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説教 「お言葉どおりに」 
               (ルカ 1:26-38)      2014/12/07

 教会では今「待降節(アドベント)」の期間を過ごしていますが、今日は、「マリアの所に天使が訪れた」というお話に耳を傾けてみたいと思います。

 聖書には、こんなお話が記されております。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」。(ルカ1:26-27)

 最初に「六か月目に」とありますが、これはザカリヤの妻エリサベトが妊娠したという出来事から「六か月目」ということであります。ガブリエルという天使が、今度はナザレというガリラヤの町に神様から遣わされました。そして、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ、マリアの所へやって来た。「ダビデ家のヨセフ」。それは、ヨセフが、旧約聖書に出てくるダビデ王の血筋を受け継ぐ者であるという意味ですが、聖書では、ほかに「ヨセフは大工であった」ということも記されております。

 で、このヨセフは、「いいなずけ」とありますから、マリアと婚約していた訳ですけれども、でも問題は、ヨセフではありません。今日の所はマリアであります。ヨセフのいいなずけであったマリアの所に、天使ガブリエルがやって来る訳であります。そして、天使は、マリアに、こんなことを言ったと言うのであります。

 「おめでとう、恵まれた方。主が(神様が)あなたと共におられる。」

 突然、こんなことを言われたらどうでしょうか。誰だってビックリするのではないでしょうか。「おめでとう、恵まれた方。主が(神様が)あなたと共におられる」。確かに、うれしい知らせ、喜ばしい知らせには違いない訳ですが、突然こんなことを言われたら誰だって戸惑うのではないかと思います。マリアも、何が何だかさっぱり分からず「戸惑った」とあります。そして、この挨拶は一体何のことなのかと考え込んでしまった。

 そうしますと、天使ガブリエルは、このように言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 これは、いわゆる「受胎告知」と言われている天使の言葉ですが、まだ結婚もしていないマリアですから、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは(まだ)男の人を知りませんのに」と、こう答えます。

 まあ、突然こんなこと言われたって、「身ごもって男の子を産む」なんて言われたって困りますよね。神様から恵みをいただくのは有り難いことけれども、でも、突然「男の子を産む」なんて言われたって誰だって困ってしまう。だから、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答える訳であります。

 そうしますと、ガブリエルは、このように言いました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。そして、エリサベトのことを取り上げ、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と、こう語る訳であります。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。云々」という言葉。これは、よく「処女降誕」ということを語っている言葉だなんてことも言われる訳ですが、ここで語られているのは、神様の力、聖霊の働きによってイエス様が生まれるということであります。

 神様は、無から有を生み出すお方であります。「光あれ」と言われると「光が生まれる」。天地創造のお話にありますように、何もない所から、すべてのものが造られて行くのであります。聖書の神様は天地の造り主、すべてのものの創造者であります。その神様の力、聖霊の力が、今マリヤにも働いて、神の独り子イエス様が生まれるというのであります。

 ですから、処女降誕どうのこうのという問題ではないのだろうと思うのでありますね。神様の力が働く時、人間には不可能と思えるようなことも現実として起こる。ですから、ガブリエルも言うのであります。「神にできないことは何一つない」。正に、神様に出来ないことは何一つない。だからこそ、神様は「全知全能の神」と、こう呼ばれるのではないでしょうか。

 とにかく、マリアは、ガブリエルから、「あなたは男の赤ちゃんを産む。そして、その子にイエスと名付けなさい」と言われる訳であります。生まれる前から、名前が決まっている。ウチの息子も生まれる前から名前が決まっておりましたけれども、イエス様の場合は、神様によって決められていた名前であります。

 だからと言って「イエス」という名前、そんなに変わった名前という訳ではありません。当時どこにでもあった普通の名前であります。「イエス」という名前は、旧約聖書に出てくる「ヨシュア」という人物、それをギリシア語に音写したものでありまして、ユダヤ人の間ではごく普通に用いられていた名前でありました。意味は「主は救い、神様は救い」という、そういう意味の言葉であります。

 とにかく、名付け親が神様、そして、このイエスは、「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。「いと高き方の子」というのは、要するに、「神様の子」ということでありますね。イエス様は「神の独り子」なのであります。

 それだけではありません。「神である主は、彼に(イエス様に)父ダビデの王座をくださる」というのであります。父ダビデの王座、それはあのダビデのような支配権が与えられるということでありましょう。ダビデは、イスラエルの国を一つにまとめ、初めて一つの統一国家を築きあげた人物であります。そのようなダビデの王座をくださるというのですから、これは大変なことであります。

 でも、それだけではありません。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」とあります。「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。「ヤコブの家」というのは、イスラエル民族のこと。要するに、イエス様は、神様が選ばれた神の民イスラエルを永遠に治めるというのであります。

 ダビデは、統一国家を樹立し、国を治めましたが、それはおよそ40年間でありました。ダビデが王様だったのは、およそ40年間。しかし、イエス様は、イエス様の国を永遠に治める。イエス様の国は永遠に続いていくというんでありますね。

 でも、急にこんなこと言われたって、どうしたらいいのでしょうか。マリアはますます戸惑ったと思うのでありますね。でも、マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の言葉を聞いた時、とにかく、それを、素直に受け入れようと致しました。そして、このように答えるのであります。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。

 マリアは女の人ですから、「主のはしため(召使いの女・下働きをする女)」という言葉を使いましたけれども、これは、今の言葉で言えば、神様に従順に仕える者という意味であります。神様の言われることならば何でも素直に、従順に従う。それが「主のはしため」という意味なんだろうと思います。マリアは、自分ではよく分からなくても、理解できなくても、神様に仕える者、神様に従う者だから、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、こう答えたのだろうと思います。

 「お言葉どおり、この身に成りますように」。

 まだ結婚もしていないのに、男の子を産むなんて言われても、それをどのように理解していいのか、マリアには分からなかったと思います。しかも、その子の名前は「イエス」といい、「いと高き方(神)の子」であり、永遠にイスラエルを支配するという。これをどのように理解したらいいのか、マリアには何が何だかさっぱり分からなかった。しかし、神様が言われることなんだからと、その言葉を素直に受けとめようとしたマリア。このマリアの態度というものは、私たちに、とても大切なことを教えているのではないでしょうか。

 神様のなされること、私たちに理解できないこと、いっぱいあります。その時は何が何だかさっぱり分からない。でも、あとになってみれば、それがどのような意味を持っていたのかということが分かってくる、そういうことは沢山ある。

 山の上に大きな箱舟を作れと言われたノア。なぜ山の上に舟なんか作るのか。理解できたでしょうか。
やっと与えられた一人息子のイサクを「神様にささげよ」と言われたアブラハム。なぜ神様はそんなことを命じられるのか。年をとって、もう子供なんか出来ないと考えられていた夫婦にやっと与えられた子供です。しかも、神様はその子供から多くの子孫が与えられるなんて約束もしてくださっている。その子供を殺して神様にささげるなんて、これをどう理解したらいいのか。アブラハムには理解できなかったと思います。でも、あとになってみると、そこに大切な意味があったということが分かってくるんでありますね。

 その時は分からなくても、あとになって考えてみると、分からなかったことも分かってくる。そういうこと、いっぱいあるのではないでしょうか。イエス様の十字架だってそうであります。なぜ神の子であるイエス様が十字架に付けられて殺されなければならなかったのか。弟子たちだって分からなかった。いくら言葉で言われても分からない時は分からないのであります。しかし、それが分かるようになる時も与えられる。その「時」を待つのも、また必要なことではないでしょうか。

 いずれにせよ、マリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったという、この言葉。これはとても大切な言葉であります。「お言葉どおりに」。それは神様のご計画に従順に従うということであります。神様に全てを委ねるということであります。神様の言われることに対して、文句なんか言わない。そのときはよく分からなくても、「神様の言われることなんだから」ということで素直に従う。そういう従順さ、謙虚さ。これは信仰者にとって、とても大切なことではないでしょうか。

 そう言えば、イエス様も、あのゲッセマネで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りながらも、最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。イエス様も、神様の御心、神様のご計画に「従順に従う」と言われたのであります。私たちも、このような「従順さ」というものを持ちたいと思います。神様の御言葉に対して、「お言葉どおりに」「御心のままに」と言える、そういう従順さを大切にして行ければと思います。

 ところで、「お言葉どおりに」「御心のままに」なんて言いますと、時々へんな屁理屈を言う人もいます。例えば、「神は全知全能で何でも出来るのだったら、「お言葉どおりに」「御心のままに」なんて言おうが言うまいが関係ない。結局、神が何でもやってくれるのだろうから、俺たちには関係ない」。そんな屁理屈を言う人もいます。

 面白い理屈ですが、その人は大切なことを忘れています。神様は、天地を造り、すべてのものを造られ、それを私たち人間に委ねられました。私たちには、この世を、神様の御心にかなうような仕方で管理していく「義務と責任がある」ということであります。そのことを忘れている。

 全知全能の神が何でもしてくれる。だから、神様に丸投げ。でも、現実は、そういうこではないのだろうと思います。例えば、主の祈りの中に「御国をきたらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」というお祈りがあります。神様の御心がこの地でも行われることを、私たちは願っておりますが、神様の御心がなるためには、その神様の御心に従う人たちも、また必要なのではないでしょうか。

 「神様は全知全能なんだから、何でもかんでもやってくれる。だから、私は知らない」ということではないのであります。たとえ、神様が全知全能であっても、神様の御心を行う人たちがいてこそ、神様のご計画というものは進んでいくのであります。そして、そのために用いられるのが、私たちなのであります。

 「お言葉どおりに」「御心のままに」というのは、ただ単に「全知全能の神様に丸投げする」ということではありません。神様のご計画に自らも参与し、その神様のご計画に従順に従うということであります。

 マリアのように、「お言葉どおり、この身に成りますように」。イエス様のように、「わたしの願いどおりではなく、御心のままになさってください」という、自分との関わりの中で、「お言葉どおりに」「御心のままに」と言える、そんな信仰をもって、これからも歩んで行ければと思います。
 

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