説教集 本文へジャンプ
説教 「クリスマスのあと」  
               (マタイ 2:16-18)      2014/12/28

 クリスマスも終わり、今年も残りわずかとなりました。今日は、「クリスマスのあと」ということで、イエス様が誕生されたあとの出来事を、皆様とご一緒に学んでみたいと思います。

 イエス様が生まれたあと、とても恐ろしい出来事が起こりました。ヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」というのであります。ヘロデはどうして、こんな恐ろしいことを命じたのでしょうか。

 聖書には、「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒(いか)った」とあります。怒って、頭に来て、罪もない「二歳以下の男の子」を皆殺しにしたのでしょうか。

 ヘロデは、占星術の学者たちに「行って、イエス様のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出しました。でも、学者たちは、夢で「ヘロデの所へ帰るな」とのお告げを受け、別の道を通って自分たちの国へ帰ってしまった。それを知ったヘロデは面白くない。彼は学者たちにだまされたと思って、大いに怒った訳であります。

 でも、ヘロデはただ「だまされて、頭にきて、はらいせまぎれに」、子供たちを殺させたのでしょうか。どうもそういうことだけではなさそうであります。

 ヘロデは、東から来た占星術の学者たちが訪ねてきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言った時、「不安を感じた」といいます。

 ユダヤ人の新しい王様が生まれた。とすれば、ヘロデはいずれ王位を退かなければならない、自分の地位があぶないのであります。ヘロデはひどいこと、残虐なことを沢山して来た人物であります。ですから、新しい王様が誕生したら自分も殺されると思ったのかも知れません。とにかく、ヘロデは不安を感じて、その根を断ち切るために、二歳以下の男の子をことごとく殺させたのであります。

 私たちは、救い主・イエス様の誕生をみんなでお祝いしましたけれども、同じ出来事が、ヘロデにとっては不安の材料であり、またその不安が高じて恐ろしい残虐行為へとなって行きました。「神様の御心に適う人たち」にとっては、イエス様の誕生は喜ばしいものでありますけれども、そうでない人にとっては、イエス様の誕生は憎むべきものなのかも知れません。

 いずれにいたしましても、同じ一つの出来事に対して、全く正反対の受けとめ方、そして、結果がそこから生まれてくる。そういうことがある。それが、現実の世界、私たちの世界、罪人の世界と言ってもいいかも知れません。

 ところで、聖書は、この「二歳以下の男の子」の虐殺は、「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した出来事」、すなわち「預言の成就だった」と語っています。聖書は「救い主の誕生」を預言しておりました。しかし、同時に「今日取り上げたような出来事」も預言されていたというのであります。

 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。

 この言葉はエレミヤ書の31章15節にある言葉ですが、もともとは、有能な人たちがバビロンに捕囚民として連れて行かれてしまったので、あとに残された母親たちが嘆き悲しんでいる、そういう様子を歌っているものであります。しかし、今日の所では「ヘロデが二歳以下の子供たちを皆殺しにした」ので母親たちが悲しんでいるという、そういうことで語られている。

 これは見方によっては、ちょっと強引な引用かも知れません。でも、聖書が語ろうとしていることは、神様が預言者を通して預言していた事柄というのは、「必ず成就する」という、そういうことであります。救い主が誕生するという預言も成就いたしました。しかし、その時大きな悲惨な出来事が起こるという預言もまた成就してしまったというのが、聖書の語ろうとしていることなんだろうと思います。

 しかしながら、ここで注意しておかなければならない事は、この「預言の成就」ということで、「二歳以下の男の子が殺された」という出来事、これを神様の御旨、神様が望んでおられた事というふうに理解してはいけないという事であります。そうではなくて、これは「人間の罪の結果」なのであります。神様は決して「二歳以下の男の子が殺される」のを望んでおられた訳ではありません。これは、あくまでも「人間の罪の結果」、こういうことが起こったということなのであります。

 聖書には、確かに、いろいろな「預言」が記されております。しかし、それらは必ずしも神様がそう望んでおられるということではありません。人間の罪の結果、こういう事が起こるという、そういう預言だって沢山ある訳であります。

 例えば、聖書には「終末の預言」というのがあります。「その日、その時がいつになるのかは、誰にも分からないけれども、必ず世の終わり、終末が来る」という預言。そして、その時には「羊と山羊が分けられるように」、救われる人と、裁かれる人が分けられる。そして、裁かれる人は、「呪われた者」と言われ、「永遠の火に投げ込まれる」なんて、言われている(マタイ25:31f.)。

 でも、神様は、私たちを「永遠の火に投げ込む」ことを望んでいる訳ではない。全ての人が救われることを望んでおられるのではないでしょうか。ですから、聖書の預言というのは、人間の罪の結果、こういう事が起こるという、そういうことでもまたあるのだと思うのでありますね。

 預言に記されているから、それは神様が望んでいること。そんなふうに考えるのは、これはやはりおかしいと思います。

 ところで、今「終末の預言」ということを取り上げましたけれども、「終末」というのは「救いの日」であると同時に「裁きの日」でもあります。で、これは、イエス様の誕生の「時」も、また、そうだったのではないでしょうか。

 イエス様の誕生を喜んで、遠い国からやって来た占星術の学者たち、また羊飼いたち、彼らは、イエス様の誕生を「救いの日」と受け止めた。それに対して、ヘロデやエルサレムの住民、彼らはそれを「裁きの日」として考えた。そんなふうにも言えるのではないでしょうか。

 そして、「二歳以下の子供たちの虐殺」という出来事は、神様に裁かれる人たちというのは、これ程までに恐ろしいことを行なうという、そういうことを教えているお話でもあるのではないでしょうか。

 神様、イエス様を前にする時、そこには絶えず「救いと裁き」という二つの道があるように思います。ヨハネ福音書には「御子(イエス様)を信じる者は裁かれない。(しかし)信じない者は既に裁かれている」という言葉もあります(ヨハネ3:18)。

 救い主の誕生という喜ばしい出来事の背後には、神様の裁きということもある。「救い」と「裁き」というのは表裏一体、こんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 同じ一つの事柄、同じ一つの出来事について、あれかこれかの問いを提出するのが聖書の世界であります。世の終わり、終末の日、それは「救いの日」であると同時に「裁きの日」でもあります。私たちはどちらの日として終末を迎えるのか。また、イエス様の誕生、それは「救いがこの世にもたらされた」という事を示すものでありますけれども、私たちは「この救いを受け入れるのか」それとも「拒絶するのか」。

 「あれかこれか」という問い。これは「イエス、ノー」をはっきり言えない私たちにとっては、非常に違和感のある問いかも知れません。でも、聖書はそのあたりの所は非常にハッキリとしている訳であります。信じるのか、信じないのか。救われるのか、滅びるのか。

 勿論、私たちの現実は、必ずしも「あれかこれか」では片づけられない問題も多くあります。でも、こと信仰に関しては、「あれかこれか」という事は、これはとても大切なことではないかと思うのであります。

 ところで、私たちの生活の中では、神様がおられるならばどうしてこんなことが起こるのかと、信仰が試されるような、そういう出来事もいろいろ起こります。今日の聖書のお話のように、罪もない幼な子が皆殺しにされる、そういう事だって実際に起こり得る訳であります。

 神様がおられるのならば、どうしてこんな事をお許しになるのか。分からない、理解できない、そういう事も実際には起こる。そういう時、私たちはどうするのか。結局、神も仏もあるもんかと諦めてしまうのか。それとも、それでも全てが神様の御手の中にあって、神様に導かれていると信じて生きて行くのか。

 私たちは、聖書にありますように、喜びも悲しみも、「相働きて、益となる」(ローマ8:28)。神様は万事を益となるように、私たちを導いてくれるという、そういう信仰を持って歩んでいく者でありたいと思うのであります。

 私たちの現実、いろいろなことが起こります。「なぜ、どうして」というようなことも度々起こる。でも、私たちは、単に「これが現実だから仕方ない」ということで諦めてしまうのではなくて、それでも、神様は、全てのことを益としてくださる。必ず良い方向へと私たちを導いてくださるという、そういう信仰をもって歩んで行きたい。そういう歩みが出来たらと思います。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。私たちは、聖書の真理にしっかりと立って、主イエス様と共に、神様の御手の中で、神様に導かれて歩んで行くものでありたいと思います。

 新しい年も、皆様方の上に、神様の豊かな祝福がありますように、心よりお祈りして、今年最後の説教を終わります。

このページの先頭へ
説教集目次へ
三条教会トップ゜ページへ
燕教会トップページへ