる言葉でありまして、知らない人はいないと言われる程有名な言葉ですが、私たちの人間関係にとっても、とても大切な教えではないでしょうか。

 自分がして欲しいことを、人にもしてあげる。そこから人と人との信頼関係も生まれて来るでしょうし、みんなが仲良くやっていける、そういう道もまた開かれて行くのではないかと思います。

 ところで、この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という、この聖書の言葉ですが、これに似た言葉に「己の欲せざる所、人に施すなかれ」という言葉もあります。自分がして欲しくないと思うことは、他人も同様にいやな事なのだから、それを人にしてはいけない。

 確かに、そうであります。自分がいやなことは人もいや、だから、人にもしない。とても大切な事であります。でも、これはちょっと消極的な気もいたします。自分がして欲しくないから人にもしない。「しない」ということですから、これは消極的と言ってもいいかも知れません。

 それに対して、聖書の方は「自分がして欲しいと思うことを、積極的に人にもしていく」ということですから、これは非常に前向き、積極的であります。概して、聖書の教えというのは、前向き、積極的な教えが多いように思います。先程の「求めよ、さらば与えられん」もそうですけれども、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とか、そして「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」。積極的に、前向きの教えがが多い。

 今の社会、グローバル化などとよく言われたりしますが、もっともっと「積極性」が求められる時代であります。私たちは、仕方なくしていくというのではなくて、聖書が教えるように、もっともっと積極的に物事に取り組んでいく、そういう姿勢を大切にしていければと思います。

 「あなたがしてもらいたいことを、積極的に人様にもしてあげる」、そんな生き方が出来ればすばらしいと思います。

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