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説教 「終末信仰(2)」  
               (マタイ 25:31-46)      2015/03/22

 先週は、あの「ノアの時代に起きた洪水」の例を取り上げ、その日、その時は分からないけれども突然やってくる。だから、「目を覚ましていなさい」というイエス様の言葉について学びました。その日、その時、それは、イエス様が「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という日であります。イエス様は、もう一度この世にお出でになられ、そして「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。要するに、最後の審判を行うというのであります。

 最後の審判。それは単なる「神の裁き」ということを語っているのではありません。神の国が完成されるという、そういうことを意味する言葉でもあります。神様が願っておられる神の国が完成するのが、「その日、その時」でもあるのであります。

 聖書は「はじめがあり、終わりがある(αがあり、ωがある)」という考え方をいたします。神様は、神の国を造ろうとして、この世をお造りになりました。天地創造のお話は、ただ単にこの世は神によって造られたというお話ではありません。そうではなくて、神様の願われる世界、愛と喜びに満ちた「神の国」を造ろうとされたというお話であります。

 神様が造ろうとされた神の国、それは本来ならば、すばらしい世界になるはずでした。でも、人間は、神様の御心を理解せず、自分勝手にこの世界をわがものとしようとした。そして、神様が造られたこの世界を台無しにしてしまったのであります。神様のことを忘れ、自分勝手に、自分たちに都合のいいような、そんな世界を造り上げてしまった。

 しかしながら、神様は「神の国」を再びこの世に取り戻すために、救いの歴史を導いて来られました。最初は、ノアだとかアブラハムといった一人の人間を中心に、そして後(のち)には、イスラエル民族という小さな民族を選び、彼らに律法と預言者とを与え、人々が神様に立ち返るよう導いて来られた訳であります。そして、時至ってイエス・キリストをこの世に遣わし、神の国を完成しようとされました。

 しかしながら、人々はそのイエス様を十字架につけて殺し、神の国はどこかへ行ってしまったかのようにも見えました。しかし、神の国はちゃんと造り上げられたのであります。それは、神の国は「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」(ルカ17-21)という、そういう世界でありました。イエス様の十字架と復活を信じるとき、そして、イエス様の十字架によって罪赦され「神の子」とされていることを信じるとき、神の国は「実に、私たちの間にある」のであります。

 しかし、これですべてが完成した訳ではありません。神様の願いは、この世が神の国になることであります。神様が造られたこの世界を神の国にすることが、神様の願いなのであります。それ故、私たちも「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と、こう祈っているのであります。

 神様が造ろうとされた神の国、それが長い人類の歴史を通して、最終的に完成する。そういう時が来る。それが聖書の教える歴史観であります。「はじめがあり、終わりがある(αがあり、ωがある)」という考え方。そして、その「終わりの時」が、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という「時」であります。

 勿論、「終わりのとき」と言っても、それですべてが終わってしまうということではありません。そこから新しい神の国の歴史が始まって行くのであります。その片鱗がヨハネの黙示録の最後の方に少し記されておりますけれども、いずれにせよ、「はじめがあり、終わりがある」という、そういう世界。そういう世界の中に、私たちは今生きている。それが、聖書の教える世界観なんだろうと思います。

 勿論、「歴史は繰り返す」なんて言葉もありまして、人間の歴史は繰り返される。昔あったことはこれからもある。戦争だって繰り返し行われて来た。それの繰り返し。力ある者が世界を支配し、その限界が来ると革命のようなものが起きて、それなりの世界が作られていく。でも、また力ある者が出て来て、この世を支配しようとする。昔は、腕力、武力、そういうもので人々を支配しようとした。今は「お金」で支配しようとしている。形態は違うかも知れませんが、同じようなことを人間はしている。支配者がいれば支配される者がいる。そういう世界が永遠に繰り返される。否、永遠なんてことはない。人間が地球の資源を食い尽くすとき、地球の環境を変えてまで人間の私利私欲を追求していくとき、人間の世界も終わるときがくる。人間もいずれ滅び去るときが来る。地球に人が住めなくなれば、滅びるしかない。それが、この世の終わり。そんな終末観もあります。

 でも、これは「なるようにしかならない」という、あきらめの終末観であります。結局、何をしたって変わらない。世の中は、そんなにあまくはない。結局なるようにしかならないんだという考え方。人間が滅びるとしても、それは自業自得。自分の蒔いた種を刈り取るだけという、さも人間の運命を人ごとのように言って、自分では責任を取ろうとはしない。そういう無責任な終末観、あきらめの終末観もあります。

 でも、聖書は違うのであります。繰り返しますけれども、「はじめがあり、終わりがある」という、そういう世界観なのであります。神様が造られた世界がいずれ完成する、そういう時が来るという世界観。そして、その完成の時を、この世の終わり・終末というふうに呼んでいる。それが聖書の終末観であります。

 どうせこの世はこんなもの、なるようにしかならない。いずれ終わりの時が来ても、それはそれで仕方ない。そんなふうに考えてあきらめるのか。それとも、神の国が来るということを信じて希望をもって歩んで行くのか。それは私たちの考え方次第ということになるのかも知れませんが、ただ時の流れのままに、なるにまかせるということでは、ちょっとさみしい。私たちは、「かしこよりイエス様が再び来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という日が来ることを、やはり信じたいと思います。それは、繰り返しますけれども、単なるこの世の終わりではありません。この世が新しく生まれ変わる日であります。神の国が完成し、新しい時代が始まる、そういう「時」であります。キリスト教の終末観は、私たちに希望を与える日と言ってもいいのだろうと思います。

 「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」とありますから、確かに、最後の審判がなされるのであります。でも、その最後の審判は、ただ恐ろしいことが起こるというようなことだけではないのであります。確かに、聖書には、世の終わりが近づくと、「民は民に、国は国に敵対し立ち上がる」とか、「方々に飢饉や地震が起こる」とか、「偽キリストが現れる」とか、いろいろ記されております(マタイ24:3-28)。また、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」なんて言葉もあります(マタイ24:29)。ヨハネの黙示録にも、いろいろなことが書いてあります。でも、これらのことというのは、「ただこういうことがある」ということであって、必ずしも「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」ということではありません。

 世の終わり、終末ということで大切なのは、ただこの世が終わるとか、天地が滅びるとかという、そういうことではなくて、最後の審判が行われるという、そういう「出来事がある」ということなんだろうと思います。で、その最後の審判についての出来事ですが、今日のテキストには、このようにあります。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25:31-33)
 最後の審判の時、イエス様は栄光の座に着き、羊と山羊を分けるように、私たちをより分けるというのであります。これが「生ける者と死ねる者とを審く」ということであります。そして、右側により分けられた人たちに、こんなふうに言うとあります。

 『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』(マタイ25:34-36)
 右側により分けられた人たちは、祝福を受けるのであります。

 しかし、このように祝福された人たちは、答えます。
 『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』(25:37-39)

 そうしますと、このような答えが返ってきたというのであります。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』(25:40)

 このあと、今度は、左側により分けられた人たちに裁きの言葉が語られますが、そこで語られる言葉は、右側の人たちとは正反対の言葉であります。左側の人たちは、飢えている人を見ても食べさせず、のどが渇いている人を見ても飲み物を与えず、また、旅人に宿を貸すこともせず、裸の人に着る物も与えなかった。また、病気の人や牢にとらわれている人を訪ねもしなかった。それらが彼らの裁かれる理由ということになっております。

 要するに、このお話は、「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という、この裁きは、その人の行い、その人が今まで歩んで来たあり方、生き方、そういうものに基づいてなされるという、そういうお話であります。しかも、ここには、何か特別悪いことをした、人を殺したとか、人の物を盗んだというような、そんな例は一つも取り上げられていない。飢えている人がいれば食べさせてあげるとか、病気の人がいれば見舞うとか、ごく普通の日常生活のことが取り上げられているだけであります。
 これは、聖書の言葉で言えば、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」ということなんだろうと思います。

 イエス様は、何か特別良いことをしなさいなんてことは言っていません。私たちの日常生活の中で、困っている人がいたら助けてあげなさい。親切にしなさい。思いやりをもって人に接しなさいと、語っているのだろうと思います。そして、それが、「生ける者と死ねる者とを審く」、その基準にもなるんだよと、教えているのではないでしょうか。

 イエス様は、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」とおっしゃいました。イエス様は、私たちのすることをちゃんと見ておられるのであります。人の隠れたことを見ておられる神様・イエス様。良いことも、悪いこともちゃんと見ておられる。私たちは、「生ける者と死ねる者とを審きたもう」というその日、神様・イエス様に祝福されるような、そんな歩みをして行ければと思います。

 ところで、この祝福される人たちですけれども、先程の所には、このようにありました。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」

 天地創造の時から用意されている国。それは「神の国」であります。その神の国を受け継ぐ。この世の終わり・終末の時、生ける者と死ねる者とが審かれる時、そのときに祝福される人たちは、また神の国を受け継ぐのであります。神の国が完成し、神の国を受け継ぐ。

 そして、その神の国にふさわしいあり方が、先程の所で語られていた事柄といってもいいのではないでしょうか。神の国を受け継ぐ者は、困っている人がいれば助けてあげられる人。やさしい人、親切な人、思いやりのある人、そういう人たちなんだろうと思います。

 いずれにせよ、いつ、その日、その時が来てもいいように、私たちは、常日頃から、普段から、隣り人を愛するような、そんな歩みを、これからもして行ければと思います。

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