私たちは、前回、「復活信仰」ということで、イエス様の弟子・ペトロが語ったイエス様の復活のことを取り上げました。それは、取りも直さず、福音書に記されているイエス様の復活の出来事、イエス様の直(じき)弟(で)子(し)が経験した出来事と言ってもいいのだろうと思います。
今日は、イエス様の直弟子たちとはちょっと毛色の違う「パウロ」という人のことを取り上げたいと思いますが、パウロは、イエス様の直(じき)弟(で)子(し)ではありませんでした。むしろ、彼はイエス様を信じる人たちを迫害していた人であります。そんなパウロも復活したイエス様と出会い、変えられ、そして、今度はイエス様のことを宣べ伝えて行くのであります。
新約聖書は、27の文書で成り立っていますが、そのうちの約半分、13の文書は、パウロが書いたものと言われています。パウロは、復活されたイエス様と出会い、その人生を変えられ、生涯イエス様のことを証し続けました。彼はキリストの証し人として、イエス様のことを宣べ伝え、各地に教会を産み出して行きましたが、その伝道した教会を離れたあとも、その教会のことを覚え、多くの手紙を書きました。その一つが、今日取り上げておりますコリントの信徒への手紙の一であります。一があるのですから当然二もある訳ですが、今日は一の方を取り上げます。
ということで、今日の所ですが、パウロは先ず、こんなことを語っています。
「兄弟たち、私があなた方に告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」パウロがコリントの教会の人たちに告げ知らせた福音、それはコリント教会の人たちの「生活のよりどころとなっている福音」とありますが、でも、その福音が、ボケで来たというか、曖昧なものになっているので、パウロはもう一度、その福音について語るというのであります。それが3節以下に述べられている事柄と言っていいんだろうと思います。パウロは、3節以下、こんなふうに言っています。
「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。これは、イエス・キリストの十字架と復活のことを語っている言葉でありますね。イエス様が「私たちの罪のため十字架につけられて死んだ」。そして、墓に葬られたけれども「三日目に復活した」。正に、「十字架と復活の福音」であります。この十字架と復活の福音を、パウロはコリントの人たちに語ったのであります。そして、教会を産み出した。でも、この福音が、あとからやって来た人たちによって曖昧なものにさせられてしまった。だから、パウロは、「ここでもう一度知らせます」と言って、この「十字架と復活の福音」を語るのであります。
「十字架と復活の福音」。これについては、今まで何度もお話してまいりましたので今日は詳しいことは省略しますけれども、イエス様が「私たちの罪のために十字架につけられて死んだ」ということだけは、しっかりとおさえておきたいと思います。「私たちの罪のため」。それは、イエス様の十字架が、私たちの身代わりとしての十字架であったということと同時に、その十字架によって「私たちの罪が赦される」という、そういうことを含んでいる言葉であります。
いずれにせよ、イエス様が私たちの罪のために十字架につけられて死んだ、そして、墓に葬られ、三日目に復活したということを、パウロは「最も大切なことと」として、もう一度、コリントの人たちに語るのであります。でも、十字架のことはなんとか分かってもらえても、復活ということになりますと、これはなかなか分かってもらえない、分かりにくい、そういうことがあります。死んだ者が復活するなんて、常識では考えられないからであります。ですから、パウロは具体例を沢山挙げて、なんとかイエス様の復活ということを分かってもらおうとする訳であります。それが5節以下にある言葉であります。
「ケファ(シモン・ペトロ)に現れ、その後十二人に現れた。この十二人というのは、イエス様の12弟子ということなんでしょうが、とにかく、イエス様の弟子たちに復活したイエス様が現れたというのであります。でも、それだけではありません。「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れた」。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っている」。要するに、復活されたイエス様と出会った人たちが、今も沢山いるということであります。でも、まだあります。「次いで、ヤコブに現れ、(このヤコブというのはイエス様の弟のヤコブ。当時イエス様の弟ということで教会の中でも特別な地位を与えられていたようでありますが、とにかく、主の兄弟・イエス様の兄弟であるヤコブにも現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私(パウロ)にも現れた」というのであります。
十字架につけられ死んだイエス様。墓に葬られたイエス様。でも、三日目に復活されたイエス様。そのイエス様は、イエス様の直(じき)弟(で)子(し)だけではなく、多くの人たちの前にも現れた。そして、最後には、「月足らずで生まれたような私」。こんな私にも現れたと、パウロは言う。
これは、どういうことを指して言っているのでしょうか。パウロが復活したイエス様に最初に出会ったのは、あのダマスコ途上でした。パウロは、クリスチャンたちを迫害するためにダマスコに行こうとする訳であります。その途中で、彼はイエス様の声を聞くのでありますね。ダマスコの近くに来たとき、突然天から強い光がさして来て、「なぜ、私を迫害するのか」という声をパウロは聞く。そして、パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と問い返すと、「私は、あなたが迫害しているイエスである」という声が返って来たというお話。(使徒言行録9章、22章、26章)
このときの出来事を、パウロは、復活されたイエス様が自分にも現れた、と語っているのだろうと思いますが、聖書を読みますと、それだけではないようであります。例えば、使徒言行録の18章9節以下には、「ある夜(よ)のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」なんてありますし、また、使徒言行録の23章11節には、「その夜(よ)、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムで私のこと(イエス様のこと)を力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」なんてあります。
パウロは、イエス様の声を聞くのであります。先程の所には、「ある夜のこと」とか、「その夜」なんてありますから、夢の中の出来事だったのかも知れませんが、とにかく、パウロはイエス様の声を聞く、あるいは幻でイエス様を見る。そういう経験をする訳であります。それをパウロは、イエス様が「私にも現れた」。そんなふうに言っているのかも知れません。
で、このようなパウロの経験ですが、これを現代的に解釈しますと、彼はイエス様の声を聞く訳ですし、また、「幻の中で」とか、「イエス様がそばに立って言われた」なんてありますから、これは、今の言葉で言えば、幻聴、幻覚、妄想というようなことにもなりかねない訳であります。
「幻聴」、声が聞こえてくるのであります。実際に聞こえるのであります。「幻覚」、いろんな物や人、また色なんかも見える。実際に見えるのであります。勿論声も聞こえたりする。そして、「妄想」。そう思い込んでしまう。本人にとっては、それが現実。そういう世界が実際にあるのでありますね。(統合失調症?)
でも、パウロの場合は、そういうものとはちょっと違うと思うのであります。イエス様の声が聞こえた。イエス様の姿が見えた。それだけではないのであります。パウロは、それによって彼の生き方が変えられたのであります。イエス様の声を聞いたパウロは、自分の生き方・その人生を180度転換させられました。イエス様を信じる人たちを迫害していたパウロ、教会の迫害者だったパウロが、イエス様を宣べ伝える者・伝道する者へと変えられたのであります。本当のイエス様。復活されたイエス様に出会うということは、私たちが変えられるということではないでしょうか。
それでは、具体的にどんなふうに私たちは変えられるのでしょうか。例えば、今まで、人のことを批判ばかりしていた人が、自分の欠点にも気づいて、悪いことばかり取り上げるのではなくて、人の良いところも認めることが出来るようになる。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7:1)という、そういう声を聞き、そういうあり方へと変えられる。
あるいは、今まで、「目には目」、やられたらやりかえす。それが当たり前、当然そうすべきだと思っていたけれども、それが必ずしも正しいことではないということに気づく。むしろ、「悪人には手向かわない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向ける」というような、そんなあり方もあるのではないか、と考えることができる。(マタイ5:39)。そんなこともあると思います。
また、敵は憎むべきもの、やっつけなければならない。今まで、それが当たり前のように思っていたけれども、敵って本当は何なのかなと考えることができるようになる。敵も同じ人間。憎むよりは、愛することの方が大切なのではないか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」(マタイ5:44)。そんなあり方もありかな?なんて考えることも出来るようになる。
あるいは、今まで「お金がすべて」、お金さえあればなんでもできる。お金さえあれば幸せになれる。そんなふうに考えていたけれども、もし自分が死んだらどうなるのか。今あるお金はどうなるのか。家族に残すことはできるかも知れないけれども、遺産相続で家族の争いが生じることだってある。それだったら、世のため人のため、あるいは神様のために使うのも一つの手かもしれない。「天に富を積む」ような、そんなあり方にも目が開かれて行く。(マタイ6:20)
いっぱいあると思うのであります。復活されたイエス様の声を聞く。それは幻聴として聞こえる訳ではありません。聖書の御言葉を通し、今、私たちに語りかけてくるイエス様の声を聞くのであります。復活されたイエス様は、今も私たちに語りかけ、私たちに、出会ってくださるのであります。
私たちは、今「使徒信条」を学んでおります。今日は「復活信仰」の2回目ですが、使徒信条には、イエス様は「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり」とあります。これは2000年前に、このようなことがあったという、そういうことだけを語っている言葉ではありません。「全能の父なる神の右に座したまえり」とあるからと言って、神様の右にイエス様が坐しておられる、そういう姿が見える訳ではありません。
ヨハネの黙示録には、イエス様のことを「小羊」と呼んでおりますが、その小羊には「七つの角と七つの目があった」(黙5:6)なんてあります。こんな化け物みたいなイエス様が「全能の父なる神の右に」見えたら、それこそ大変であります。そもそも神様も霊ですから見えるはずはない。イエス様も今は私たちの目には見えない。
「全能の父なる神の右に座したまへり」というのは、目に見える出来事を語っているのではなくて、右大臣・左大臣とか、俺の右腕になってくれ、なんて言うのと同じように、権威の象徴なのであります。イエス様は、神の身分であったけれども、この世にお出でになり、そしてまた、神様の身分に戻られた。要するに、今もイエス様は神様として生きておられるということを示しておられるのであります。そして、そのイエス様は、私たちに語りかけてくるのであります。
「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだんだよ」(ヨハネ15:16)、また、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいよ」(ヨハネ13:34)。そういう声を聞くとき、また、「安かれ、あなた方に平和があるように」(ヨハネ20:19)という、そういうイエス様の声が聞こえるとき、復活したイエス様は、確かに私たちの前にいらっしゃるのです。
これからも、このようなイエス様の声を聞きながら、イエス様に励まされ、導かれ、そして力を与えられて歩んでまいりたいものであります。
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