説教集 本文へジャンプ
説教 「復活信仰」  
               (使徒言行録 10:34-43)      2015/03/01

 私たちは、前回、イエス様が十字架につけられたあと、「死にて葬られ、陰府にくだられた」という所を学びました。イエス様は確かに「死んだ」のであります。陰府にまでくだられたのであります。でも、それですべてが終わった訳ではありません。イエス様は、三日目に死人のうちよりよみがえられたといいます。そして、弟子たちの前に現れた。これは、キリスト教で教える「復活信仰」ということであります。

 ところで、現代のような科学が進歩し、人間が理性でものを考えるような時代にあって、この「死人のよみがえり」(復活)という出来事。果たしてどのくらいの人たちが真剣に考えているでしょうか。死人のよみがえり(復活)。それは誰にでも理解出来るようなものではありません。普通に考えたら、復活なんてあり得ない、信じられないというのが相場であります。たとえ聖書に記されているからと言っても、イエス・キリストの復活だと言っても、「信じられないものは信じられない」というのが、ごく普通の、一般の人たちの考え方ではないでしょうか。

 でも、キリスト教の信仰にとっては、このイエス・キリストの復活というのは、無視することのできない大切なものであります。イエス様の復活なくしてはキリスト教の信仰そのものが成り立たないと言える程、大切なもの。なぜならば、教会が誕生したのは、このイエス様の復活以後のことでありますし、イエス様を見捨て失意のうちにあった弟子たちが先ず宣べ伝えたのも、このイエス様の復活の出来事であったからであります。初代教会の歴史を記しております使徒言行録において、復活信仰に触れていない説教はほとんどありません。(使徒2:24-36,3:15,4:10,7:56,10:40,13:20-37,17:31)

 とにかく、「復活信仰」というものは、キリスト教会がキリスト教会としてこの世に誕生し、生き生きとして活動出来た原点とも言うべき大切なものであり、また、それは私たちの信仰にとっても核となるべき、中心となるべき大切なものであります。

 それでは、イエス様の復活というのは、どのようなものだったのでしょうか。
イエス様の復活の出来事を直接語っているのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つの福音書でありますけれども、その記事は必ずしも同じではありません。(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章以下)

 イエス様が亡くなって三日目、日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちがお墓に行ってみると、「イエス様が葬られた墓は空っぽだった」とか、あるいは、天使が現れて「イエス様はよみがえった」と語ったとか、あるいは、復活されたイエス様が現れたというような、そういう大まかな所は同じですけれども、細かいところになりますと、かなり違う所もあります。

 例えば、マタイ福音書では、お墓に行ったのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」とありますが、マルコ福音書では、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」とあります。また、ルカ福音書は「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、その他の婦人たち」となっていますが、ヨハネ福音書では、最初にお墓に行ったのは「マグダラのマリア」だけであったようであります。

 また、弟子たちが、復活されたイエス様と出会ったのは、マタイ福音書では「ガリラヤの山の上」となっておりますが、ほかの福音書では個別の出会いがあったようであります。例えば、ルカ福音書では、エマオ途上でイエス様は二人の弟子たちに現れますし、ヨハネ福音書では、「家の戸に鍵がかかっていたのに」突然イエス様が弟子たちの真ん中に立ち「安かれ」と言われたとか、その場にいなかったトマスにも現れたとか、そういう個別の出会いがあったように記されております。

 確かに、弟子たちは復活されたイエス様と出会ったのでしょうが、その出会いは必ずしも同じものではなかったようであります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書記者はそれぞれのテーマに基づき、それぞれの視点からイエス様の復活を証しているのであります。

 例えば、マタイ福音書では、祭司長や長老たちが登場し、墓の番をしていた番兵を買収し、「イエス様の死体は、弟子たちが盗んだんだ」と言わせたとあり(マタイ28:12-15)、そして「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とあります。死んだ者が復活する。そんなことはあり得ない。実は弟子たちが死体を盗んでイエスは復活したんだと言っているだけという、そういう理解。確かにスジは通るかも知れませんが、そのユダヤ人たちの主張こそ実は偽りであるというのがマタイ福音書なのであります。ですから、そういう視点からイエス様の復活物語も語られている。

 また、最後のヨハネ福音書では、イエス様は、いろいろな所に変幻自在に現れます。例えば、先程も申しましたように、家の戸に鍵がかかっていても、イエス様は突然弟子たちの前に現れる訳であります。そういうことが繰り返し語られている。ヨハネにとっては、復活されたイエス様というのは、時間や空間を超え、どこにでも現れることができる、言わば、偏在的なイエス様(ユビキタスとしてのイエス様)というようなことを強調している。ですから、そういう視点から復活物語も語られている訳であります。

 福音書の復活物語。大筋では同じでも、復活されたイエス様の現れ方はそれぞれ違う。それは必ずしも「そういうことはなかった」ということを証明するものではありません。それぞれの著者が、それぞれのテーマに基づいて、それぞれの視点から、イエス様の復活を語っているのであります。私たちは、むしろ、このような違ったお話が聖書に記されているという事の中に、逆に、イエス様の復活の真実性を見出したいと思うのであります。

 「事実は小説よりも奇なり」というような言葉があります。記されている事柄が違っても、その背後に何らかの事実があったからこそ、いろいろなお話が生まれる。むしろ、そんなふうに考える方が、より論理的・理性的と言えるのではないでしょうか。

 ところで、福音書のお話は、ひとまずおいといて、先程お読みいただきました今日のテキストの所を見ていただきたいと思います。今日の所は、ペトロがコルネリウスという百人隊長の家に招かれ、イエス様のことを語っている所ですが、39節以下の所に、こんな言葉が記されております。

 39節。「私たちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。」 イエス様の弟子たちは、イエス様のことを語る証人、キリストの証人(証し人(びと))だというのであります。そして、続けてこのようにあります。「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現(あらわ)してくださいました。」

木にかけて殺したというのは、イエス様の十字架のことであります。人々は、イエス様を十字架につけて殺してしまった。でも、「神様は、このイエスを、イエス様を、三日目に復活させ、人々の前に現(あらわ)してくださった」。

 でも、それだけではありません。続けて、このようにあります。41節、「しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです」というのであります。(使徒10:39-41)

 イエス様は復活され、弟子たちの前に現われました。先程の福音書にある通りであります。でも、ここでは、あえて、イエス様は「民全体に対して」現れたのではなくて、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエス様が復活された後、イエス様と一緒に食事をした私たち」、要するに、弟子たちに現れたという、こういう言い方をしている。

 これは、言い換えれば、イエス様の復活という出来事。それは、誰にでも分かるような、そういうものではなかったと言うことでもあるのではないでしょうか。復活されたイエス様は、「民全体」、みんなに現れたのではないのであります。イエス様の弟子たちだけに現れたのであります。

 もし、「民全体」に、みんなに現れていたとしたらどうだったでしょうか。ユダヤの最高法院、イエス様を死刑にすべきだと決議した(マルコ14:64)祭司長や長老、律法学者たちに現れたなら、どうなっていたでしょうか。イエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆に現れたら、どうなっていたか。あるいは、イエス様を処刑したポンテオ・ピラトに現れたら、どうなっていたでしょうか。

 勿論、彼らの前に、復活されたイエス様が現れても信じない。そういう人の方が多かったかも知れません。でも、「数(かず)打ちゃ当たる」なんて言葉もある訳ですから、中には「信じる者」も現れたかも知れない。福音書によれば、復活されたイエス様は、どこにでも行かれ、どこにでも現れる、そういうお方のようでありますから、イエス様と関わりのあった全ての人に現れたって不思議ではありません。そうすれば、何人かはイエス様を信じたかも知れない。

 でも、復活されたイエス様は、「民全体」、他の人たちには現れませんでした。イエス様の弟子たちだけ、要するに、特定の人たちだけに現れたのであります。

 イエス様の復活。イエス様が「死人のうちよりよみがえられた」という出来事、これは誰にでも分かるような、そういうものではないということを語っているのではないでしょうか。イエス様が死人のうちよりよみがえられた。復活された。それは確かに「事実」かも知れません。そういう事実がなければ、復活信仰というものも生まれては来なかった、そんなふうにも言えるかも知れません。でも、聖書が語ろうとしているのは、ただイエス様が復活したという「事実」だけを、語ろうとしているのではないんだろうと思います。

 私たちは「復活」なんて言いますと、死んだ者が再び生き返ったのかとか、どのように生き返ったのかとか、あるいは、そんなこと実際にあり得るのかというような、そういうことを議論しますけれども、弟子たち、また、初代教会の人たちは、そういうことよりも、自分たちが経験した、あるいは、体験した出来事に基づいて、「復活信仰」というものを語ろうとしたのではないでしょうか。

 「復活信仰」。それは、勿論「イエス様が死人のうちからよみがえった」ということから始まる訳ですけれども、それだけが問題ではありません。「復活信仰」で本当に大切なのは、よみがえられたイエス様が今も生きて働いておられるということであります。そして、私たちに知恵と力を与え、私たちを慰め、励まし、導いてくれるという、そういう信仰なんであります。

 イエス様は、単なる過去の人物ではない。コリントの信徒への手紙二5章17節には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という言葉がありますが、イエス様は、今でも私たちと「結びついてくださるお方」なんであります。そして、私たちを新しく創造してくれる。古い自分に死んで、新しい歩みを与えてくださる、そういうお方なのであります。復活信仰は、私たちを、もう一度新しく「よみがえらせてくださる」という、そういう信仰でもあるのであります。

 今も生きて働いておられるイエス様。そのイエス様との出会いを確かなものとし、これからもイエス様に守られ導かれて歩んでまいりたいと思います。

このページの先頭へ
説教集目次へ
三条教会トップ゜ページへ
燕教会トップページへ