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説教 「うれしい知らせ」  
               (ヨハネ 3:16)      2014/12/21
燕教会・クリスマス礼拝
 今日はクリスマス礼拝、みなさまとご一緒にイエス様の御降誕をお祝い出来ますこと、本当にうれしく思います。

 さて、クリスマスのお話ですが、クリスマスのお話と申しますと、聖書には、東の国から星に導かれてやって来た「占星術の学者たち」のお話とか、それから、羊飼いたちのお話。野宿をしながら夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げたというお話。また、天使が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と讃美したというお話。まあ、いろいろなお話がある訳であります。

 で、それぞれ大切なことを私たちに教えていると思いますが、今日は「宿屋」のお話を取り上げてみたいと思います。

 マリアとヨセフは住民登録の為にガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行きました。マリアはすでにイエス様を身ごもっておりましたけれども、皇帝アウグストゥスの勅令です。仕方なくヨセフと一緒にベツレヘムへ出かけました。そしてやっとベツレヘムに着きますけれども、もう夜になっていましたので、宿屋に泊まろうとする訳であります。

 でも、どこの宿屋もいっぱいでした。「トントントン、宿屋さん。どうか一晩泊めてください」。ヨセフとマリアは、宿屋の戸をたたきます。でも、どこの宿屋も満員で、彼らの泊まる部屋は見つかりません。やっと見つけたのが、馬小屋、家畜小屋。仕方なく、マリアとヨセフは馬小屋、家畜小屋に泊まることになりました。そして、その晩、イエス様が生まれたのでありますね。

 聖書には、イエス様は「布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされた」とあります。「飼い葉桶」。それは、牛や馬の「エサ箱」であります。神様から遣わされた「救い主」、神の子・イエス様がどうして「飼い葉桶」(「エサ箱」)なんかに寝かされなければならなかったのでしょうか。

 それは宿屋がいっぱいだったからであります。勿論、イエス様が馬小屋、家畜小屋で生まれたという、このお話を通して、「どんな人でも、誰でも、イエス様にお会いすることが出来るんだ」ということを学ぶことは出来るとは思いますけれども(宮殿などで生まれたとすれば、一般庶民はお目にかかれない)、イエス様が馬小屋、家畜小屋で生まれ「飼い葉桶」に寝かされたという、その直接的な原因は、やはり「宿屋がいっぱいだった」ということであります。

 イギリスのお話ですけれども、イギリスのロンドンに、ベティーさんというとても貧しいお年寄りの人が一人で住んでおりました。所謂(いわゆる)「独居老人」。ベティーさんは、お金をたくさん借りているのに、借金しているのに、返す事ができません。それでベティーさんは、いつ借金取りが来るか、また、いつ警察の人が捕まえにくるかと、いつもびくびくして暮らしていたといいます。

 で、そのことを知った教会のアイアンサイド牧師は、とてもかわいそうに思って、ベティーさんを助けるために、教会でお金を集めました。そして、必要なお金が集まると、ベティーさんが借りていたお金を全部、代わりに返してあげました。そして、その領収書を、ベティーさんに届けに行きました。

 古ぼけた長屋の小さな屋根裏部屋がベティーさんのお部屋でした。アイアンサイド先生はベティーさんの部屋のドアをノックしながら声をかけました。「ベティーさん、いらっしゃいますか? ベティーさん」。

 何度呼んでも返事がありません。あきらめて帰ろうとすると、近所の人が教えてくれました。「先生、ベティーさんはお部屋にいますよ。だれも部屋に入れたくないから返事をしないだけなんですよ。」 ベティーさんは、借金取りが来たと思って隠れていたのであります。

 アイアンサイド先生は、もう一度ベティーさんのお部屋の前に行って、大きな声で叫びました。「ベティーさん、教会のアイアンサイド牧師です。開けてください。いいことを知らせに来たんですよ。」 しばらくすると、そっと部屋のドアが開きました。そこにはベティーさんが立っていました。

 アイアンサイド先生は、ベティーさんに領収書を渡して言いました。「この領収書をご覧なさい。あなたは、もうお金を返さなくてもいいんですよ。」

 ベティーさんはとても喜んで言いました。「ありがとうございます。ありがとうございます。先生。こんなうれしい知らせだと知っていたら、もっと早くドアを開けて、先生に入っていただきましたのに。」

 イエス様がお生まれになった夜、イエス様をお泊めする宿屋はありませんでした。実際、宿屋はいっぱいだったのだと思います。でもですね、もし神の子・イエス様がお生まれになるということが分かっていたら、どうだったでしょうか。

 宿屋の主人は、自分は馬小屋に寝てもいいから、マリアたちを部屋に泊めたのではないでしょうか。そうすれば、その宿屋の名前も、ご主人の名前もずーと今に至るまで、後世にまで、語り伝えられたのではないでしょうか。

 確かに、宿屋はいっぱいだったのかも知れません。でも、思うんですね。もし、宿屋がいっぱいでも、マリアたちをお泊めすることができたら、どうなっていたのかなって。

 宿屋がいっぱい。それは私たちの心の中が、この世のことでいっぱいなのに似ていると思います。あれもしなければならない、これもしなければならない。年末ともなれば特にそうだと思います。年内にやるべきことはやっておかなければならない。大掃除もしなくてはならない。年賀状も書かなければならない。

 私たちは本当に忙しいのであります。忙しいという字が「心を亡ぼす」と書くのは、よく知られていることですが、私たちは忙しさのあまり、心を亡ぼしているということはないでしょうか。

 教会では「クリスマス」のことを別名「クルシミマス」と言うことがあります。クリスマスが近づきますと、いろいろな行事があって、時には、その準備に追われ、心にゆとりがなくなって「クルシミマス」になってしまうこともある。これでは、元も子もないのではないでしょうか。「クリスマス」が「クルシミマス」になってしまっては、クリスマスを祝う意味も半減してしまいます。

 クリスマスは、みんなが喜んで、うれしい気持ちで迎えることが大切であります。心にゆとりがない、心を亡ぼしている状態、それは「宿屋がいっぱい」の状態と似ているのではないでしょうか。

 心の中がこの世のことでいっぱいですと、よい知らせが届いても、心の扉を開けることができません。せっかくの神様からのすばらしいプレゼントもいただくことが出来ません。

 また、ベティーさんのように、ビクビクしていて、ドアを開けなければ、うれしい知らせも受け取ることは出来ません。神様がイエス様を私たちにくださった、そのよい知らせ、うれしい知らせも、もし、私たちの心が閉じられたままですと、私たちの心には届かないのではないでしょうか。

 クリスマス、それは、神様がその独り子・イエス様を私たちに下さった日であります。それによって、神様の愛が私たちに示された日。神様はすばらしいプレゼントを、私たちに用意してくださったのであります。「うれしい知らせ」が、今ここに届いているのであります。

 私たちは、宿屋さんのように「心の中のお部屋がいっぱいで受け入れられません」なんて言わないで、また、ベティーさんのように恐れないで、心の扉をいっぱいに開いて、神様からのすばらしいプレゼント、イエス様を、そして神様の愛を、喜んで受け入れるものでありたいと思います。

 繰り返しますけれども、クリスマスは神様の愛が私たちに示された日であります。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)。

 神様は私たちを愛しておられるのであります。神の独り子を私たちにお与えになったほどに、私たちを愛しておられる。クリスマスはそのことを私たちに教えている、すばらしい日なのでありますね。私たちは、このことを、心の扉を開いて、感謝をもって受け入れたいと思います。

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