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説教 「御心を行うために」  
               (ヘブライ 10:1-10)      2015/03/29
(於・三条教会)
 今日は「棕梠の聖日(主日)」ということでありまして、今日から「受難週」に入ります。受難週については、皆様よくご存知だと思いますけれども、イエス様が十字架に付けられる、その受難の一週間を思い起こしながら歩むレントの最後の一週間であります。

 それでは、この一週間にどんなことがあったのか、もう一度思い起こしてみたいと思いますが、先ず、第一日目、今日に当たりますが、イエス様の「エルサレム入城」という出来事がありました。イエス様が小さなロバ(子ロバ)に乗ってエルサレムに入っていくと、群衆は棕梠の枝を道に敷、「ホサナ、ホサナ」と叫んでイエス様を迎えた訳であります。これが第一日目、日曜日の出来事であります。

 それから、月曜日。月曜日は、イエス様がエルサレムの神殿を清めるという、いわゆる「宮清め」という出来事がありました。神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出し、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきだ」と言われた、あの出来事があった日であります。

 それから、火曜日、火曜日には、いろいろなことがあったようですが、特に、イエス様は律法学者やファリサイ派の人たち、サドカイ派の人たちと、いろいろな論争を繰り広げられました。そして、たくさんのたとえ話を語ったとされております。そういう意味で、火曜日は、論争の日、あるいは、たとえで語られた日などとも言われております。

 それから、水曜日。水曜日は、イエス様はあまり活動されなかったようでありまして、福音書によれば、ベタニヤという村に退かれ、そこでナルドの香油を注がれて葬りの用意をされたと言われております。

 それから、木曜日。木曜日は、あの有名な「最後の晩餐」、それから「ゲッセマネの祈り」などがあります。最後の晩餐のときに、イエス様が弟子たちの足を洗ったということで、この木曜日は「洗足木曜日」(イエス様が弟子たちの足を洗った木曜日)と呼ばれることもあります。

 それから、金曜日。金曜日は、イエス様が十字架に付けられた日であります。これについては、皆様よくご存知だと思いますので省略しますけれども、13日の金曜日にイエス様が十字架に付けられたかどうかは分かりません。伝説的に、13日の金曜日にイエス様が十字架に付けられたので、13日の金曜日は縁起が悪いなんて言われたりもしますけれども、(ホテルなんかでも13階はない)これは全く根拠のないお話であります。

 それから、土曜日。イエス様は金曜日に十字架に付けられ、息をひきとられたあとお墓に葬られますが、土曜日は、イエス様はお墓の中にそのままおられたようで、特別のことは何もなかったようであります。弟子たちがイエス様の遺体を盗みに来るかも知れないということで、番兵がお墓を見張っていた。そんなことは記されておりますけれども、それ以外のことは福音書は何も語っておりません。

 しかし、日曜日になりますと、全ての福音書が、イエス様はよみがえられた、復活されたということを、声を大にして語っております。これがイースターの出来事でありますけれども、これについては、次週またお話したいと思います。

 さて、私たちは今、受難週の一週間の出来事をごく大雑把に見てきた訳ですけれども、イエス様はどうして、わざわざ十字架につけられるという「苦難の道」を歩まれたんでしょうか。今日はもう一度、そのことについて、皆様とご一緒に考えてみたいと思います。

 旧約聖書というものがありますけれども、旧約聖書の民、イスラエルの人たちは、罪意識というものを非常に強く持っておりました。日本では、罪ということよりも「恥の文化」ですから、なかなか聖書のいう「罪」というものが分からない、そういう所があります。でも、「何か悪いことをすれば罰(バチ)が当たる」というようなことなら分かると思います。聖書のいう「罪」というのは、犯罪というものとはちょっと違いまして、日本人の感覚から言えば、この「何か悪いことをすれば罰(バチ)が当たる」という、そういう感覚と言ってもいいと思います。

 で、日本なんかですと、この「何か悪いこと」というのは、非常に抽象的なものでありまして、何が悪いことなのかよく分からない。強いて言えば、良心の呵責を覚えるようなことと言ってもいいと思いますが、聖書の世界は、そのあたりのことを、非常にはっきりと語る訳であります。

 例えば、私たちに命を与えておられる神、目に見えない神、それ以外のものを神とするようなことは、悪いこと、「罪だ」と教える。偶像礼拝なんかもその一つであります。勿論、人のものを盗むとか、ウソをつくとか、あるいは、人のものをほしがる、そういうことも「罪」と教える訳ですが、総じて、神様の願われることを「しない、行わない」。むしろ、神様が望んでいないことをしてしまう、そういうことを「罪」という言葉で語る訳であります。

 聖書には、神様の願われることとして、大きく言えば二つのことが語られています。一つは、神を愛するということ。もう一つは、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する、要するに、私たちがお互いに愛し合うということであります。

 私たちに命を与えてくださっている神様を心から愛し、敬い、仕える、そして神様に感謝しながら、また、私たち人間もお互いに愛し合っていく社会、助け合い、支え合って生きて行く、そういう世界を、神様は望んでおられるというのであります。それが神様の願われることであり、また、神様は、そういう世界をこの世に造ろうとされたと教えるのであります。それが、聖書で言われている「神の国」というものであります。

 いずれにせよ、神様が願われることをしないで、神様が望まれないようなことをしてしまう、そういう私たちのあり方、それを「罪」という言葉で表現するのが聖書であります。そして、日本では、「罰(バチ)が当たる」なんて言っておりますけれども、この「罰(バチ)」に当たるものが、聖書では、神様の罰、裁き、ということになる訳であります。

 悪いことをすれば罰せられる。人間が作り上げた「刑法」にも、犯罪を犯せば罰せられ、罪を償(つぐな)わなければならないということがありますが、「神様の前に犯した罪」も、当然償(つぐな)わなければならない訳であります。

 で、旧約聖書の民、イスラエルの人たちは、この「神様の前に犯した罪」を償(つぐな)う償(つぐな)い方として、とても面白い方法を考え出しました。まあ、何千年も前のお話であります。昔は、よく行われていたやり方ですし、聖書によれば、それは「神がこのようにせよと命じられた」ということになっておりますが(レビ記)、彼らは、自分たちの犯した「罪」を、動物に負わせ、その動物を殺すことによって、自分たちの罪を赦してもらおうとした訳であります。これが、聖書の中でよく言われている「贖(あがな)い」ということであります。

 今日の聖書の所にも、動物のいけにえのことが書いてありますが、昔は、牛や山羊、また、羊なんかを「いけにえ」として殺し、その血を流すことによって自分たちの罪を贖(あがな)う、そういうことを行って来た訳であります。

 でも、このようなことで本当に人間の罪はゆるされるのでしょうか。今日の聖書の所、ヘブライ書の10章1節以下には、このようなことが書いてあります。

 「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。」(ヘブライ10:1-4)

 人間が犯した罪のために動物が犠牲にされ、その動物の血を流すことによって人間の犯した罪が清められるとするならば、罪の自覚、あるいは、罪の記憶もなくなってくるはず。 でも、罪の記憶はよみがえってくるし、罪の自覚も消え去ることはない。 だとするならば、雄牛や雄山羊の血では、結局「罪を取り除くことはできない」ということになる訳であります。
 言い換えれば、やはり人間の犯した罪は、人間の血をもって贖(あがな)わなければならない、ということになるのではないでしょうか。そして、その人間の罪を実際に人間の血をもって贖(あがな)ってくださった方が、イエス・キリストなんだと、聖書は教える訳であります。

 今日のテキストの5節以下の所には、「それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです」ということで、詩編の40編7-9節の言葉を取り上げ、イエス様のことを語っております。ここで語られているのは、8節以下の解説の所にありますように、「神様が望んでいるのは、罪を贖(あがな)うための動物のいけにえではない」ということと、イエス様が「御心を行うために」、この世に来られたということであります。

 「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊(砕けた魂)。打ち砕かれ悔いる心」という有名な言葉が詩編51編19節にありますが、神様が求めているのは、本当に悪かったと思うならば、本当に悪かったという、そういう思い・気持ち・本当に悔いる心なのであります。動物のいけにえを献げればそれでいいという、そういうことでは決してないのであります。

 でも、私たち人間は、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺どおり、そのときは本当に悪かったと悔いても、すぐにそれを忘れてしまう。そういうことがある訳であります。それは、私たちに染み込んでいる罪、よく言われる「原罪」(original sin)があるからであります。その「原罪」(original sin)を取り除かない限り、私たちは、いつまでたっても、同じことを繰り返す。

 でも、聖書は、この私たちに染み込んでいる罪、「原罪」を取り除くために、イエス様がこの世に来られた教えるのであります。神の子であるイエス様が、わざわざ人間の姿をとって、すなわち、私たちと同じ肉体をもってこの世に来られた。それは、神様の御心を行うためだったというのであります。それが、あのイエス様の十字架であります。
 イエス様が、私たちの身代わりとして、私たちのために、あの十字架の上で血を流された。それは、私たちの罪を贖うためのものであり、そして、私たちを再び「聖なる者」、神の子とするためのものであったと教える。

 先程もちょっと申しましたけれども、神様は、この世に「神の国」を造ろうとされたのであります。神の国には、神様を神様として敬い、神様に仕える人間、そして神様の願われることを実際に喜んで行って行く人間、すなわち、「神の子たち」が必要なのであります。その神の子たちを生み出すために、イエス様は自らの命を犠牲にして、私たちの罪を贖ってくださったのであります。イエス様がこの世にこられたのは、神の国を造り上げるためでありました。そのために「十字架の道」「苦難の道」をも厭(いと)わず、その道を歩んで行かれたのであります。イエス様は、神様の御心を行うために、この世に来られ、十字架の道をも歩まれたのであります。

 イエス様の十字架、それは歴史上たった1回限りの出来事でありました。しかし、それは影ではなくて、私たちの罪を贖う、贖(あがな)いそのものなのであります。その贖いによって、私たちは救われるのであります。私たちの罪が赦され、新しい人生を歩んで行くことが出来るのであります。

 時々、イエス様の十字架なんかよりも、イエス様の教え、あるいは、聖書の教えがあれば、それでいいのではないか、なんておっしゃる方もおられます。確かに、イエス様はすばらしいことを沢山教えられました。
 「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)。もらうだけではなくて、むしろ与える方が、幸せに近づくことができるよ。
 あるいは、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天の国・神の国にはいることはできない」(マタイ18:3)。天国にふさわしいのは、幼な子のような純粋な心の持ち主なんだよ。
 また、「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイ20:26)。謙遜になって、人に仕える。そういう姿勢こそ神様に喜ばれることなんだよ。
 また、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」(マタイ7:12)。自分がして欲しいと思うことがあるならば、先ず、あなたから、そうしてあげなさいよ、なんて教えられました。

 聖書には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(1テサロニケ5:16-18)なんていう、私たちの人生の歩みにとって大切な教えもあります。すべてのことに感謝して歩んで行ければ、どんなにすばらしいでしょうか。いつも「ありがとう」。どんな事があっても「ありがとう」と感謝する。そんな生き方が出来れば、確かに、私たちの人生変わると思います。
 また、「私を強くしてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」(フィリピ4:13)なんて言葉もあります。これもすばらしい言葉だと思います。私たちを励ましてくれる言葉。I can do everything. やれば出来るんだ。出来ないことなんかないんだ、私には無限の可能性があるんだという、そういう人生の応援歌のような言葉もあります。

 確かに、聖書には、すばらしい言葉、教えが沢山語られております。それはそれでとても大切なことですし、そういう聖書の言葉によって、私たちが励まされ、力を与えられることは、神様の御心でもあると思います。

 でも、いつも思うのは、そういう人生訓のような、あるいは、私たちの幸せに結びつく、そういう言葉だけが先行し、その根底にある聖書の最も大切な教え、真実が見失われてはいけないということを考えさせられる訳であります。

 イエス様がこの世に来られたのは、単にすばらしい教えを語ったり、また、みんながビックリするような奇跡を行ったりという、そういうことだけではありませんでした。イエス様が、この世に来られたのは、神様の御心を行うためだったのであります。そして、その神様の御心とは、あの十字架につけられること。イエス様は、私たちの罪のために、ご自分の命をささげてくださったのであります。そのことを私たちは決して忘れてはいけないと思います。

 「御心を行うために」この世に来られたイエス様。そして十字架の道を歩んでくださったイエス様。そのすべてが私たちのためだったのでありますね。私たちは、先ずこのことをしっかりと覚えたいと思います。そして、この恵みの上に立って、これからも聖書の御言葉に教えられ、導かれて、歩んで行ければと思います。


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