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説教 「今夜、死ぬとしたら」  
               (ルカ 12:13-21)      2015/01/25
(於・三条教会)
 今日の所は「『愚かな金持ち』のたとえ」という小見出しがついている所ですが、突然こんな言葉が出てまいります。「群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。

 なぜ、突然このような言葉が出てくるのでしょうか。イエス様は、これに対して、「だれが私を、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか」と言っておりますが、なぜ、この人は突然イエス様にこんなお願いをしたのでしょうか。

 一つ考えられることは、この人は、イエス様のお話を聞いて、とても感銘を受けたんだと思うのでありますね。イエス様は、力強く権威ある者のごとく神の言葉を語りました。真実を語ったのであります。
 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」また、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:23-25)なんて教えられた訳であります。

 この人は、イエス様の教えに感動し、もしイエス様が自分の兄弟に、こういうお話をしてくれれば、兄弟も悔い改めて、自分に財産を分けてくれるのではないか、そんなふうに思ったのかも知れません。

 確かに、イエス様のお話を聞けば、そうなる可能性はある訳であります。しかしながら、この人には大切なことが分かっておりませんでした。それはイエス様の言葉というのは、先ず自分自身がしっかりと聞かなければならないということであります。

 イエス様の言葉、すばらしい言葉が沢山あります。だから、人にも聞かせてあげたい。教えてあげたい。そう思うのでありますね。これは決して間違ってはおりませんし、そうすべきだと思います。しかしながら、人に聞かせてあげるだけが能ではありません。先ず、自分がしっかりと聞くことであります。そして、自分がその御言葉に従った歩みをすること。そういうことが大切なのではないでしょうか。

 聖書の言葉というのは、基本的に、そういうものではないかと思います。先ず、自分がしっかりと聞く、受けとめる。そこから始めるべきものだと思うのであります。
 「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けろ」(マタイ5:39」とあるから、「お前は黙って殴られていろ!反抗するな!」なんて言うのは、これはお門違いであります。聖書の御言葉は、先ず自分が聞く。自分の問題として受けとめるべきものではないでしょうか。

 イエス様に、「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言ったこの人は、根本的な所で間違っておりました。彼は、イエス様のお話に感銘はしましたけれども、自分のこととしては聞かなかったようであります。
 財産に執着している兄弟を批判する。しかし、そういう自分もまた財産に執着している。そのことに、この人は気付かない。だからイエス様は、「だれが私を、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか」と、こう言われたのではないでしょうか。

 ところで、イエス様は遺産・財産にこだわっているこの人の言葉をきっかけにして、財産以上に大切なものがあるということを教えます。それが次の言葉であります。イエス様は、このように教えられました。
 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである」。

 「有り余るほどの財産を持っていても、人の命、人間の命は財産によってはどうすることもできない」。簡単に言えば、「人の命は金では買えない」ということであります。
 「人の命は金では買えない」。そういえば「人間の命は地球よりも重い」なんて言葉もあります。イエス様も、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26他)なんて教えています。
 人間の命、それは何物にも代(か)え難い大切なものなんでありますね。お金なんかでは決して買えるようなものではない。

 しかし、「そんなことはよく分かってはいる」と、私たちは言います。人間の命の大切さ。そんなこと、よく分かっている。しかし、本当に分かっているのでしょうか。死ぬか生きるかという、そういう瀬戸際に立たされている人は、命の大切さ、それがよく分かっているのでしょうが、死のことなんかあまり考えないで、平々凡々と暮らしている私たちには、本当に分かっているのでしょうか。

 人間の命の大切さ。それは、本当に死ぬか生きるかという、そういう瀬戸際に立たされないと、なかなか真剣には受けとめられない。頭では分かっていても、なかなか現実味がないと言うのでしょうか、緊張感がない、そういう所があるようにも思います。

 しかし、今日のイエス様のたとえ話、「愚かな金持ち」のたとえという、このお話を聞く時、私たちはどんなふうに思うでしょうか。イエス様は、こんなたとえ話を語られました。(16節以下)

 「ある金持ちの畑が豊作だった(といいます)。(そこで)金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしていたが、やがて(こんなふうに)言った(といいます)。『そうだ、こうしよう。今ある倉を壊して、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や財産をしまいこもう。そうすれば一安心。「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたから、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」。

 しかし神様は、(その金持ちに、こう言われるというのでありますね。) 『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と。(ルカ12:20)

 この「たとえ話」。誰にでも分かるような簡単なお話であります。一度読めば、誰だってどういうお話なのか分かると思います。

 ある金持ちの畑が豊作で、作物をしまっておく場所がない。だから、この人は「新しいもっと大きな倉を建てよう」と考える訳であります。これは人間の知恵であります。この人間の知恵、これは必ずしも非難されるべきものではありません。むしろ大切な知恵と言ってもいいかも知れません。
 しかしながら、もし「今夜、死ぬとしたら」どうなるのか、それが問題であります。

 イエス様は、このお話を通して、一体何を語りたかったんでしょうか。一つは、先程も申しましたように「人の命は財産によってはどうすることもできない」ということ。そういうことが、やはり一つあると思います。しかし、それだけなんでしょうか。
 イエス様は最後にこのように言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。

 人間の命。それは何物にも代(か)え難い大切なもの。そして、その命は、財産によってはどうすることもできない。人間の命は神様の御手の中にあるのでありますね。もっと生きたい、死にたくないといくら願っても、人間はいずれ死ぬのであります。その時が、今日のたとえ話のように、今夜なのか。あるいは、明日なのか。はたまた数十年後なのか。それは分かりません。でも、いずれ私たちは死を迎える。

 そういう人間の現実を考える時、私たちは、いくら人間の知恵を用いて、将来に備えようとしても、死んでしまえばそれでお仕舞い。だから、結局人間の知恵なんてたいしたことはない。人間の知恵なんて、所詮この程度のもの。そんなふうに思うかも知れません。確かに、そういう受けとめ方も出来るかも知れません。

 しかし、問題は決してそれだけではありません。むしろイエス様が本当に語りたかったこと、それは「天に富を積む」ということではないでしょうか。イエス様の最後の言葉。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という、この言葉。これは一言で言えば、「天に富を積みなさい」ということではないでしょうか。

 イエス様が語られた、有名な、このような言葉があります。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。(だから)富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:19-21)。イエス様は「富は天に積め」とおっしゃっている。

 今日のたとえ話の中に出てきた金持。この金持ちは、豊作をいいことに、地上に富を積もうとしました。新しい大きな倉を建て、そこに穀物や財産をしまい込み、これで安心して生活することができると考えた訳であります。
 しかし、この世の富、地上の富は、「虫が食ったり、さび付いたり、また、盗人が忍び込んで盗まれてしまう」、そういう可能性のある富であります。ですから、イエス様は、「富は、天に積みなさい」と、こう教える。天に積まれた富は、「虫が食うこともない、さび付くこともない、また、盗人が忍び込んで盗み出すこともない」、そういう富だからであります。

 それでは、具体的に、「天に富を積む」というのは、どういうことなのでしょうか。今日のたとえ話に出てきた金持ちのことで言えば、与えられた豊作を貧しい人と分かち合うことと言ってもいいかも知れません。もう少し、一般的な言葉で言えば、「隣り人を愛しなさい」と言ってもいいと思います。

 ある時、イエス様は金持の青年に、このように言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」(マタイ19:21)。

 自分の持っている物を貧しい人々に施す。仏教の言葉で言えば「お布施」ということになるのでしょうか。要するに、自分の持っているものを「人と分かち合う」ということであります。先程の所には「貧しい人々」とありますが、これは「隣り人」と言い換えてもいいかも知れません。いずれにせよ、「みんなと分かち合う」、そういうことが大切なのではないでしょうか。

 持っている者は、持っていない者と分かち合う。それは必ずしも目に見えるものだけではありません。目に見えないものだって沢山あると思います。知恵や知識、技術や様々な能力、そういうものも、みんなで分かち合う。隣り人を愛するというのは、分かち合う精神、そんなふうに言ってもいいかも知れません。そして、この「分かち合う精神」が、天に、富となって、宝となって積まれていくのであります。

 「隣人(隣り人)を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。これがイエス様の教え、聖書の教えであります。
 いかに人を愛したか、どれだけ隣り人(隣人)と分かち合ったか。それが天に富となって積まれていくのではないでしょうか。

 今夜、お前の命は取り上げられる。もし「今夜、死ぬとしても」、天に、富を、宝をいっぱい積んでいれば恐れる必要はありません。「今夜、死ぬとしたら」、地上の富はすべてパーになってしまいます。でも、天に富を、宝を積んでおけば安心。恐れる必要はないのであります。

 勿論、どうせ今夜死ぬのだったら、「食べたり飲んだりして楽しもうではないか」、というような、そういう考え方もあります(1コリント15:32、イザヤ22:13)。でも、私たちは、たとえその時がいつ訪れようとも、天に富を積むような、そういう生き方を選択、選んで行ければと思うのであります。

 「今夜」なんて言われると、驚き、あわててしまいがちですけれども、そういう意味では、やはり「日々の生活が大切だ」ということになる訳ですけれども、いずれにせよ、天に富を積む、そういう歩みを、これからも、少しでも、し続けて行ければと思います。

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