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説教 「御心のままに」  
               (ルカ 22:39-46)      2015/01/11
(於・三条教会・燕教会録音)
 私たちは、昨年、「使徒信条の学び」を始めましたが、まだ終わっておりません。途中に収穫感謝日があったり、また、アドベントの期間、クリスマス、そして年末年始があったりしたものですから、少しお休みしている訳であります。でも、折角始めた「使徒信条の学び」ですから、最後までやり遂げたいと思います。

 で、昨年は、使徒信条には載っていないのですけれども、「イエス様のご生涯」ということで、「処女(おとめ)マリヤから生まれたイエス様」が、どのような歩みをされて行ったのかという所まで学びました。

 具体的に言えば、処女(おとめ)マリヤより生まれたイエス様が、「神と人とに愛されながら」大きくなって行ったということ。そして、大きくなったイエス様が、洗礼者ヨハネから「罪人が受けるべき洗礼(バプテスマ)を受けられた」ということ。また、洗礼を受けられたあと、悪魔から様々な誘惑を受けられますが、イエス様は、それらの誘惑を通して、かえって「神の子であることを証明された」ということ。そして、そのあと、イエス様は、「神の国の福音を宣べ伝えて行った」という所まで学んだ訳であります。

 それでは、イエス様は、具体的にどんなふうにして神の国の福音を宣べ伝えて行ったのか。どんな言葉を語り、また、どんなことを実際に行ったのか。そういうことも、とても興味あることでしょうし、そういうことをもっと知りたいという人も多いとは思いますが、これについては、折あるごとにお話しておりますし、また、これからもお話して行きたいと思いますので、今日は、最初に申しましたように、使徒信条の続きの所を取り上げたいと思います。

 で、使徒信条の続きということになりますと、使徒信条では、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、…」ということで、イエス様の誕生から、急にポンテオ・ピラトのお話ということになるのですけれども、ポンテオ・ピラトのお話というのは、イエス様が捕まったあと「裁判を受ける」という、そういうお話ですから、捕まる前のお話も大切だと思いますので、今日は、イエス様が捕まる前のお話を少しばかりして見たいと思います。

 ところで、イエス様が捕まる前のお話ということになりますと、あの有名な「最後の晩餐」というお話があります。「最後の晩餐」。これは、イエス様が弟子たちと最後に食事をされた「過越の食事」のことであります(ルカ22:7f.)。聖書には、そのように記されております。

 で、この食事が「最後の晩餐」と呼ばれるのは、この食事がイエス様のこの世での最後の食事になったということで、このように呼ばれている訳ですけれども、この「最後の晩餐のお話」でよく知られているのが、あの「聖餐式」の式文で用いられている言葉を、イエス様が語ったということがあるのではないでしょうか。

 イエス様は、最後の晩餐の席上、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて、このように言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)。 また、食事のあとで、杯も同じ様にして、このように言われました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:20、1コリント11:25)。

 これらの言葉は、イエス様の十字架の出来事、また、そこに込められている意味を弟子たちに教えられた言葉と言われておりますが、いずれにせよ、イエス様は、これからご自分が十字架につけられるということをよく知っていて、このように語っている訳であります。

 イエス様は、十字架につけられ、槍で脇腹を突かれました。また、血を流されました。パンと杯は、イエス様が十字架の上で殺されるということを語っているのであります。でも、それだけではありません。この十字架の出来事は、「わたしの血によって立てられる新しい契約である」とありますように、「新しい契約」を示すものでもあるのであります。

 「新しい契約」。これについては今まで何度もお話してまいりましたが、簡単に言えば、神様との関係が新しくなる、回復されるということであります。私たちは、神様の言うことを聞かない、守らないで、自分勝手なことばかりしている。神様の心を傷つけている。このままでは、神様から懲らしめを受けなければならない、罰を受けなければならない、そういう存在であります。

 でも、イエス様が私たちの身代わりとして、私たちに代わって懲らしめを受けてくださった。私たちの罪を贖ってくださった。それがあのイエス様の十字架であります。その十字架の出来事を信じるとき、私たちの罪は赦され、義とされ、私たちは新しい人間として、新しく生きて行くことが出来るようになるのであります。それが「新しい契約」と言われているものであります。

 イエス様は、ご自身の命と引き替えに、私たちの罪を赦してくださったのであります。ご自身の体を裂き、血を流すという出来事を通して、私たちに新しい命を与えてくださった。ですから、そのことを忘れないために、記念として、今でも「パンと杯」にあずかるという、聖餐の儀式を私たちは守っている訳であります。

 イエス様の「最後の晩餐」。それは、イエス様のこの世での最後の食事でした。イエス様には、この食事が弟子たちと一緒に食べる最後の食事であるということが分かっていました。だからこそ、大切なことを、いつまでも忘れてはいけないことを、「パンと杯」という目に見える形で弟子たちに教えられたのだろうと思います。

 いずれにせよ、イエス様は、十字架に付けられる前の晩、弟子たちと「最後の晩餐」を守られ、今申し上げたようなことを語られました。でも、それだけではなく、イスカリオテのユダの裏切りを予告したり、また、ペトロが、鶏が鳴く前に三度もイエス様を知らないと言うだろうという預言まで語られました。まあ、実際その通りになる訳ですけれども、これらのお話というのは、イエス様がこれから実際に捕まって、苦難の道を歩まれるという、そういうことを暗にほのめかしているお話と言ってもいいかも知れません。

 ところで、この「最後の晩餐」、食事を終えてから、イエス様たちは「オリーブ山」に行かれました。オリーブ山というのは、ケデロンの谷を隔ててエルサレムの東にある南北に走る山脈で、昔はオリーブの木がいっぱい植えられていたことからオリーブ山と呼ばれていたようですが、エルサレムからそんなに遠くはありません。1km位の所であります。

 で、そこには、「ゲッセマネ」(油しぼりの意・オリーブの油をしぼっていた所?)という場所がありました。今日の聖書のルカ福音書の22章40節にあります「いつもの場所」というのが、「ゲッセマネ」のことであります。マタイやマルコの福音書には「ゲッセマネ」という場所だったということが、はっきり記されています。

 で、このゲッセマネで、イエス様が祈られた祈りが、よく言われる「ゲッセマネの祈り」ですけれども、今日のルカ福音書の所には、このあたりのことが、こんなふうに記されております。

 ルカ福音書の22章39節以下。 「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所(これがゲッセマネでありますが)に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕(ルカ22:39-44)

 イエス様は「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」というのであります。そして「汗が血の滴るように地面に落ちた」ともある。いかに真剣な祈りであったかということが分かると思います。

 イエス様は、ご自分が十字架につけられ殺されるということをよく知っておられたのであります。それが神様のみ旨であるということもよく分かっておられた。でも、死ぬことは誰でもコワイ。死を恐れない人なんていないのであります。イエス様も死を恐れたのであります。

 死を目前にした人間が、どのように振る舞うか、これは非常に興味あることですけれども、勿論、こういうことを、あまり軽々しく言うのは、不謹慎かも知れませんが、死を目前にして、イエス様は祈ったのであります。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。(十字架につけられなくてもいいようにして下さい。死なずにすむ道があるのならば、その道を教えてください。)しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42) こう祈られた。

 繰り返しますけれども、イエス様は、ご自分が十字架につけられ殺されることをよく知っておられたのであります。それが神様のみ旨であるということもよく知っておられた。「でも、他に道はないのか…」。それは誰もが思うことではないでしょうか。誰だって死にたくはないのであります。生きたいのであります。死から逃れたいのであります。ほかに道はないのか。イエス様も「葛藤」するのであります。

 先程の所には「天使が天から現れて、イエスを力づけた」とありますけれども、天使にでも力づけてもらわないと負けてしまう。そういうぎりぎりの選択。ゲッセマネの祈りは、死を目前にして、人間としての「生きたい」という願望と、「死ななければならない」という神様の御旨との狭間にあって、「苦しみもだえながら祈られた」イエス様の、壮絶極まりない祈りなのであります。

 でも、イエス様は最後にこう祈られました。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様はご自分の願いよりも、神様の思い、神様の願い、御心を優先させたのであります。これこそ「まことの人間のあるべき姿」ではないでしょうか。

 私たちは、使徒信条の学びを通して、神様が造られた「まことの人間の姿」「本来の人間のあるべき姿」というものを今まで何度となく見てまいりました。それは、神様の願いを、神様の御心を、人間が自分の自由意志で受け止め、決断し、喜んで神様の願われることを行っていくという、そういう姿であります。

 神様に造られた最初の人・アダムとエバは、神様の願いを無視し、自分たちの願望を優先させ、エデンの園を追放されてしまいました。そして、「本来の人間の姿」は、今まで見失われておりました。しかし、イエス様は、私たちに再び「本来の人間の姿」を思い起こさせてくださったのであります。イエス様は、そのご生涯を通して、人間とは本来このようなものだということを身をもって私たちに教えられたのであります。

 今日の所も、そうであります。イエス様は、悩み苦しみながらも、最後には、神様の御心を優先させたのであります。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られた。この「御心のままに」ということこそ、正に「人間の本来のあるべき姿」を教えている言葉とは言えないでしょうか。

 「御心のままに」。これは、口で言うのは簡単です。でも、本当に心からそう言えるかと言うと、これは確かに難しいことであります。でもですね。「御心のままに」を繰り返し言っていると、「御心のままに」が、私たちの生活に段々と根付いて来るということはないでしょうか。自分が中心ではなくて、神様が中心になって動く世界。自分の思いよりも、神様の思いを大切にする世界。そういうものが段々と見えてくる。そうなってくれば、これはしめたものだと思います。

 いずれにせよ、「御心のままに」。これは、神様を信じ、神様に従って歩んで行こうという、そういう私たちの基本的姿勢だと思います。私たちの人生、いつ何が起こるか分からない。不安です。でも、いつでも「御心のままに」。そんな歩みを、これからも続けて行ければと思います。そして、最後には、すべてを神様に委ねて、神様のみもとに帰って行く。そんな歩みが出来たらと思います。

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