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説教 「十字架につけられ」  
               (マルコ 15:25-37)      2015/02/08

 私たちは、今「使徒信条」を学んでおります。なかなか進みませんが、今日は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」とある、「十字架につけられ」という所を学んでみたいと思います。

 イエス様は、朝9時頃、十字架につけられました。そして、午後3時頃息を引き取られたと言われています。一滴一滴、血潮が流れ落ちる、その苦しみの中で、最後に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫んで、息を引きとられたということであります。(マルコ15:34、マタイ27:46)。

 ルカ福音書では、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。ヨハネ福音書では、「全てが終った」(新共同・成し遂げられた)(19:30)というのがイエス様の最後の言葉であるとしておりますが、一番最初に書かれたマルコ福音書、そしてマタイ福音書なんかでは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というのが、イエス様の最後の言葉であるとしています。真偽はよく分かりません。

 でも、人間としてのイエス様というのを考える時、苦しみの絶頂にあって、神様にさえ見捨てられたような、そういう状況の中にあって「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたという、この言葉は非常に感銘を受ける言葉であります。なぜならば、死の土壇場にあっても、イエス様は、「わが神、わが神」と呼びかけているからであります。

 聖書によれば、イエス様は、何の罪も犯さなかった。ペテロの手紙一の2章22節には、「(イエス様は)罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」と記されております。罪もないのに、無実なのに、死刑にならなければならない、殺されなければならない。そんな状況の中にあるならば、誰だって、「神も仏もあるもんか」と開き直るのが相場ではないでしょうか。

 しかし、イエス様は、「わが神、わが神」と呼びかけている。これは、驚きであると共に、あくまでも、神様に身を委ねるというのでしょうか、神様に目を向けていく、そういう「本来の人間の姿」を現しているのではないかと思います。

 ルカ福音書では、イエス様の最後の言葉を、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)としておりますが、これも人間のあるべき姿を示しているのだと思います。

 何があっても、どんなことがあっても、最後は神様に委ねる。そのとき、神様は一番よい方法で私たちを導いて下さるのではないでしょうか。

 私たちは「信仰」ということをよく言いますが、信仰というのは、自分に都合のいい時だけ神様を信じるのではありません。神様に見捨てられたような、そういう逆境の中にあっても、それでも「わが神、わが神」と神様に呼びかけて行く、それが本当の信仰というものではないでしょうか。

 ところで、イエス様が息をひきとられた時、この様子を見ていたローマの兵隊、百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白しております。(マタイ27:54、マルコ15:39)。この告白は、全てのキリスト者の告白でもあります。イエス様のご生涯というのは、単に人間の模範であるということだけではなくて、正に神の子としてのご生涯でもまたあったのであります。

 それでは、神の子としてのイエス様は、どうして十字架につけられなければならなかったのでしょうか。聖書は、それは私たちの罪の為であったと教えている訳でありますね。先程のペトロの手紙一の2章24節以下の所には、このようにあります。

 イエス様は「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(1ペトロ2:24-25)

 神様の前に「的はずれな生き方」をしている私たち。「罪人」としか言いようがない私たち。本来ならば、私たちが神様の裁きを受けなければならないのに、イエス様が私たちに代わって裁きを受けてくだった。先程、イエス様の「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という臨終の言葉を見ました。イエス様は神様から見捨てられたのであります。イエス様は、神様に見捨てられ、神様の裁きをお受けになられたのであります。

 勿論、イエス様は何も悪くありませんでした。何の罪も犯しませんでした。でも、イエス様は神様から裁かれたのであります。それは「私たちのため」でありました。イエス様が「その身にわたしたちの罪を全部担ってくださった」のであります。

 イエス様の十字架は、「私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」。すなわち、私たちが神様の前に、もう一度「神の子」として立ち返ることが出来るようになるためなのでありますね。アダムとエバが犯した罪、「食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神様の戒めを破り、死んでしまった人間(霊的な死)。その死んでしまった人間が再び「神の子」として復活する道を、イエス様はご自身の命と引き換えに私たちに開いて下さったのであります。

 神様は義なるお方、正しいお方でありますから、罪人を無条件で赦すことは出来ません。「罪と罰」という原理原則から言えば、罪を犯したなら罰を受けなければならない。神様は罪を犯した人間に対して、裁きをもって臨まなければならない。そうでなければ、神様は神様ではなくなってしまうのであります。神様は義なるお方、正しいお方なのですから、罪人である私たちを、そのままでは決して「よし」とは出来ない。それ故「裁き」が必要だったのであります。

 でも、神様は私たちを裁きませんでした。その代わりに、罪を犯したことのないお方・神の独り子・イエス様を裁かれたのであります。イエス様の十字架は、神様の裁きの象徴であります。イエス様は、十字架によって裁かれたのであります。

 しかし同時にそれは、私たちにとってみれば、罪からの解放であります。救いであります。神様がイエス様の十字架ゆえに私たちの罪を赦してくださるというのですから、もはや私たちは「罪」に捕らわれる必要はないのであります。私たちの罪は、イエス様の十字架によって贖われたのであります。

 これは「恵み」であります。とても「ありがたい」ことであります。と同時に、このイエス様の十字架は、「神様の愛」を示すものでもあります。ヨハネの手紙一4章9節には、このような言葉があります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって(イエス様の十字架によって)、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

 神様は、私たちを裁く代わりに、ご自身の独り子イエス様を裁かれました。それは、罪に死んでいた私たちが「(再び)生きるようになる」ためであります。神様は、私たちを愛しておられるのでありますね。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を(私たちを)愛された」のであります。イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と教えられましたが、イエス様ご自身が、私たちのために命を捨ててくださったのであります。ここに、イエス様の愛・神様の愛があるのであります。

 私たちは、今や神様によって罪赦され、失われていた「神の子の姿」を再び手に入れることが出来るようになりました。私たちは、今まで「羊のようにさまよっていました」。でも、「今は、魂の牧者であり、監督者である方(神様)のところへ(再び)戻る」ことが出来るようになったのであります。イエス様の十字架が、私たちの罪のためであったと信じるなら、また、イエス様こそ神の独り子であり、私たちの救い主であると信じるなら、誰でも救われるのであります。誰でも「神の子」になることが出来るのでありますね。

 ガラテヤの信徒への手紙3章26節には、このような言葉があります。
 「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて「神の子」なのです。」

 私たちは、神様に愛されている「神の子」。イエス様に結ばれている者は皆「神の子」としていただけるのであります。この恵み、それを聖書は「福音」(喜ばしい知らせ)として、私たちに告げているのでありますね。

 私たちは「恵み」なんて言いますと、自然界の恵み、太陽の光があって、また雨が降って、豊かな収穫が与えられる。そういう恵みを考えるかも知れません。あるいは、命が与えられ、健康が与えられ、今日も元気に働ける、そういう恵みを考えるかも知れません。

 教会では「恵みを数えましょう」なんてことも、よく言われます。今生かされている恵み、家族が与えられている恵み、食べられる恵み、試験に合格した恵み、就職できた恵み、いろいろな恵みがあります。時には、「病気になってはじめて健康のありがたさを知る」という意味では、病気もまた「恵み」かも知れません。

 確かに、いろいろな恵み、いっぱいあります。数え挙げたらきりがありません。でも、数ある恵みの中で、決して忘れてはならない「恵み」があります。それは、イエス様と結ばれるならば誰でも皆「神の子」としていただけるという「恵み」であります。

 「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて「神の子」なのです。」

「神の子」、それは本来の私たちの姿であります。神様によって命をあたえられている人間が、本来の姿を取り戻すのであります。自分自身を取り戻すのであります。自分自身を取り戻すことが出来るのであります。これは、「私は私であっていい」という「恵み」と言い換えてもいいかも知れません。「私は私であっていい」。それは、私が、神様の前に、一人の人間として、「神の子として生きて行くことが出来る」という「恵み」であります。そのためにイエス様の十字架はあったのであります。

 キリスト教のシンボルは「十字架」であります。十字架は、イエス様が十字架につけられたから、それがシンボルになったということだけではありません。「十字架」に込められている大切な意味があるからこそ、今でも私たちは「十字架」を大切にしている訳であります。イエス様が十字架につけられた意味をしっかりと覚え、そして、この「恵み」を、みんなと分かち合うものでありたいと思います。

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