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説教 「キリストの体」  
               (1コリント 12:12-27)      2015/04/19
(於・燕教会・三条教会朗読)
 今日は、使徒信条の「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」という所を学びたいと思います。

 先ず「聖なる公同の教会」。
 教会は、神様によって造られたものだから聖なるもの、そして公同の教会。

 公同の教会(カソリケー・エクレーシア)というのは、「教会はどこに行っても同じ」という普遍性を表す表現であります。英語では"Catholic Church"(キャソリック・チャーチと言いますが、私たちは、今あるローマ・カトリック教会を信じるという意味で「公同の教会を信じる」と言っている訳ではありません。「カトリック」という言葉が、もともと「普遍的な、公の、公同」という、そういう意味を持っている訳であります。

 私たちは、教会というのは、どこに行っても同じ、教会は普遍的なもの、一つのものという、そういう意味合いで「公同の教会を信じる」と言っている訳であります。

 それから、「聖徒の交わりを信じる」というのがありますが、聖徒という言葉、前の口語訳聖書には「聖徒」という言葉がよく使われておりましたが、新しくなった新共同訳聖書には「聖徒」という言葉は一回も出てきません。「聖なる者」、そんなふうに言い換えられております。

 例えば、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召された方々」なんて表現が前の聖書にはよくありましたが、今の聖書では「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」(1コリント1:2)なんて表現に変わっております。聖徒という表現がなくなってしまったのでありますね。

 でも、意味していることは同じであります。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」が「聖徒」なんであります。「主イエス・キリストを信じる人たち」、あのイエス様の十字架と復活によって聖められた者は皆、「聖徒、聖なる者」と呼ばれるのであります。

 その「聖徒、聖なる者を信じる」というのは、結局、教会を信じるということではないでしょうか。なぜならば、「聖徒の集まり、イエス様を信じる人たちの集まり」が「教会」(エクレーシア)だからであります。教会(エクレーシア)という言葉は、もともとそういう意味なんでありますね。イエス様を信じる人たちの群れ、共同体、集まり、それを聖書では「教会(エクレーシア)」と呼んでいるのであります。

 今では教会なんて言いますと、「あそこに教会がある」なんて教会の建物を指す場合が多いのですけれども、聖書の言う「教会」というのは、あくまでも「イエス様を信じる人たち(聖徒・聖なる者たち)の集まり、共同体、群れ」なんであります。ですから、「聖徒の交わりを信じる」というのは、教会を信じると言い換えたっていい訳であります。

 でも、「聖徒の交わり」の「交わり」ということを特に考えますと、これは「教会のあり方、教会のあるべき姿を信じる」という、そういう意味にもなります。
 教会は、確かに「イエス様を信じる人たちの集まり」であります。でも「人の集まり」には違いありません。そして、人が集まっているというのは、いろいろな人たちがそこにいる、交わりがあるという事でもあります。
 勿論、「イエス様を信じる・信じている」という点においては皆同じであります。でも、「生まれも育ちも」とよく言いますが、みんな違う訳でありますね。物事の受けとめ方や考え方も、人によって皆違う。そういう人たちの交わりがある所、それが教会なのであります。

 で、そういう人たち、生まれも育ちも違い、物事の受けとめ方や考え方も皆違う人たちが集まって、交わって、一つの集まりを形作っているのが教会ですから、教会にもいろいろな問題が生じます。

 この世にある教会は、決して完全ではないのであります。教会も「人の集まり」ですから、様々な問題も出てくる。でも、教会は、やはり「こうあるべきではないか」ということが語られているのが、今日の聖書の所なんだろうと思うのでありますね。

 で、今日の所には、人間の体の例が取り上げられ、体には多くの部分があるけれども一つの体ではないかという、そういう視点から、教会のあり方が語られている訳ですが、先ず最初に語られるのが、「一人一人の大切さ」ということであります。

 「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」(12:17)。「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えない」(12:21)。

 これらの言葉というのは、一人一人の人間の大切さを語っている言葉であります。繰り返しますけれども、教会には、いろいろな人たちがいるのであります。生まれも育ちも違う。物事の受けとめ方や考え方も違う。今日の所には「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」また「奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」なんて言葉がありますが、そういう違った人たちが集まっているのが「教会」なのであります。

 そして、教会では、その違う一人一人が大切にされなければならない。目が手に向かって「お前なんか要らない」なんて言えないし、また、頭が足に向かって「お前たちなんか要らない」なんてことも言えない」。みんな一人一人、必要だというのであります。

 でも、それだけではありません。教会は一人一人を大切にするということだけではなくて、弱い人たちを特に大切にするという、そういうことがあるんじゃないかというのが今日の22節以下の言葉なんだろうと思います。

 22節以下、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」(12:22-23)

 人によっては、ほかよりも恰好悪い所があれば、それを取り除こうと考える人たちもいます。見苦しい部分もそうです。見苦しい所はいっそのこと取り除いてしまおう、そんなふうに簡単に考える人たちもいる。でも、教会はそうではないと教えるのであります。教会は、ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なんだと教える。これは、この世の価値観ではありません。

 この世の価値観は、弱肉強食、そういう考え方がいまだに支配的であります。勝ち組、負け組なんていう言葉もありますが、これも同じような考え方であります。強い者は勝つけれども、弱い者は負ける。オリンピックなんかでもそうですけれども「勝たなければ意味がない」。そういう考え方も確かにあります。でも、それだけで全てが決まってしまうということではないというのが、聖書の教えなんでありますね。

 聖書は、ほかよりも恰好が悪いと思われる部分があればもそれをみんなで覆(おお)って行こう。そしてもっと恰好よくして行こう。見苦しい部分があれば、みんなでもっと見栄えよくして行こう。それが教会ではないかと教えるのであります。切り捨てではなくて、みんなで足りないところを補い合い、助け合って、乗り越えて行こうという発想であります。それが、28節にある「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という、この言葉ではないでしょうか。

 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に、一緒に苦しむのであります。また、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に、一緒に喜ぶ。喜びも悲しみもなんて言いますが、教会は、みんなが、共に、一緒に歩んで行く、そういう共同体なのであります。それが教会なのではないでしょうか。それが「聖徒の交わりを信じる」ということではないでしょうか。

 教会も人の集まりですから、いろんな考え方の人がいます。みんな違うのであります。でも、その違いを乗り越えて行くのが「教会」ではないでしょうか。一人一人の違いを認め、お互いがその違いを乗り越えて行く。そして、乗り越えるためには、弱い者を大切にして行く。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」という発想。そういうことを大切にして行くのが教会なんだろうと思います。

 「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。

 互いに配慮し合う。これはとても難しいことかも知れません。でも、互いに配慮し合う所に本当の教会も生まれるのではないでしょうか。「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。キリストの体である教会。そこには、いろいろ人たちがいます。そして、一人一人大切な働きをしております。その一人一人をお互いが認め合い、また、配慮し合いながら、弱いところを補って行く。それが本当の教会なんだろうと思います。

 私たち、そんな教会が出来るよう、これからも「聖徒の交わり」を信じて歩んでまいりたいと思います。イエス様は、「あなた方が私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)と教えられました。

 私たちの望む教会、それは、お互いが互いに配慮し合う教会、弱い者が大切にされる教会、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という、そういう教会であります。

 私たちは、そういう教会をみんなで目指して行きたいと思います。そして、神様の栄光を少しでも現して行くものでありたいと思います。イエス様とつながっていれば、そして、イエス様の言葉が私たちの内にいつもあるならば、私たちの願いは必ずかなえられる。

 イエス様の約束、聖書の約束を信じて、少しでも神様の御心にかなう、そんな教会を造り上げてまいりたいと思います。

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