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説教 「聖霊を信じる」  
               (1コリント 12:1-11)      2015/04/12
(於・三条教会、燕教会録音)
 使徒信条の学びも、いよいよ大詰めになりました。今日は「我は聖霊を信ず」という所を学びたいと思います。「聖霊」。先程お読みいただきました聖書の所には、「神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」という言葉がありました。12章3節の言葉であります。

 ここには、はっきりと「聖霊」(聖なる霊・プネウマ ハギオン)という言葉が出て来ている訳ですけれども、聖なる霊・聖霊というのは、「神の霊」とも言われています。「神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わない。また、聖霊(聖なる霊)によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」。

 聖霊。それは「神の霊」なのであります。否、神の霊、それは「神聖なるもの」であるが故に「聖なる霊・聖霊」という言葉で言い換えているのであります。私たちの使っている聖書。聖書というのは、聖なる書物という意味でありますね。神様のことが書いてある神聖な書物なので「聖書」と私たちは呼んでいる。英語の「Bible」も同じであります。聖書のことを、普通、英語では「Bible」と言いますが、聖なる Bible ということで、「the Holy Bible」と言うこともある。聖霊も全く同じであります。神様の霊、それは「神聖なるもの」であるが故に、私たちは「聖霊」と、こう言っているのであります。

 そもそも神様は私たちには見えません。聖書の神様は、霊的な存在なのであります。ヨハネ福音書の4章24節には、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」なんて記されております。「神は霊である」。神様が「霊」であるというのは、これは聖書の前提であります。言い換えれば、神様は「聖なる霊・聖霊」なのであります。

 ですから、今日の「我は聖霊を信ず」という、この使徒信条の言葉は、「我は神を信ず」と言い換えたっていい訳であります。意味は全く同じであります。でも、わざわざ「我は聖霊を信ず」というふうに「聖霊」という言葉を使っているのは、やはり「神様の働き、神様の力」というものを強調するためなんだろうと思うのであります。

 今日の聖書の最初の所には、「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」とあります。「霊的な賜物」。それは神様によって与えられる賜物であります。神様は、私たちにいろいろなものを与えてくださっているのであります。最も基本的なものは、私たちの「命」、私たちが生きているということがあると思いますが、それだけではなくて、今日の所には、「知恵の言葉」だとか「知識の言葉」、あるいは、「信仰」とか「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言する力」、いろいろなことが挙げられています。

 そして、「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”(聖霊)の働きであって、“霊”は(聖霊は)望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるんだ」とあります。(12:11) 聖霊の働き、神様の働き。それは数え挙げれば、きりがありません。でも、問題は、そういう神様の働き、聖霊の働きというものを、信じるかどうかということではないでしょうか。

 例えば、先程の所には、聖霊の働きによって「信仰」が与えられているという言葉がありました。まあ今日の所では、「ある人には聖霊によって信仰が与えられている」とありまして、信仰的な人もいるという、そういう意味で語られている訳ですが、私たちの「信仰」というものも、それは、聖霊によって与えられていると言ってもいいのではないでしょうか。

 私たちの「信仰」。それは勿論、神様を信じるとか、イエス様を信じる、イエス様の十字架と復活を信じる、聖霊を信じる、いろいろある訳ですけれども、「信じることが出来る」というのは、これは決して当たり前のことではないのでありますね。先程の3節の所には、「神の霊(聖霊)によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」という言葉がありました。

 「イエスは主である」、イエス様は主なる神様である。このように信じることが出来るというのは、そこに聖霊の働きがあるからなんでありますね。2000年前に十字架につけられ殺されたナザレ出身のイエス。確かに、イエス様は人間でもありました。でも、そのイエス様が、実は「神の独り子」・神様でもあったと信じるのが私たちの信仰であります。これは誰でもそう信じられるということではありません。やはり聖霊の働きがないと、そんなふうには信じることは出来ない。そういうことになるのではないでしょうか。

 聖霊の働きは、必ずしも「科学」で証明され得るものではありません。あるいは、理性で理解出来るという、そういうものでもありません。でも、確かに、聖霊の働きはあるのであります。今まで「自分は決してキリスト教なんて信じない」と言っていた人が、突然信じるようになる。聖書のお話なんて所詮神話に過ぎない、あるいは、昔話に過ぎないと思っていた人が、突然、聖書の中に「真実・真理」を見出す。みな聖霊の働きなんだろうと思います。

 で、そういう聖霊の働きを信じるということが、それが使徒信条の「我は聖霊を信ず」ということなんだろうと思うのであります。「聖霊を信じる」というのは、聖霊があるとかないとか、そういうことではないのであります。よく「聖霊様」なんて言う人もおられますけれども、「聖霊様」というお方がどこかにおられるという、そういうお話ではないのであります。先程も申しましたけれども、神様は、もともと霊なるお方なのであります。神様ご自身、「聖なる霊・聖霊」なんでありますね。ですから、聖霊様というようなものが、別におられる訳ではない。そうではなくて、聖なる霊である神様が私たちに働きかけ、私たちに様々な霊的な賜物を与えて下さっている、その事実を、私たちは「聖霊を信じる」という言葉で言い表しているのであります。

 繰り返しますけれども、「聖霊様」というお方がどこかにおられる訳ではありません。日本語の聖書には確かに「聖霊」という言葉が出て来ます。でも、これは日本語の翻訳でありまして「聖なる霊・プネウマ ハギオン」という言葉を「聖霊」という言葉に翻訳しているに過ぎないのであります。これは、英語の「brainwashing ブレインウォッシング」を「洗脳」と訳している日本語と同じようなものと言えるかも知れません。朝鮮戦争の時、捕虜になったアメリカ人の兵士たちが、しばらく抑留されたのち帰国してから、共産主義はさほど悪いものではないと口をそろえて言ったということから、brainwashing という言葉が使われるようになったと言われておりますが、日本語では、これを brain 脳を washing 洗う ということで「洗脳」と訳した。でも、正式な心理学用語なんかには「洗脳」なんていう言葉はありません。誰かが他人から見て異常と思えるような考え方を抱くようになったり、何かに没頭したりすることを「洗脳された」という、そういう言葉で表現しているだけであります。聖霊も、神様の霊、それは神聖な霊、聖なる霊だから「聖霊」と呼んでいるだけでありまして、「聖霊様」というお方が、どこかにおられるということではないのでありますね。

 今日の聖書の4節以下の所には、このような言葉があります。
 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(1コリント12:4-6)

 ここには「同じ霊」「同じ主」「同じ神」ということが語られておりますが、これはキリスト教でよく言われる「三位一体の神」ということを語っているのだろうと思います。私たちにいろいろな賜物を与えてくださっているのは「同じ霊・聖霊」。務めはいろいろあるけれども、それをお与えになるのは「同じ主・イエス・キリスト」。働きもいろいろあるけれども、すべてのことをなさるのは「同じ父なる神」。

 「同じ霊」「同じ主」「同じ神」なのであります。キリスト教では、父・子・御霊(聖霊)ということで、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊、それらは「一つの神」であると教えています。三つのペルソナ(personality(性格、個性)、あるいは mask(顔))があるけれども、一つの神であるという教え。所謂「三位一体の神」という教えであります。勿論、「三位一体」なんて言葉は、聖書にはありません。でも「アッバ 父よ」の父なる神という、そういう顔を持つ神様、あるいは、神の独り子としての主・イエス・キリスト。また、神様の具体的な働きとして、神の霊の働き、いわゆる聖霊の働きというものも記されている。それが聖書であります。

 で、今日は「聖霊を信じる」というお話ですが、聖霊を信じるというのは、ただ聖霊様というようなもの、そういうお方がおられるということを信じる。そういうことではないということをお話しました。そうではなくて、聖なる霊である神様が、今も私たちに働きかけ、私たちに恵みを与え、具体的に、私たちを導いておられるという、そういうお話であります。

 イエス様は、十字架につけられる前、こんなことを語られました。ヨハネ福音書14章16節以下。 「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者(㋺助け主)を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」(ヨハネ14:16-17)

 神様は、その性質上「聖なる霊」として、「聖霊」として、今も私たちと共にいて、働いてくださっているのであります。私たちが困っているとき、苦しんでいるとき、私たちを助けてくれる。そして、導いてくださる。それが神様なのであります。神様は、そういう具体的な働きをされるお方なんでありますね。そして、その具体的な神様の働き、霊的な働きを信じるのが、「聖霊を信じる」ということなのであります。

 何度も繰り返しますけれども、私たちが「聖霊を信じる」というのは、単に「聖霊」というものがあるとか、いるとかという、そういうことではなくて、神様が私たちと共にいてくれる。そして、私たちに必要なものを実際に与えてくださり、私たちを導いてくださっているということなのであります。勿論、私たちに必要なものと言っても、それは私たちに都合のいいものばかりではありません。時には、どうしてこんなものを私に与えるのか、と思えるようなものもあるかも知れません。挫折や失敗や、病気や怪我、痛みや苦しみ・悲しみ。「そんなもの私は望んではいません」というようなものもあると思います。でも、神様は、いつも大きな視点から、私たちに一番よいものを与えてくださるのであります。それが、7節にある「全体の益」という言葉ではないでしょうか。

 7節には、このようにあります。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」。ある人にはこれ。この人にはこれ。人によって、いろいろな賜物が与えられております。でも、それは、単に、この人にはこのような賜物が与えられている。あの人にはあんな賜物が与えられているという、そういうことだけではないんだろうと思います。神様は、いつも「全体のバランス」を見て、あの人にはこう、この人にはこうと、「全体の益」になることを、なさっておられるのではないでしょうか。

 11節には、こうあります。「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(12:11) 神様は、望むままに、全体の益となるために、私たちに必要なものを分け与えて下さるのであります。。私たち一人一人に与えられている「神様の恵み・聖霊が与えてくださる恵み」を感謝しつつ、これからも神様と一緒に歩んでまいりたいと思います。

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