昔、「開運!なんでも鑑定団」というテレビ番組、小鮒家ではよく観ておりました。 いろいろな骨董品、焼き物(陶器や磁器)、掛け軸や絵画、それにアニメ玩具やブリキのおもちゃ、いろんなもの(所謂「お宝」)が持ち込まれて、専門の鑑定士によって鑑定される訳ですけれども、本物だと思っていたのに偽物だったり、逆に、こんなガラクタと思っていたものが、本当はスゴイものだったりして、とても面白い番組でした。
ところで、「鑑定」と言いますと、これは本物か偽物か、あるいは、これは本当に価値があるものなのかどうか、高価なものなのかどうかという、そういうことを「見定め、判定すること」ですけれども、「素人には、それがよく分からない」という所があります。
ですから、人によっては、自分でいいと思うのが一番いいのであって、鑑定家の言うことなんかには左右されない。そういう人もおります。確かに、自分がいいと思えば、人がなんと言おうと、そんなの関係ない。自分がそう思っているんだから、それはそれでいいんだということにもなります。
でも、それは、言い換えれば、自己満足ということにもなる訳でありますね。「自己満足。大いに結構なことではないか」。確かにそうであります。自分がこれは「古伊万里」だと信じ、いいものだと信じている限り、それはそれでいいのであります。でも、本物の「古伊万里」と単なる「伊万里焼」は、やはり違いがあります。「昔の古伊万里」は何十万とか何百万もしますけれども、「今の伊万里焼」は数千円~数万円で買える。勿論、この値段は骨董的価値が有るか無いかの値段ですけれども、やはり違いはある訳であります。
本物か偽物か。鑑定家はその真(しん)贋(がん)を見分ける訳ですが、本物はやはりいいということはないでしょうか。いろいろなブランド品の偽物、模造品も沢山作られています。でも「本物はやはりいい、いいものはいい」ということも、やはりあるのではないでしょうか。
ニューアンスは大部違うかも知れませんが、こんなお話があります。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)という人、聞いたことがあると思います。ルネッサンスの巨匠、イタリアの画家であり、彫刻家であり、また建築家でもあった有名な人であります。「モナ・リザ」とか「受胎告知」「最後の晩餐」なんかの絵を描いた人ですけれども、このような絵、見た人も多いと思います。勿論、本物を見たという人は少ないかも知れませんが、ポスターや本、テレビなんかでは見たこともあるのではないでしょうか。
私は40年位前、パリのルーブル美術館で「モナ・リザ」の絵を見ましたし、「最後の晩餐」の壁画もイタリアのミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエで見ました。当時はまだ修復前だったので、今のようにきれいではありませんでした。なんかボロボロでよく分からない、そんな状態でした。この壁画は、1977年から1999年にかけて大規模な修復作業が行われ、今では比較的綺麗になっております。
ところで、このレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」の絵。最後の晩餐というのは、イエス様が十字架につけられる前の晩、12人の弟子たちと最後の食事をされた所から、まあ「最後の晩餐」と呼ばれている訳ですけれども、このイエス様と弟子たちとの「最後の晩餐」の場面を、ダ・ヴィンチは修道院の食堂の壁に描いた訳でありますね。
で、この絵を描いた時のお話ですけれども、こんな伝説が伝わっております。聞いたことがあるかも知れませんが、こんな有名なお話があります。
ダ・ヴィンチは、先ず何よりも中心・主体となるキリスト、イエス様を描こうとしたというのであります。でも、それにはモデルが必要ですので、彼はあちこち探し回りました。キリストのモデル、イエス様のモデルですから、そう簡単に見つかりません。でも、ついに見つけました。ローマのある教会の聖歌隊員の一人で、いかにもあどけない無邪気な、まるで天使のような顔をした少年がいたんだそうであります。で、ダ・ヴィンチは、早速、彼に頼んでモデルになってもらい、イエス様の姿を描いたんだそうであります。そのイエス様のモデルとして選ばれた少年の名はペトロ・パンジネリという少年でした。
それから幾年かかけて、ダ・ヴィンチは次々とイエス様の弟子たちの姿をかき加えて、ついに11人を描き終えました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、…(マルコ3:16f.)、ずっと描いていって、とうとう11人の弟子たちの姿を描き終えました。でも、もう一人、最後にもう一人の弟子を描かなければなりません。最後のもう一人の弟子とは誰だと思いますか。そう最後の一人はイエス様を裏切ったイスカリオテのユダでありますね。
ユダは、銀貨30枚でイエス様を売り渡した裏切り者であります。このユダを描くんだからということで、ダ・ヴィンチはまたモデルを探し始めます。今度はどこまでも陰険な、こざかしい顔をした人物を描かなければならないということで、あちこち探し回り、やっと見つけました。
ある日ローマの街頭で、いかにもそれにふさわしい容貌と風采をそなえた一人の物乞いを発見したというのであります。早速、ダ・ヴィンチは彼をやとい、この人をモデルとして裏切り者のユダの肖像を描き上げました。そして、絵が出来上がって、謝礼を渡して、彼のことを尋ねますと、彼は恥ずかしそうにうなだれ、やがて涙を流して、このように言ったといいます。
「何をお隠しいたしましょう。私は以前にあなたから頼まれてキリストのモデル、イエス様のモデルになったペトロ・パンジネリです」と。
この言葉を聞いて、ダ・ヴィンチはびっくりいたしました。あまりの変化にびっくりしたのであります。あのイエス様のモデルだった人物とイスカリオテのユダのモデルになった人物が、実は同一人物だった。びっくりするのも当たり前ではないでしょうか。 このお話、本当かどうかは分かりません。でも、なんか教えられるとことがあるのではないでしょうか。
人間、年と共に変わります。いい意味でも、悪い意味でも、人間は変わっていくのであります。いや、人間だけではなく、すべてのものが変わっていく。「諸行無常」と言いますが、変わらないものはないと言ってもいいと思います。
私は小さい時は、かなりシャイで、人前でお話なんか出来ませんでした。人前に立つとすぐあがってしまって、顔は真っ赤になるし、胸はどきどきするし、本当に恥ずかしがり屋だったのであります。でも、30年も、40年近くも牧師をやっておりますと、段々と度胸もついて来たというのでしょうか、まあ、それなりにお話しすることも出来るようになりました。まあ、私の場合、キリスト教の信仰を持つようになってから変わったと言った方が正確かも知れませんが、確かに、人間は変わるのであります。でも、変わらないものもあるというのが、今日の聖書の御言葉であります。
先程読んでいただいた聖書には、このようにありました。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)。これは、昨年度の標語で、去年の3月まで、そこの壁にかかっていた言葉であります。私たちは時間がたてば変わっていきます。でも、イエス・キリストだけは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」。
ペトロ・パンジネリ、彼はキリスト、イエス様のモデルになりました。でも、のちには裏切り者のイスカリオテのユダのモデルにもなった。偽物のキリストは変わるのであります。でも、本物のキリストは永遠に変わらない。そして、本物のキリストは聖書の中におられるのでありますね。勿論、イエス様の顔かたちは分かりません。ダ・ヴィンチが描いた「キリスト像」、あれがイエス様である訳ではありません。あるいは、ミケランジェロの「キリスト像」、エル・グレコやルーベンスの「キリスト」、また、ピエロ・デラ・フランチェスカやレンブラントなんかが描いた「キリスト像」、キリストの絵は沢山ありますが、そういうものが本物のキリストであるとは言えません。彫刻や絵画に描(えが)かれた「キリスト像」は、あくまでもイエス様をイメージして描(えが)かれたものであります。
でも、本物のキリスト、イエス様は確かにおられます。そして、その本物のイエス様、キリストは聖書の中におられるのでありますね。聖書が語ろうとしているイエス様、キリストこそ本物のイエス様、キリストであります。勿論、繰り返しますけれども、イエス様の顔かたちなんかは分かりません。分かりようがありません。分からなくていいのであります。
私たちは、先程申しましたような、昔の有名な画家や彫刻家、そういう人たちが描(えが)いたキリスト像を「キリスト」としてしまいがちであります。でも、もしそうであれば、黒人のキリストだっているのであります。アフリカ人のキリストは黒人として描かれている。2000年のイエス・キリスト”肖像画コンクールの優勝作品は、ジャネット・マッケンジーさんという人が描いた“ジーザス・オブ・ザ・ピープル”。その絵はブラック・ジーザス、黒人のイエス様でありました。黒人のイエス様。黒人の方にとっては、黒人のイエス様の方がイメージしやすいのであります。でも、イメージはやはりイメージであります。本物とは限りません。やはり本物は聖書の中にいるのであります。そして、私たちは、この本物のキリストにお会いすることが大切なのではないでしょうか。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」(ヘブライ13:8)。それはイメージによって変わるものではありません。私たちは、私たちのイメージによってイエス様も変わると思っています。だから、白人のイエス様もいれば黒人のイエス様もいる。でも、イエス様は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」なのであります。このイエス様と出会うことが、本当は大切なのではないでしょうか。聖書のイエス様。本物のキリスト。このキリストと出会い、力を与えられ、励まされて、新しい一歩を歩み出して行ければと思います。
最後に、ある本の中で語られていた言葉を紹介しておきたいと思います。これは最初の「本物か偽物か」その真贋の鑑定についての言葉ですが、こんな言葉があります。
「理詰めではなくても、予備知識がなくても、天使のように純粋な心の持ち主で、女神のごとき美の理解者であれば、本物か偽物か・本物か贋作かが分かる」。(松岡圭祐著「万能鑑定士Qの事件簿Ⅴ」の最後の方に出てくる言葉)
この絵のここは、こうなっている。作者のサインがここにこんなふうに記されている。ここには、このような顔料が使われ、このような筆使いで描かれている。そういう知識がなくても、天使のように純粋な心の持ち主であれば、本当に美というものが分かる者であるならば、本物か偽物かが分かるという言葉であります。
私は、この言葉、どことなく、イエス様の「心の清い人々は、幸いである。その人たちは、神を見る。」(マタイ5:8)という言葉と共通する所があるように思います。心の清い人、天使のような純粋な心の持ち主は、本物の神・本物のイエス様・キリストを見ることが出来るのだと思います。
また、先程の本の中には、「感受性のない人間には鑑定はできない。本物は、向こうから語りかけてくる」という言葉も出てくる訳ですが、私たちが、聖書の御言葉を素直に読んで行くとき、本物のイエス様が「向こうから私たちに語りかけてくる」ということはないでしょうか。
いずれにせよ、偽物のキリストに惑わされないで、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」本物のキリスト・イエス様と出会い、導かれて、これからも希望を持って歩んで行ければと思います。
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