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説教 「あなた方は神の神殿」  
               (1コリント 3:10-17)      2015/02/01
燕教会創立84周年記念礼拝
 今日は、燕教会創立84周年の記念礼拝です。記念礼拝と申しましても、特別何か変わったことはいたしません。今日は2月の最初の主日礼拝ですから「聖餐式」はありますけれども、それ以外は、何か特別なことをしようという「提案」は、役員会からも出ませんでした。ですから、いつも通りの礼拝であります。

 でも、教会創立84周年を迎えた訳ですから、私たちは先ず神様に感謝したいと思います。今日(こんにち)に至るまで、この燕教会を守り導いてくださいました神様に、先ず心からの感謝をささげたい、そんなふうに思います。

 教会の歴史を振り返れば、良いときもあれば、大変なときもありました。特に、戦時中はどこの教会も大変でしたし、また、戦後のあの「聖十字教会の問題」なんかは、心痛む出来事でもありました。今では、その時のことを覚えていらっしゃる方は少なくなりましたし、心を痛めるような出来事ではなかったとおっしゃる人もおられるかも知れませんが、いずれにせよ、84年の歴史の中にあっては、いろいろなことがありました。また大変なこともいろいろあった訳であります。

 しかしながら、このように今も燕教会がここにある。神様を讃美し、礼拝する、そういう人たちが、ここにいる。主の恵みを証する人たちが、ここに集まっている。この事実の前に、先ず、神様に感謝する、そういうことから始めたいと思うのであります。

 「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」(㋺詩118:1他)。
先ず「主に感謝する」、神様に感謝する。「主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。主の恵みを覚え、その慈しみを覚え、今まで燕教会を守り導いてくださった主に、神様に、先ず感謝したいと思います。

 ところで、教会創立記念礼拝というのは、単に過去に目を向けるということだけではなくて、これからの展望というのでしょうか、教会のこれからのことも考える時でもまたあるように思います。過去を振り返ることも大切ですけれども、将来のこと、これからのことも考える。そういうこともまた大切ではないでしょうか。

 勿論、私たちの信仰から言えば、神様に委ねるということも大切であります。
 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。
 確かに、明日のこと、これからのことに思い悩む必要はない、心配する必要はないのかも知れません。神様がちゃんと導いてくださるからであります。そういう意味では、「神様にすべてを委ねる、お任せする」ということも、とても大切であります。

 しかし、すべて神様まかせで、私たちは何もしなくてもいいのでしょうか。
 「(あなた方は)何が神の御心(御旨)であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と、ロマ書12章2節にはあります。
 「わきまえるようになりなさい」というのは、私たちに「考えなさい」ということではないでしょうか。何が神の御心(御旨)なのか、何が善いことで、神様に喜ばれることなのか、そういうことを、私たちは、しっかりと考えて歩んで行かなければならないのではないでしょうか。

 神様にすべてをお任せしているのだから心配ない。確かに、そうかも知れません。でも、それは、決して「行き当たりばったり、成り行きにまかせる」ということではありません。神様がすべてやってくれるから、私は何もしない。そうではなくて、私たちは、「何が神の御心なのか、何が善いことで、神様に喜ばれることなのか」、そういうことも、しっかりと考えて歩んで行かなければならないのであります。

 それでは、これからの教会ということですが、これからの教会、どんなふうに私たちは造り上げて行ったらよいのでしょうか。 で、普通は、こんな教会にしたいとか、こんな教会でありたいとか、積極的な、前向きなアイデアがいっぱい出て、ヴィジョン(幻)をもって歩んで行こうということになるのでしょうが、燕教会の場合は、事情が少し異なります。

 というのは、燕教会の場合、あまり言いたくはないのですが、前向きに「こうしよう」という前に、現実問題として今多くの課題をかかえているからであります。

 昨年の教会総会では、会計の問題と会堂(建物)の問題が取り上げられました。会計のことについては、「牧師・伝道師を支える献金」というものが新しく創設され、それなりに推移しておりますが、会堂(建物)の問題は、なかなか前進しておりません。

 1930年(昭和5)年に建立された現教会堂。84年の風雪に耐え、なんとか今でも使用しておりますが、牧師館の方は現在使える状況ではありません。

 今年は「阪神・淡路大震災から20年」ということで、再び「耐震の問題」が取り上げられたりしておりますが、燕教会の会堂(建物)の「耐震の問題」については、いまだ手付かずの状態。耐震診断もまだなされてはいません。

 今週の2月5日(木)には、耐震を診断してくださる方が教会に来てくださり、耐震診断についてのお話を聞く手はずになっておりますが、「やっとこさ、ここまで来た」という状況であります。

 「耐震の問題」というのは、何もなければ心配なんかする必要ないのかも知れません。でも、万一ということがあります。阪神・淡路大震災(1995)、新潟県中越地震(2004)、そして東日本大震災(2011)。私は東日本大震災の被災者の一人ですから、余計心配なのかも知れませんが、何かあったら大変なのであります。何かあってからでは遅いのであります。人の命に関わる問題なのでありますね。

 会堂が壊れたということだけであれば、まだしも、礼拝中に、あるいは、役員会とかナルド会、聖書を学び祈る会、そういう時に、大きな地震が起こって、人が亡くなったというようなことにでもなれば、誰が一体責任を取るのでしょうか。本人は、自己責任で教会に行っていた。それでよいかも知れません。しかし、家族の方、親戚の方はどうでしょうか。すべての人が「あれは仕方なかった」で済ましてくれるでしょうか。

 東日本大震災で、多くの人が犠牲になりました。「あの時は仕方なかった」。そんなふうに考える人も沢山おります。でも、あとになって冷静に考えると、「もっと適切な対処の仕方・方法があったのではないか」ということで、裁判に持ち込み、何億という賠償を請求する人もいます。そして、それが認められ結審する。

 支払いを命じられた人も、勿論被災者であります。多くのものを失っている。にもかかわらず、何億もの賠償金を命じられる。そういう現実が実際にある訳であります。(日和山幼稚園の園児が亡くなった。自動車学校の教習生が亡くなった。責任者はみな責任を問われました。)

 教会では、そういうことはないと言い切れるでしょうか。繰り返しますが、本人は、自己責任で教会に行っていた。それでいいかも知れません。でも、家族の人や親戚の人は、それで納得するでしょうか。あとになって裁判にでもなれば、必ず教会の責任も問われることになるのであります。

 まあ、そんなこともありますので、会堂(建物)の「耐震診断」は早急に行わなければならない問題だと思いますが、問題は、耐震診断で「この建物はあぶないよ、危険だよ」という結論が出た時のことであります。
 危険なのに、そのまま放置しておくことは出来ない。とすれば、耐震補強工事を行うのか。それとも別の道を探るのかという、そういう問題も出てくる。しかも、資金的に、それが可能なのかどうか、という問題も生じる。

 「だから、今まで耐震診断なんて、して来なかったんだ」という意見もあるかも知れません。でも、そういう意見は、極めて無責任であります。危険があるかも知れないのに、それを隠蔽し、何事もないかのように装う。この世では、そういうことも行われることがあるかも知れませんが、教会では、そんなことすべきではありません。

 いずれにせよ、燕教会の場合、将来のこと未来のことを考えて、こんなことをしよう、こんなことをしたいという、そういう積極的な、前向きな方向性よりも、今をどうしたらよいかという、そういう課題の方が多いのであります。
 そういう状況の中にあって、今どうしたらよいか、これからどうすべきかということを一生懸命に考えているのが、今の役員会であり、また、私たちの教会なんだろうと思います。

 勿論、先程もちょっと申し上げましたように、「成り行きにまかせるしかない」という人たちもいます。「自分たちはもう年だし、経済的な力もないし、何かしようとしても何も出来ない」。そう言う人たちもいます。
 確かに、高齢者の多い教会ですから、礼拝に出るのが精一杯、ほかのことまでは考えられない。考える余裕がないという、そういう人たちもいます。
 でも、いや、だからこそ、そのような現実を踏まえ、今の教会をどうするか。どうしたらよいのかということを、しっかりと考えてみることも、また大切なのではないでしょうか。

 前にもご紹介したことがあるかも知れませんが、ラインホールド・ニーバー(1982-1971)という人の、こんな祈りがあります。
 「神よ、変えるべきものであることについて、それを変える勇気を私たちに与えてください。
(でも)変えることの出来ないものについては、それを受け容れる冷静さを私たちに与えてください。
そして、変えるべきものと変えることの出来ないものとを、識別する知恵を私たちに与えてください。」
有名な祈りであります。

 燕教会には、今すぐには変えられない現実があります。高齢者の方が多い。今ある会堂(建物)も古い。それは事実であります。現実であります。しかし、その現実は、本当に変えられないものなのかどうか。勿論、問題、課題は沢山あります。でも、変えられないと決め付けてもいいものなのでしょうか。

 今ある教会堂・牧師館の土台は、大部傷んでいると言われています。柱は結構大丈夫のようですけれども、土台はちょっとあやしい。そんな言葉も聞きます。そうなりますと、ますます不安になる。だから、早めに耐震診断が必要ということにもなる訳ですけれども、私たちにとってもう一つ大切な「土台」があります。

 それは、「イエス・キリストという既に据えられている土台」(3:11)であります。そして、この土台は、変えることの出来ない土台ですし、変えてはいけない土台でもあります。
 今日の所には「あなた方は、神の神殿である」(3:16)という言葉もあります。神の霊が住んでくださる神殿、神の神殿。それが私たちであると教えているのであります。
 教会の土台。これがしっかりしていれば、教会は決してつぶれませんし、神の霊はいつも私たちと共にいて、私たちを導いてくださるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、私たちは、変えるべきものと変えることの出来ないものとを、しっかりと識別する知恵を与えられ、目に見えるものだけにとらわれないて、目に見えないけれども確かに存在し、私たちを支えてくださる神様に寄り頼みながら、歩んで行ければと思います。

 イエス・キリストという土台がしっかりしていれば、必ずまた道は開けて行くと思います。神さまの御手に全てを委ね、イエス様を信じ、でも、私たちも持てる力をみんなで出し合って、知恵を出し合って、歩んで行ければと思います。

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