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説教 「その日を待ち望む」 
               (イザヤ 11:1-10)      2014/11/30

 今日から、アドベントに入ります。教会では、アドベントといいますと、「待降節」と訳されますが、アドベントというのは、週報にも記してありますように、ラテン語の「アドウェントゥス(adventus)」: ラテン語の辞書には、approach, arrival,visit,等の言葉が挙げられております。要するに、「近づいてくるとか、到着する、来る、訪問する」という、そういう意味の言葉であります。

 私たちの教会では、①この世にイエス様がやって来られたという出来事(クリスマスの出来事)を待つ。それから、②イエス様が再びこの世にやって来られるという(イエス様の再臨という出来事)を待つ。そして、もう一つは、③いつでもイエス様が私たちの心の中にやって来てくださる(いつも神様が共にいてくださるというインマヌエルの出来事、それを待つという)、そういう三つのことを覚えて、アドベントを守っている訳であります。(神の子イエスさまの誕生・クリスマスを待つことだけがアドベントではない)

 ところで、アドベントは、今申し上げました3つの意味でイエス様がやって来る、そのことを、その日を待ち望む期間ですが、先程、お読み頂きましたイザヤ書のところは、「その日が来る」、メシア・救い主が与えられるという、そういう預言が語られているところであります。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。(それは)知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。(そして彼は)目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。(むしろ彼は)弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。(そして)その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。(彼は)正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯び(ているから)」と、こんなふうに語られております。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育って来る」。「エッサイの株」、あるいは「エッサイの根」。エッサイというのは、ベツレヘムで羊飼いをしていた人であります。そのエッサイから、「ひとつの芽」「ひとつの若枝が育って来る」。それは、エッサイの子孫から救い主・メシアが現れるという預言であります。

 エッサイには、ダビデという子供がおりまして、そのダビデは、のちにイスラエルの王様になりました。しかも、そのダビデは、ユダヤ人ならば誰もが知っている有名な王様。イスラエルの国を統一し、イスラエル建国の父となった人物であります。そのダビデも「油を注がれ」、メシア・救い主と呼ばれました。しかし、ここで言われている「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育って来る」と言われている人物、それはダビデのことではありません。ダビデは、もう既に過去の人物なのであります。ですから、イザヤがここで預言しているメシア・救い主、それはイエス様のことなんでありますね。そして、この預言の通り、イエス様は、今から2000年近く前に、この世に来られた訳であります。

 ところで、先程のイザヤの預言。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育って来る」と言われている訳ですけれども、イザヤは、続けて「その(人の)上に主の霊がとどまる」と言っております。「主の霊がとどまる」。それは、神様の霊が、その人に注がれ、その人にとどまり、その人が神様の御心を行う人になるということであります。

 イエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天から神の霊、主の霊が鳩のように降って来て、「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と言う声が聞こえて来た」というお話は有名ですけれども(マタイ3:17)、イエス様には、確かに主の霊が降(くだ)ったのであります。そして主の霊がとどまっておられた。

 イエス様は、神様のこと、また神の国について語り、病人をもいやされました。悪霊に取り憑かれていた人をいやされた時には、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国は(すでに)あなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)ともおっしゃいました。イエス様の上に、確かに、主の霊、神様の霊がとどまっておられたのであります。

 ところで、イザヤの預言では、この主の霊、神様の霊のことを、もっと細かく説明して、このようにも語っております。それは、「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」と言うのであります。

 「知恵と識別の霊」。これは、ソロモンが求めた「聞き分ける心」と言ってもいいかも知れません。ダビデの子のソロモンは、神様から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(列王上3:5)と言われたとき、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」(列王上3:9)と言いました。そして、神様から「訴えを正しく聞き分ける知恵」「知恵に満ちた賢明な心」をいただきました。真実を見抜き、適切な判断を下す。これは神様から与えられる賜物と言っていいと思います。

 私たちは、見かけで物事を判断してしまう、そういうことが多い訳ですけれども、イエス様は、いつも本質を見抜き、正しい判断をなさいました。例えば、一人の貧しいやもめが、レプトン銅貨2枚、200円位を献金したとき、イエス様は、こんなことを言われました。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:43-44)。

 大勢の金持ちは、沢山献金したのであります。何万円も何十万円も献金した。しかし、貧しいやもめは200円しか献金出来なかった。見かけはわずかなのであります。しかし、イエス様は、この貧しいやもめは、誰よりも沢山献金したと言うのであります。なぜならば、この人は、自分の持っている物をすべて、生活費を全部献金したからだと言う。イエス様は、見かけだけで判断しないのであります。いつも本質を見抜き、正しい判断をされた。これは「知恵と識別の霊」のなせるわざとは言えないでしょうか。

 それから、「思慮と勇気の霊」とありますが、「思慮と勇気の霊」というのは、注解書なんかには、「政治や軍事を指導する力」なんて書いてありますが、イエス様は、政治や軍事には一切関心を持っておりませんでした。むしろ、イエス様は、「私の国は、この世のものではない」(ヨハネ18:36)と語られ、政治的なメシアであることを否定されました。イエス様は政治や軍事について、人々を指導しようとはされませんでしたし、また、指導しようという意志もなかったようであります。それでは、「思慮と勇気の霊」。これをイエス様に当てはめて見ると、どんなふうになるのでしょうか。

 例えば、あのゲッセマネでのイエス様の祈りを取り上げてもいいかも知れません。イエス様は、ご自身がいよいよ十字架につけられる、その時が迫って来たことを知って、こんなふうに祈られました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままになさってください」。あるいは、「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(マタイ26:39、42)と、こんなふうに祈られました。そしてイエス様を捕まえに来た人たちを見て、「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。さあ、行こう」と言って、堂々と十字架に立ち向かって行ったのであります。(マタイ26:45-46)

 十字架につけられて殺されなければならない。誰だって悩み苦しむと思うのであります。イエス様も悩み苦しんだ。「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈った。でも、イエス様は、そんな中で、熟慮に熟慮を重ね、そして思慮をもって、十字架の道を選び取って行きました。それは勇気ある行動と言ってもいいと思います。私たちなんかには、そう簡単には出来ない。でも、イエス様には「思慮と勇気の霊」が与えられていたのであります。ですから、悩みながらも、苦しみながらも、十字架の道を受け入れることが出来たのであります。確かに、イエス様には「思慮と勇気の霊」がとどまっていた。そんなふうに言えるのではないでしょうか。

 それでは、次ですが、「主を知り、畏れ敬う霊」という言葉が出てまいります。箴言の1章7節の所には、「主を畏れることは知恵の初めである」という有名な言葉がありますけれども(他に、詩編111:10、箴言9:10)、「主を知り、(主を)畏れ敬う霊」。これは、イエス様が最初から最後まで持ち続けておられたものであります。

 先程の「ゲッセマネの祈り」にもありましたけれども、イエス様ほど神様のことがよく分かっていた人はおりません。人には分からなくても、イエス様には分かっていた。イエス様が十字架につけられなければならない。それは神様の御心でありました。ご計画でありました。使徒言行録の2章23節の所には、「神は、お定めになった計画によって、イエス様を十字架に引き渡された」とありますが、イエス様の十字架、それは神様のご計画だったのでありますね。

 イエス様は、そのことをよくご存知でしたから、悩み苦しみながらも、十字架の道を選ばれたのであります。イエス様は「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで(神様に)従順だった人」(フィリピ2:8)。イエス様ほど、神様のことがよく分かっていた人はいない。また、イエス様ほど、神様を畏れ敬う、そういうご生涯を歩まれた人はいないのであります。「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」。正に、イエス様こそ、主を畏れ敬う霊に満たされていた人。そんなふうに言えるのではないでしょうか。

 ところで、イザヤは、このような「主の霊・神様の霊」に満たされるメシア・救い主は、次のようなことを行う、ということで、3節の途中から、このように語ります。
 彼は「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。(そうではなくて)弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。(また)その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。」
 これは、一言で言えば、メシア・救い主は、正義と真実をもって公平な、そして正当な裁きを行われるという預言と言っていいと思います。そして、イエス様は、このような裁きを行われた人と言ってもいいと思うのであります。

 先程も触れましたけれども、イエス様は、見かけで人を判断しませんでした。また、弱い人や貧しい人を公平に扱いました。先程の「貧しいやもめの献金のお話」の通りであります。そして、御言葉をもって真実を語った。「口の鞭(むち)をもって地を打ち」とか「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」というのは、これは「神様の言葉、御言葉によって」という意味でありましょう。イエス様は、神様の言葉、御言葉によって、真実を語り、神様の御心に反するようなことをしている人には、かなり厳しいことも語ったのであります。例えば、見せかけだけの、あるいは、見かけだけ立派そうに振る舞っている律法学者やファリサイ派の人たちには、こんなふうに語りました。

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。あるいは、「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。

 また、こんなことも言っております。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」。あるいは、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」。そして極めつけ、最後には、こんな言葉も語られました。「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」。これは、正に「逆らう者を死に至らせる」ような言葉、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 イエス様は、正義を行い、真実を語られたお方なのであります。彼は「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」。イエス様こそ、このような人だったと言えるのではないでしょうか。

 ところで、救い主・メシアが来られる「その日」、こんなふうになるということも語られております。今日の聖書の6節以下。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」

 これは、一言で言えば、「愛と平和に満ちた世界、理想的な世界がやって来る」という預言であります。救い主・メシアが来られる、その時は、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」。みんなが仲良くなるというのであります。今は、狼が小羊を狙っているような、そんな時代かも知れません。振り込めサギとか、子羊が狙われている時代。しかし、その時が来れば、みんなが仲良くなれる。

 また、「牛も熊も共に草をはみ」、「獅子も牛もひとしく干し草を食らう」。それは単に、肉食獣が草食獣に変わるということではなくて、人間の堕落以前の状態がやって来るということであります。神様が造られた世界。それは「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」(創世記1:30)という世界でした。要するに、ここで語られている世界というのは、神様が創造された愛と平和に満ちた世界。理想的な世界がもう一度与えられるという、そういう預言なのであります。救い主・メシアが来られる、その時、神様が創造された愛と平和に満ちた世界、神の国が再び与えられる。イザヤは、そういうイメージで救い主・メシアの誕生を預言しているのであります。

 確かに、イエス様が来られたあとも、何度も何度も繰り返し戦争が起こり、「愛と平和に満ちた世界」は未だ実現されておりません。そういう意味では、イエス様の再臨を待たなければなりませんけれども、見方によっては、イエス様以後、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから」(ガラテヤ3:28)という、そういう現実もまた与えられている訳であります。教会の中に既にその芽が出ている、生まれているのではないでしょうか。ですから、私たちはそれを大きく育てて行ければと思います。

 「愛と平和に満ちた世界」「神の国」。それが最終的に完成するのはイエス様の再臨の時かも知れません。でも、イエス様によって、その芽が既に出ている、教会の中に既にその芽が出ている、生まれているのであります。ですから、私たちは希望をもって歩んで行ければと思います。

 いずれにせよ、今日のイザヤ書の所は、救い主・メシアがやって来る。「その日」が与えられるという預言が記されている所であります。そして、この預言の言葉を信じ、人々は長い間、救い主の誕生を待ち望んでいたのであります。そして、イザヤの時代から700年余りが過ぎて、イエス様がお生まれになりました。苦しい毎日、まるで暗闇の中を歩くような毎日を送っていた人々にとっては、イエス様の誕生は、本当に大きな喜びに変わりました。

 私たちも、今はしんどい、大変だということもあるかも知れません。でも、イエス様が私たちの心の中に来てくださり、苦しみや悲しみを喜びに変えてくださることを信じて、このアドベントの時を過ごして行ければと思います。

 「その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。

 救い主・イエス様の誕生、そして再臨。また、イエス様が私たちの心の中にやって来てくださるという、この三つのことを覚え、また、この世の中が愛と平和に満ち、みんなが仲良く生活できる、そういう日が一日も早く来るように、これからも「御国をきたらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」と、みんなで祈りながら、その日を待ち望みたいと思います。
 

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