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説教 「一緒に歩まれるイエス様」  
               (ルカ 24:13-16)      2015/04/05
(燕教会・三条教会・イースター合同礼拝)
 今日は、イエス様がお墓からよみがえられたことを覚え、そのことを記念して守る「イースター」(復活日・復活祭)であります。で、今日のお話は、このイエス様が復活された日のお話ですが、先ず、こんなことが聖書に記されております。

 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」(ルカ24:13-14)

 「ちょうどこの日」というのは、イエス様が復活された日ですけれども、二人の弟子、一人は、少しあとの18節の所に「クレオパ」という名前が載っておりますが、彼らは、エルサレムから60スタディオン(約11km位)離れたエマオという村へ向かって歩いていたのであります。

 なぜこの弟子たちは、エルサレムからエマオに向かって歩いていたのでしょうか。イエス様は、この日復活したんであります。日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちが、イエス様のお墓に行きますと、そこにはもうイエス様の遺体はありませんでした。その代わりに天使が現れて、「イエス様は復活された」と教えてくれた。そして、マグダラのマリアたちは、このことをイエス様の弟子たちに伝えたのであります。

 でも、聖書によれば、弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、信じなかった」とあります(ルカ24:11)。そりゃそうかも知れません。一度死んだ人がよみがえる、復活するなんて、そう簡単に信じられるお話ではありません。ですから、弟子たちは、イエス様が復活されたというお話を聞いても信じなかった。で、今日の二人の弟子たちも、「そんなことあるはずがない、イエス様が復活したなんてお話、信じられない」と話し合いながら、エマオに向かって歩いて行ったのだろうと思います。

 ところが、この二人の弟子たちが、エマオの村に向かって歩いておりますと、一人の人が近寄って来ました。そして、彼らと一緒に歩き始めた」といいます。聖書には、この「一人の人」というのは、「イエス様であった」とありますけれども、この二人の弟子たちには、それがイエス様であるとは分かりませんでした。どうして分からなかったのでしょうか。

 聖書には「二人の目が遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった」 とあります(24:16)。「目が遮(さえぎ)られていた」というのは、目が見えなかったということではありません。目はちゃんと見えていたんであります。でも、目はちゃんと見えていたけれども、気付かなかったという、そういう意味であります。とにかく、イエス様が近寄って来られ、二人の弟子たちと一緒に歩き始められたけれども、この人たちは、それがイエス様だとは分からなかった。気付かなかったのであります。

 でも、この二人、イエス様とお話しているうちに、段々とイエス様のお話に興味を持ち始めます。特に、「聖書に、こう書いてあるじゃないか」なんて言われると、もっともっと聖書のことを知りたいと思った。そして、夕方になって来たので、この二人の弟子たちは「是非一緒に宿屋に泊まってください」と、イエス様にお願いする訳であります。勿論、まだ一緒にいるその人がイエス様だなんて気付きません。でも、宿屋で一緒に食事をしているとき、この弟子たちは、やっとその人がイエス様であったと分かる訳であります。聖書には「二人の人の目が開けて、それがイエスであることが分かった」とあります。

 今まで、イエス様がいても、それがイエス様だとは分からなかった。それは、イエス様が十字架の上で死んで、それでもうおしまいだと思っていたからなんだろうと思います。でも、イエス様は復活されたのであります。復活されたというのは、イエス様が今も生きておられるということであります。二人の弟子の目が開けて、それがイエス様であると分かったというのは、イエス様が復活され、今もイエス様が生きておられ、自分たちと一緒に歩んでくださるということが分かったという、そういうことなのではないでしょうか。

 イエス様は「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ26:20)とおっしゃいました。復活されたイエス様は、いつも私達と共にいてくださるのであります。そして、いつも私たちと一緒に歩んでくださる。今私たちがイエス様を信じるというのは、復活されたイエス様を信じるということであります。そして、復活されたイエス様を信じるというのは、イエス様がいつも私たちと一緒にいてくれる。そして、いつも私たちと一緒に歩んでくださるということを信じることであります。

 「足あと」というお話があります。有名なお話なのでご存じの方も多いと思います。こんなお話です。ある夜のこと、一人の男の人が夢を見たというのであります。どんな夢かといいますと、この人がイエス様と一緒に海辺を歩いている夢。そして、空一杯に、この人の人生のいろいろな場面が映し出されるという、そういう夢でありました。この人の人生、いろいろなことがありました。そして、それぞれの場面に、二人の足跡が砂の上についているのが見えたというのであります。一つはこの男の人のもの、もう一つはイエス様の足跡でありました。

 ところが、この人の人生のラストシーンが映し出されたとき、この男の人は、ふとおかしなことに気づくのであります。砂の上の足跡を振り返って見ると、一人分の足跡しかない所が、何度もあったというのであります。そこで、この人はイエス様に尋ねます。

 「イエス様、あなたはどんな時にも、私と一緒に歩いて下さると約束してくださいました。それなのに、私の生涯で、一番困ったときや苦しい時には、一人分の足あとしかありません。どうして私があなたを最も必要としたときに、私を置き去りにされたんですか。私から離れてしまわれたのですか」。そんなふうにイエス様に聞いたんだそうであります。そうしますと、イエス様はこのように答えられたといいます。

 「わが子よ、私はあなたから離れたことは、一度もなかった。あなたが試練にあって苦しんでいるあいだ一人分の足あとしかないのは、その時、私はあなたを背負っていたからだよ」と、こんな言葉が返ってきたというのであります。

 イエス様が一緒に歩いてくださるんだから、足跡は二人分あるはず。それが一人分しかないということは、イエス様がどっかへ行ってしまったんじゃないか。そんなふうにも思われるのであります。でも、実はそうではなかった。足跡が一人分しかなかったのは、イエス様がその人を背負って歩んでくださっていたから。だから、足跡は一人分しかなかったというお話であります。

 復活されたイエス様は、いつも私たちと一緒にいてくださいます。私たちと一緒に歩んでくださるのであります。時々、イエス様のことが分からなくなって、自分だけしかいない、そんな孤独を感じるようなこともあるかも知れません。でも、「あなた方をみなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)と約束されたのがイエス様であります。

 イエス様は、どんなときでも、私たちと一緒に歩んでくださるのであります。私たちが困っている時、苦しんでいる時、そんな時は、イエス様が私たちを背負って歩んでくださっているのかも知れません。ですから、つらいことがあっても、苦しいことがあっても、どんなときでも、イエス様から離れず、イエス様と一緒に歩んで行きたいと思います。

 「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ26:20)。イエス様の約束です。私たちと一緒にいてくださるイエス様。私たちと一緒に歩んでくださるイエス様。繰り返しますけれども、私たちがイエス様を信じるというのは、復活されたイエス様、今も生きて働いておられるイエス様を信じるということ。そして、復活されたイエス様を信じるというのは、イエス様がいつも私たちと一緒にいてくれる。そして、いつも私たちと一緒に歩んでくださるということを信じることであります。これからも、イエス様を信じ、イエス様に守られ導かれて歩んで行きたいと思います。

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