今まで使徒信条を取り上げ学んでまいりましたが、今日は、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という「終末信仰」について学びたいと思います。
「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。「かしこより来りて」、これは、キリストの再臨、イエス様の再臨ということであります。そして「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。これは「最後の審判」が行われるということであります。イエス様は十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府に降られましたけれども、その後、三日目に墓から復活され、天に帰って行かれました。そして今は、神様の右に坐しておられる。勿論、「神の右に坐しておられる」と言っても、私たちに、そういう姿が見える訳ではありません。イエス様は、神の権能をもって今も生きている、今も生きて働いておられるということであります。
で、普通ならば、これでおしまい。イエス様は十字架につけられ殺されたけれども、今は、よみがえって天の神様の所へ帰られ、神の権能を与えられて、今も私たちを守り導いておられる。メデタシ、メデタシ。こういうことになるのでしょうが、聖書は、それで「おしまい」にはしておりません。イエス様が再びこの世に来られる、そういう日が来ると教えるのであります。それが、「かしこより来られる日」であります。「かしこより」、神様の所からイエス様が再びやって来られる。そして、「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。最後の審判を行われるというのであります。
で、今日の所は、そのことを語っている聖書の箇所の一つですけれども、先ず、こんな言葉が出てまいります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」
イエス様の再臨の時、「その日、その時は、だれも知らない」というのであります。「天使たちも子も知らない」。「子」というのは、神の子・イエス様のこと。イエス様だって、その日、その時は知らないと言う。でも、唯一、「その日、その時」を知っておられる方がおられる。それは「神様」。イエス様は「ただ、父だけがご存じである」と言っておられますが、父なる神様だけが、「その日、その時」を知っておられるのであります。
私たちは「全知全能の神」ということを言います。それは、全知全能でなければ、「神」とは言えないからであります。私たちは、最初から「全知全能の神」というものがいると考えていますが、実は、全知全能なるお方を、「神」という言葉で呼んでいるのではないでしょうか。いずれにせよ、全知全能の神。神様はすべてをご存じの上で、神様のご計画を立てるのであります。イエス様をこの世に遣わされたのも神様。そのイエス様を十字架に引き渡したのも神様。そこには神様のご計画というものがありました。使徒言行録には、「このイエスを、神はお定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなた方に引き渡した」なんて言葉もあります(使徒2:23)。イエス様の再臨の時、「その日、その時」も、神様のご計画の中にあるものでありまして、神様だけがご存じなのであります。私たちには分からない。
でも、「その日、その時」は分からなくても、その日は必ず来る。しかも、それは突然やってくるというのが、先程の続きの所であります。イエス様は、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と語られてから、このようなお話をされました。
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:37-39)
「その日、その時」がいつなのか、それは分からないけれども、その日は突然やって来る。イエス様は、旧約聖書の「ノアの箱船のお話」を取り上げながら、この突然の出来事について語るのであります。40日40夜の洪水が起こるまで、人々は食べたり飲んだり、また、めとったり嫁いだりしていた。要するに、普通の生活を送っていたというのであります。
普通の生活。これはとても大切であります。勿論、普通の生活って何なのか、どういうのが普通の生活なのか、なんて議論をし始めればきりがなくなる訳ですし、今も、普通の生活を送れない、そういう人たちも沢山おります。今も戦争(戦禍)から逃れて生活している人たち。難民キャンプで生活している人たち、沢山います。日本でも、あの福島の原発事故で今も「避難生活」をしておられる方々、また、今も「仮設住宅」で生活しておられる方々。本当に心が痛む現実もありますけれども、そういう意味では、普通の生活が出来る。それは本当に有り難いことなのかも知れません。
でも、先程のお話で取り上げられているのは、食べたり飲んだり、また、めとったり嫁いだりしていた、そういう普通の生活が、突然、「洪水」によって無に帰してしまう、すべてが失われてしまうというお話であります。突然、洪水が襲ってくる。創世記のお話では、40日40夜、雨が降り続いたというお話になっておりまして、突然、洪水になった訳ではなさそうですが、あの東日本大震災のときは、本当にアッという間の出来事でした。
地震が起きたのが4年前の3月11日午後2時46分。そのあと津波がやって来たのは、数十分後。沿岸にあった家はアッという間に流されました。私たちが避難していた避難場所に津波の水が来たのは1時間位経ってからでしたが、あれよあれよと言う間に、自家用車のてっぺん位まで水が来て、あたり一面、水で満たされました。翌朝には、見るも無惨な姿に変貌していました。沿岸部は、家が流されて何もない。いや実は何軒か家は残っていました。でも、家の中はがらんどう。みんな津波にもって行かれ、柱と屋根がかろうじて残っている、そういう状態。そういう家も数件はありました。でも、あとはほとんど残っていない。基礎コンクリートだけしか残っていない。そして、つぶれた家の残骸があちこちに散らばっている。私たちが経験した東日本大震災は、こういうものでした。
ノアの時代、洪水が襲ってきて、一人残らずさらって行った。それは、聖書によれば、神様の裁き。そんなふうに言えるのでしょうが(創世記6:11-13)、あの東日本大震災も「神の裁き」だったのでしょうか。中には、そんなふうに言うクリスチャンの方もおられます。でも、津波で流された人たちは、みんな悪い人たちで神の裁きを受けた。命が助かったのは神様のおかげ、神に祝福された人たち。本当にそうなのでしょうか。
あの津波で亡くなられたクリスチャン・教会員の方もおられました。窒息死でした。また、あの津波で住む家がなくなって、他県に引っ越して行かれたクリスチャン・教会員の方々もおられます。その中には、牧師夫妻もいました。多くの人たちが、多くの物を失って、皆右往左往しました。私たちだってそうであります。震災に遭った者、被災した者が、みんな神の裁きを受けたとでも言うのでしょうか。
自然災害と神の裁き。ノアの時代、洪水が襲ってきて、一人残らずさらって行った。それは「神の裁き」だった。だから、東日本大震災も「神の裁き」だった。そんなふうに短絡的に考えるのは、これは一部のクリスチャンの傲(おご)りではないかと思います。そもそも、そんなふうに考える人は、自分が一度も被災したことのない、そういう人たちなのではないでしょうか。
私は、自然災害と神の裁きを、いとも簡単に結びつけるのは、これは間違っていると思います。自然災害はあくまでも自然災害。福島の原発事故は、多分に人災という面がありますが、いずれにせよ、そういう「災害」というものと、「神の裁き」というものを安易に結びつけて考える、そういう考え方は必ずしも正しいとは言えないと、私は思います。
ところで、話がまた横道にそれてしまいましたけれども、イエス様が、ノアの時代の「洪水のお話」を取り上げているのは、「その日、その時」、イエス様の再臨の時、また、最後の審判の時、それは、突然の出来事、突然やって来るということであります。「その日、その時は、だれも知らない。分からない。天使たちもイエス様も知らない」。でも、「その日」は必ずやって来る。とするならば、どうするか。どうしたらいいのかということであります。
イエス様は、42節の所で、こう言っております。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方には分からないからである」と。
分からないから、何もしなくてもいいというのではないのであります。分からないけれども、目を覚ましていることが必要だと言うのであります。これは、今の言葉で言えば、危機管理意識、そんなふうに言ってもいいかも知れません。いつ何が起きても、それに対応できる、そういう準備、備えをしておくということであります。
あの東日本大震災で、私たちは、大きな地震が来るということについては、それなりに準備しておりました。ラジオでも、近いうちに大きな地震が起こるだろうということを、毎日のように言ってました。だから、新しく家を建てる時は太い柱を使う。地震が起きたら、すぐ逃げる。そういうことは、かなり徹底していたように思います。でも、あんなに大きな津波が来るとは、誰も思ってはおりませんでした。1m、2m位の津波なら来るかも知れない。でも、5mも6mも、否、10mを越えるような、そんな津波、誰も想定してはいませんでした。でも、現実は、想定外のことが起こった訳であります。
私たちが住んでいた所は、海から1.5km~2km位内陸にありました。近所の人も、教会の人も、ここまで津波が来るなんて、誰も思ってはいませんでした。でも、私たちの所にも1m位の津波が来た訳であります。正に「想定外」でありました。危機管理意識が低かった。確かに、そうかも知れません。でも、あんなに大きな被害が出るとは、本当に誰も思っていなかったのであります。
で、あらためて考えさせられることは、やはり危機管理意識をしっかりと持つことの大切さであります。私たちは、いつ何が起きても、あわてず動揺せず、しっかりと備えておくことが大切なのではないでしょうか。備えはやはり必要なんだと思います。
最近は、防災計画の見直しなんてこともよく言われます。これでいいのかということを見直す。見直してみる。それは私たちの人生においても同じではないでしょうか。イエス様は、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と教えられました。イエス様が、いつやって来られてもいいように、私たちは、自分の人生を見直し、「目を覚まして」、十分な準備をして、その日を待ち望んでいければと思います。
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