聖書の中には、たくさんの人たちが登場いたします。名前が分かっている人もいれば、分からない人たちもいます。で、今日の聖書に登場しますのは「ザアカイ」という人。彼は非常にラッキーな人だと思います。なぜならば、彼は聖書に名前が記される事により、後世にまで名を残すことになったからであります。
で、今日は、このラッキーな「ザアカイのお話」ですが、先ず簡単に彼のプロフィールを見ておきたいと思います。
先ず彼の名前はザアカイということですが、ザアカイというのは、ある人に言わせれば、ザカリアのギリシア語風の短縮形ではないかという事を言う人がおります。そうしますと、ザカリアという言葉が「神様は覚えていたもう」という事ですから非常に含蓄のある名前ということになります。まあ一般的には、ザアカイという名前は「ザッカイ」のギリシア音写であると言われておりますが、ザッカイにいたしましても「純粋」という意味がありまして、どちらにせよなかなか意味深長な名前と言っていいと思います。
ところで、彼は、聖書によれば、エリコという町の「徴税人の頭(かしら)であり、金持ちであった」とあります。徴税人というのは、税金を徴収する人、前の聖書では「取税人」と訳しておりました。当時、ユダヤはローマ帝国の属国になっておりまして、民衆の納める税金は、主としてローマに吸い上げられ、また、その残りはローマの傀(かい)儡(らい)政権であった政府の高官や祭司たちの私服をこやすことに用いられておりました。そして、そのお先棒を担ぐ者が徴税人でありました。
ですから、彼らは民衆からあまりよく思われていなかった。否、はっきり言えば、みんなから忌み嫌われていた訳であります。徴税人は、ローマの番犬か、その手先として、貧しい民衆の生活を脅かし、更に、自らも不当な取り立てを行い、小銭をため込んで、私服をこやしていた。
今日の聖書の所にはエリコという地名が出てきておりますが、エリコというのは、ローマ直轄のユダヤに属し、国境の要地でありまして、重要な税関があった所であります。ですから、当然徴税人もたくさんいた。そして、ザアカイという人は、その徴税人の頭(かしら)、長(ちょう)であったというのですから、彼が金持ちであったというのは、よく分かると思うのですけれども、彼の社会的地位は、あくまでも徴税人でありましたから、それ程よいものではなかった。民衆から忌み嫌われ、罪人同様に扱われていたのであります。
そう言えば、聖書には、よく徴税人と罪人という言葉が一緒になって出てまいります。今日の聖書の所には、7節の所に「罪深い男のところ」という言葉が出てきていますが、前の聖書では「罪人の家」と訳されておりました。
とにかく、ザアカイという人物、彼は徴税人の頭であり、小銭をため込んだ金持ちではありましたけれども、みんなからは白い目で見られていたような、そういう人物でありました。
ところで、もう一つザアカイに特徴的なことがあります。それは、「彼の背が低かった」という事であります。
「背が低い」。私も背は低い方でありまして、小学校、中学校、高校では、大体前から3,4番目でありまして、非常にコンプレックスを持った経験があります。今でもせめてあと5、6cm位背が高かったらと思いますが、背が低いというのは、ただそれだけで人から小さく見られる。小さいから小さく見られるのは仕方ありませんが、背が低いという、ただそれだけで人間そのもの、人間の中身まで低く見られるのは、これは心外であります。
徴税人の頭(かしら)ザアカイ、彼は確かに背が低かった。聖書にわざわざ「背が低かった」と書いてあるのですから、人一倍低かったのてありましょう。歌にも「ちびたザアカイ」という歌がありますが、「背が低い」ということは、ただそれだけでも劣等感を植え付けるに十分であります。しかも、先程も申しましたように、徴税人の頭という事で、人からも忌み嫌われていた。
このようなザアカイですから、内面的には決して幸福であったとは思われません。むしろ、肩身の狭い思いをしながら、劣等感に苦しんでいたのではないでしょうか。彼は確かに「金持ち」ではありました。しかし、金持ちが必ずしも幸せであるとは言えないのであります。
ところで、ザアカイという人物のもう一つの大きな特徴は、これは注意しないと見落とされがちですけれども、彼は非常に目先の利く、ある意味において、非常に賢い人間だったのではないかと思います。それは、彼が「イエス様を見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(4節)という聖書の言葉が示していると思います。
ザアカイは背が低かった。イエス様がやって来たので自分もイエス様を見たい思ったけれども、(みんなが前に立ちはだかって、背が低くて)見えないものですから、とっさに先回りして、先にあるいちじく桑の木に登ることを思いついたのであります。
ある一つの事柄に対して、今どんな行動をしたらよいのか。どうすべきなのか。それをザアカイは見極める目を持っていたのであります。勿論、ザアカイは野次馬的好奇心でイエス様を見ようと思ったのかも知れません。しかし、彼はちゃんとその場の状況を把握し、そしてそれを行動に移す才覚を持っていたのであります。そういう意味では、やはりザアカイは、「目先の利く、賢い人」だったと言っていいと思います。
まあ、こんなザアカイですが、そのザアカイが、じゃあどうなったのか。先程も少し触れましたけれども、イエス様がエリコの町にやって来たのでありますね。
今日のテキストの少し前の18章の35節以下を見ますと、イエス様がエリコの町に近づいた時、ある盲人の目をいやしたというお話が載っております。エリコの町では、そのうわさが町中に広がっていたようであります。そのイエス様がエリコの町にやってくる。人々は、ザアカイに限らず、イエス様ってどんな人なのか、ひと目でも見たいということで通りに群がっていた。大人も子どももみんな通りに出てきたのではないでしょうか。
ところが、ザアカイは先程も申しましたように、背が低かったのでイエス様を見ることが出来ない。仕方がないのでとっさに機転を利かし、先回りをして、いちじく桑の木によじ登り、イエス様がやってくるのを待ち受けていた訳であります。
で、ここまでは別に問題はない訳でありますが、イエス様がザアカイの登っていた木の下に来たとき、問題が起こりました。イエス様は突然上を見上げてこう言ったというのであります。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
ザアカイにしてみれば、これは寝耳に水でありまして、しばらくは茫然としていたのではないかと思うのですが、我に返って、急いで木から降りてきて、イエス様を家に迎え入れたのであります。
ところで、この出来事、イエス様がザアカイの家に入り、そこの客になったという出来事は、当時としては大変な事でありました。それは7節に記されております人々の反応によっても知ることが出来ると思います。7節にはこのようにあります。「これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。
イエス様は「罪深い男」ザアカイの家の客人になったと、こう言ったというのであります。これは、イエス様がザアカイをえこひいきしたという不平の言葉ではありません。確かに、ある人の心の中には、イエス様のえこひいき、それをとがめるような気持ちもあったかも知れませんが、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」というつぶやきは、もっと大きなこと、もっと重大なことを語っております。
先程もちょっと触れましたが、当時の徴税人はみんなから嫌われておりまして、罪人と同じように考えられておりました。しかも、当時は罪人とは「おつきあいをしない」、ましてや家に入って泊まるというようなことは決してしませんでした。それが当時の普通の人の常識でありました。
にもかかわらず、イエス様はザアカイの家の客人になった。人々から見れば、これは常識を無視した行為であり、理解できないことでありました。それ故「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたのであります。
ところで、このようにザアカイの家の客人になったイエス様でありますけれども、イエス様にしてみれば、徴税人であれ、罪人であれ、みな神様の前にあっては、かけがえのない大切な人間であり、愛すべき存在なのでありますね。
聖書ではイエス様のことを「徴税人や罪人の仲間」というふうに紹介しております。マタイ福音書の11章9節には、このように記されております。
「人の子(イエス様)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。
イエス様は、よく徴税人や罪人と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりしたのでありましょう。イエス様は、抑圧されている人間、貧しい人間、みんなからのけ者にされているような人間、そういう人たちを特別に愛されたのであります。ですから、イエス様にとっては、徴税人ザアカイの家に泊まるということも特別なことではなかった。むしろ、イエス様ご自身言っておられるように、それはイエス様からの申し出なのであります。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。これは原文では「泊まらなければならない」「泊まることに決まっている」といった、そういうかなり断定的なニューアンスのある言葉であります。
ところで、このように徴税人や罪人を心から愛したイエス様でありますけれども、そのイエス様の愛に触れてでしょうか、ザアカイは不思議なことを言い出します。8節の所を見てください。ザアカイは立って、イエス様に次のように言ったといいます。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。
これはとてもおもしろい言葉だと思います。ザアカイはイエス様から何か言われた訳でもないのに、進んで自分の財産の半分を貧しい人たちに施し、また、不正な取り立てをしていたら、それを四倍にして返すと、こう言ったというのであります。
モーセの律法によれば、自ら進んで弁償する場合には、現物に1/5の値を加えて返済すればよく(レビ6:1-5、民数記5:7)、ただ盗み・窃盗の場合にだけ5倍もしくは4倍の価を弁償すべきものである(出22:1)という事が定められております。
ザアカイは不正な取り立てをしたかも知れませんが、盗んではおりません。しかし、「だれかから何かだまし取っていたら」と言っているという事は、不正な取り立てを、盗み・窃盗とザアカイは理解したのかも知れません。とにかく、ザアカイは律法にある規定以上の弁償をする事をイエス様に申し出たのであります。しかも、自ら進んでそのような申し出をした。
これはどういう事なのでしょうか。ザアカイは徴税人でありますから、かなり厳しい取り立てもやったのかも知れません。しかも、徴税人の頭になるまでには、相当悪(あく)どいこと、不正な取り立てもしたのかも知れません。そして、金持ちにもなった。しかし、徴税人の頭という地位を得、金持ちになっても、彼は、みんなからは罪人扱いされ、あざけられ、馬鹿にされてきた。
しかし、今イエス様が自分の家に宿泊し、自分のような者を友・仲間として交際してくださる。その大きな愛に触れ、ザアカイは「自分の罪というもの」を強く意識したのではないでしょうか。
みんなが自分を軽蔑し、罪人と呼ぶとき、彼にはむしろ反抗心があったようにも思われます。でも、イエス様が自分を仲間のように温かく包み込んでくださる、その愛に刺激されて、ザアカイは己の罪を認め、そしてとっさに規定以上の申し出をしたのではないでしょうか。
ある人は、このザアカイの言葉を「興奮的告白」と呼んでおりますが、心の中から沸き上がってきたザアカイの素直な気持ち、罪の意識、それが、「私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」という、この言葉ではないかと思います。
人間というのは、なかなか心の中は人に見せないものであります。心の扉をしっかりと閉じて、なかなか心の中は見せない。自分の弱さを人に知られたくない、自分の不安を人前にさらけ出したくない、みんなそう思っているのではないでしょうか。しかし、イエス様の愛に触れるとき、私たちの心の扉は瞬時にして開かれるのであります。
ザアカイの興奮的告白、彼はじっくり考えて、この位なら出来そうだという事で、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのではないと思います。
本当にそれが実行できるかどうか、そんなこと彼にはどうだってよかった。とにかく、イエス様の前に自分をさらけ出し、自分の素直な気持ちをイエス様に伝えたかった、ただそれだけだったと思うのであります。ザアカイはイエス様の愛に触れ、本心に目覚めたのではないでしょうか。
イエス様と出会うとき、人間は素直になります。また、変えられます。新しく変えられるのであります。聖書には、イエス様と出会った人たちのお話がたくさん記されております。そして、彼らはみなイエス様との出会いを通して新しく変えられ、新しい人生を歩み始めました。
勿論、新しい人生と申しましても、環境がガラリと変わったり、職業が全く変わったりする訳ではありません。ザアカイは徴税人でありましたけれども、徴税人をやめた気配はありませんし、自分から徴税人をやめるというような事も言っておりません。
しかし、イエス様との出会いを通して、彼は確かに変わったのではないかと思うのであります。徴税人という仕事は変わらなくても、彼の人生、その生きる目的は確かに変わった。少なくとも、ザアカイの場合、彼は不正をしてお金を貯めるというような、そういう生き方だけはしなくなったのではないでしょうか。人に施しをする、正しい徴税人、良い徴税人になったのではないでしょうか。
ザアカイには、新しい生き方、新しい人生が始まったのであります。それ故、イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と語られたのではないでしょうか。
イエス様と出会う時、人は変えられます。救われるのであります。私たちも、イエス様との出会いを通して、新しく変えられ、新しい生き方、新しい人生へと導かれたいものであります。
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