前回は、イエス様がバプテスマを受けられたあと、悪魔から誘惑を受け、イエス様が神の子であることを証明されたという、そういうお話を取り上げました。そのあと、イエス様はどうなさったのか。詳しいことは分かりませんが、聖書によれば、洗礼者ヨハネが捕まったあと、宣教活動を始めて行かれたということのようであります。
先程お読みいただいた所には、このようにあります。マルコ福音書1章14節以下
「ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(マルコ1:14-15)
このとき、イエス様は、「およそ30歳くらい」ということが、ルカ福音書に記されておりますが(ルカ3:23)、それでは、30歳までイエス様は何をしておられたのでしょうか。父親のヨセフの仕事を手伝っていた。「この人は、大工ではないか」(マルコ6:3)なんて言葉もありますから、イエス様は、大工さんの仕事をしておられた。また、洗礼者ヨハネのような禁欲生活をし、修行をしておられた。イエス様は、悪魔の誘惑を受ける前、「40日間、昼も夜も断食をされた」(マタイ4:2)なんてありますから、厳しい修行をしておられた。まあ、いろいろ推測することは出来ると思います。
でも、いつも申し上げておりますが、推測は推測でありまして、そういうことにあまりこだわる必要はないと思います。小さなことにこだわり過ぎると、大きなこと、大切なことが見えなくなってくる。そういうこともありますから、私たちは、本筋というものを大切にし、イエス様が語られた言葉に注目してみたいと思います。
ということで、今日は、イエス様の宣教活動についてですが、今日の所には、イエス様は、「神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」とあります(マルコ1:14-15)。マタイ福音書には、「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた」とあります(マタイ4:17)。「そのときから」というのは、先程も申しましたが、「イエス様に洗礼を授けた、あの洗礼者ヨハネが捕まったということを聞いたときから」ということであります。
いずれにせよ、イエス様は、公に宣教活動を開始するのであります。そして、その第一声が、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、この言葉。マタイでは「悔い改めよ。天の国は近づいた」とありますが、「天の国」も「神の国」も意味していることは同じであります。ちなみに、前の聖書では、「天の国」は「天国」と訳されておりました。
イエス様は、「天の国、天国、神の国が近づいた」と語り出したのであります。「天の国・神の国」、それは、「場所や領土の意味ではなく,神が王として恵みと力とをもって支配されること」なんて、聖書のうしろの「用語解説」には記されております。
「場所や領土の意味ではない」。イエス様は、「(神の国)というのは、 『ここにある』あるいは『あそこにある』と言えるようなものではない」と言っておられます。まさに「場所や領土の意味ではない」ということであります。
そうではなくて、神の国というのは「実に、あなた方の間にあるのだ」と言われました(ルカ17:21)。「あなた方の間」、前の聖書では「実にあなた方のただ中にある」と訳しておりました。
この言葉は、私たちが、心の中に神の国というものを思い浮かべれば、そこに「神の国がある」。要するに、心の持ちようで「ここに神の国がある」というような、そういう意味合いで受け止められることもあります。お亡くなりになった方でも、心の中にその方が今も生きている、そういう受け止め方であります。
でも、イエス様が言っているのは、もっと具体的な神の国であります。ただ心の中にあるもの、私たちが心に思い浮かべれば、そこにあるという、そういう精神的なもの、あるいは、観念的なものではなくて、もっと具体的なもの。先程の「用語解説」には「神が王として恵みと力とをもって支配されること」とありますが、神様の具体的な支配があるところに神の国はあるのであります。
神様の支配。それは、言い換えれば、神様の力を知り、神様の恵みを覚え、神様に従って実際に生きて行く、要するに、神様の支配を受け入れる、そういう人がいて、はじめて成り立つものであります。神様が「私が王だ。私の支配に従え」と、いくら言ったって、それに従う人が実際にいなければ、神の支配なんて言ったって何の意味もありません。
ですから、「神の国は、あなたがたの間にある。あなたがたのただ中にある」というのは、ただ単に「そう思えばそこにある。心の中で、そう信じれば、そこにある」というような、そういうものではないのであります。
むしろ、実際に、神様の力を知り、神様の恵みを覚え、神様に従って生きて行くという、そういう人たちが実際にいる世界。そういう人たちがいてはじめて成り立つ世界、それが神の国であります。要するに、非常に具体的なものと言っていいと思います。
で、このような神の国ですが、それは、実は、あの創世記で語られている「エデンの園」のことなんだろうと思うのであります。神様は、天地を創造され、私たち人間をも造られ、全てを治めようとされました。神様が神様として認められ、すべてのものが仲良く暮らすことが出来る世界。愛と喜びに満ちた世界。みんなが幸せに暮らすことが出来る世界。神様は「神の国」をこの世に造ろうとされたのではないでしょうか。
でも、その神の国、エデンの園は失われてしまいました。このことについては、もう何度もお話しておりますから、今日は省略しますけれども、その失われていた「神の国」が、今、再びやって来た、近づいて来た。それが、先程のイエス様の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、この言葉なんだろうと思います。
「時は満ち、神の国は近づいた」。そう、イエス様と共に神の国は近づいたのであります。イエス様と共に神の国がやって来たのであります。神の独り子が、この世に来られ、そして、神様の御心が示され、神様・イエス様を受け入れるならば、誰でも神の国に招き入れられる。だから、悔い改めて、神様に目を向けなさい。神様のところに帰りなさい。神様の御心を行う者になりなさいと、イエス様は教えられたのではないでしょうか。
聖書をお読みいただければ、よく分かりますが、イエス様は、いつも、神の国についてのお話をされました。あの山上の説教の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国(神の国)はその人たちのものである」(マタイ5:3)から始まって、あの「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ6:31)という所では、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と、「何よりもまず、神の国と神の義を求めること」から始めなさいと教えられました。
また、イエス様は、神の国について、いろんな「たとえ話」も語り、神の国の不思議にも触れています。例えば、神の国は「成長する種」のようなもので、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4:26-27)なんて語ったり、また、神の国は「からし種」や「パン種」のように、大きく成長していくものである(ルカ13:18-21)とも教えておられます。
また、神の国というものが、いかに貴重なもの、大切なものであるかということでは、こんなたとえも語っています。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
また、こんなふうにもたとえられるということで、「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46) 要するに、神の国というのは、何ものにも代え難い貴重なもの、大切なものだという「たとえ」話であります。
それから、このような神の国ですが、神の国に入るのには、条件があるということで、イエス様は、こんなお話もされています。例えば、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18:17)
子供のように、素直に神の国を受け入れることが大切だというのであります。
あるいは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国(神の国)に入るわけではない。わたしの天の父(神様)の御心を行う者だけが(神の国に)入るのである」(マタイ7:21)ということで、神様の御心を行うことの大切さも教えられました。
また、「天の国(神の国)は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(マタイ22:2f.) ということで、イエス様はこんなお話もされています。
王様は、王子の婚宴の用意が出来たので招いた人を呼びにやる訳ですが、みんないろいろな言い訳をして誰も来ない。仕方ないので、王様は「見かけた者はだれでも連れて来なさい」と言って、人を集める。でも、婚礼の礼服を着ていない者もいて、その人は婚宴の席から放り出される。そして、イエス様は、最後に、このように語られました。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:14)
このお話は、天の国・神の国に招かれる人は多いけれども、選ばれる人は少ない。もう少し言うならば、神の国には、すべての人が招かれている。でも、神の国にふさわしい人と言うのでしょうか、選ばれる人は少ないという、そういうお話でもあります。
そう言えば、イエス様は、こんなことも言っておられます。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ19:24)
これは、イエス様特有の誇大表現ですけれども、イエス様が語りたかったのは、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門(永遠の命に至る門・神の国への門)はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13-14)
ということではないでしょうか。
いずれにせよ、イエス様は、人々に「時は満ち、神の国は近づいた」と知らせ、神の国のことを語ったのであります。イエス様が語られた福音。それは、神の国が近づいて来た、イエス様と共に神の国がやって来たという「神の国の福音」であります。ですから、イエス様は神の国について語ったのであります。教えたのであります。
イエス様がこの世に来られた理由。この世に遣わされた理由。それは、「神の国の福音」を告げ知らせるためであります。ルカ福音書の4章43節には、最初ガリラヤ地方で宣教活動をされていたイエス様ですが、こんなことを言っております。
「(私は)ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」。イエス様が神様からこの世に遣わされたのは、神の国の福音を告げ知らせるためだったのでありますね。
確かに、イエス様の教えの大半は、神の国の教えであります。あの『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』 また、『隣人を自分のように愛しなさい』という、あの神様を愛すること、そして隣人を愛するという教えだって、実は、神の国というものは、こういうものだと教えておられる言葉とは言えないでしょうか。
神の国は、神様も勿論私たちを愛してくださいますけれども、同時に、私たちも神様を愛する世界であります。そして、隣り人同士、みんながお互いに愛し合う世界。神を愛し、隣人を愛する世界。それが神の国なんだろうと思います。ですから、聖書に記されているイエス様の教えを、「神の国の福音」という視点から読み直してみると、非常によく理解できるのではないでしょうか。
ところで、イエス様は神の国を口で教えられただけではありません。その行動というのでしょうか、その業(わざ)、働きによっても、神の国が近づいて来ていることを証しされました。目の見えない人の目を見えるようにされたり、重い皮膚病の人をいやしたり、また悪霊をも追い出したりして、神の国がやって来たことを示しました。あの「ベルゼブル論争」の所では、イエス様は「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」なんてことも言っておられます。これは、マタイ福音書12章28節にある言葉であります。
いずれにせよ、イエス様は、神様のことを教え、神の国のことを語り、そして、神の国に生きる「あるべき人間の姿」を、ご自身の歩みを通して、私たちに教えられました。イエス様が私たちの模範であるというお話を今まで何度もしてまいりましたが、それは、神の国における人間のあるべき姿を、イエス様が実際に私たちに示してくださったからであります。
話が少し飛ぶかも知れませんが、イエス様は、あの十字架の最後に至るまで神様の御旨に従順に歩まれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と、神様から見捨てられるという、その絶望のどん底にありながらも、それでも「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのがイエス様であります。イエス様は、最後の最後まで、神様に従おうとされたのであります。それは、まさに神の国に生きる「人間のあるべき姿」と言ってもいいと思います。
先程、神の国というのは、神様の支配を受け入れる、そういう人がいて、はじめて成り立つ世界であるというお話をしました。神様の力を知り、神様の恵みを覚え、神様に従って実際に生きて行く、そういう人たちがいるところ、そこに神の国はあるのであります。その神の国に生きる人間の姿、それがイエス様なのであります。
イエス様が「まことの人」いう意味は、私たちと同じ人間になったということだけではなくて、私たちに「本当の人間のあるべき姿を示してくださった」という、そういう意味でも「まことの人」なのであります。
いずれにせよ、「神の国が近づいた」と言って宣教されたのがイエス様であります。イエス様は、神様が神様としてみんなにあがめられ、みんなが神様の願われるような、そういう生き方をし、みんなが喜びと感謝に満たされる。すべてのものが、みんなが、仲良く平和に、そして幸せに暮らすことができる、そういう世界を、神の国を、私たちに教えてくださったのであります。
神の国は、神様がご支配なさる国であります。神様の御心、神様の願いが行われる国であります。しかも、人間はロボットとしてではなく、また強制されてでもなく、喜んで神様の御心を行っていくのであります。神様は、そういうエデンの園を造ろうとされたのであります。その神の国・エデンの園が、今、イエス様と共にやって来た。これこそまさに「福音」(喜ばしい知らせ)と言えるのではないでしょうか。
今日は、神の国についてお話させていただきました。神の国・天の国・天国というものは、決して観念的なものではありません。ただ心の中で信じれば、そこにあるという、そういうものでもありません。そうではなくて、非常に具体的なもの、私たちの生き方そのものに係る非常に具体的なものであります。
イエス様は、私たちに「神の国がやって来たのだから、悔い改めて、神様に目を向けなさい。神様のところに帰りなさい。神様の御心を行う者になりなさい」と、勧めておられます。私たちは、神の国へと招かれているのであります。謙遜になり、また素直な気持ちで神の国への第一歩を歩み出して行きたいと思います。
最後に、唐突かも知れませんが、神の国というのは「こんなもの」というお話を紹介して、今日のお話を終わりたいと思います。「天国と地獄」というお話であります。
先ず、地獄での食事の様子。地獄にも食事の時間があるようで、食堂のテーブルの上には、沢山の美味しそうなお料理が並べられていたといいます。で、食事の時間になると、地獄にいる人間たちが、食堂に続々と入って来る訳ですが、でも、彼らはいつも不平不満ばかりで愚痴をこぼしている。その性格が滲み出ているのか、顔まで嫌な顔。体はまるで餓鬼のように骨と皮だけ。それに、やせ細った手と足。また、ぽっくりと膨らんだお腹をしている。
さて、みんなテーブルを囲んで席に着きました。テーブルの上には、長い長いお箸がおいてあります。手で食事をすることが禁じられているので、その長い長いお箸を使って食事をしなければなりません。で、彼らは必死にその長いお箸でご馳走を食べようとするのですが、お箸が長すぎて、自分の口に食べ物が入りません。結局、何も食べることができず、彼らは、空腹のまま、また、愚痴をこぼしながら食堂を出て行ったというのであります。
一方、天国の食堂はというと、テーブルには、地獄の食堂と同じように、やはりおいしそうなお料理が沢山並んでいる。でも、天国にいる人たちは、いつもニコニコ、幸せそうな顔をしているのだそうであります。で、食事の時間が始まると、彼らはテーブルを挟(はさ)んで座り、地獄にいる人たちと同じように長い長いお箸を使って食べ始めました。
天国でも手で食べることは禁じられていたので、長い箸で食べなければならない。でも、天国にいる人たちは、みんな楽しそうに食事をしていました。どうしてなのでしょうか。実は、天国にいる人たちは、その長いお箸を使って、自分の向かい側に座っている人に、料理を食べさせていたというのであります。そのため、みんな楽しく、おいしく食事をすることが出来た。そして、天国にいる人たちは、満足そうに食堂をあとにしたという、こういうお話であります。
このお話は、有名なお話ですが、勿論、聖書のお話ではありません。でも、こういうお話の方が面白いということで、よく教会なんかでも時々取り上げられます。
で、ここで語られている事というのは、自分勝手で、自分のことしか考えない人は、結局、食べるものも食べられない。そしてますます醜くなっていく。そういう世界が「地獄」であり、「天国」というのは、相手のこと、隣り人のことを考え、みんなが幸せになっていく。そういう世界が「天国」ということでありますが、聖書の教える神の国と共通していること、いっぱいあるのではないでしょうか。
イエス様は、先程も取り上げましたけれども、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」と教えられました。また、フィリピの信徒への手紙2章4節には、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」なんて言葉もあります。天国、神の国というのは、こういう世界なんだろうと思います。長い長い箸が与えられても、文句を言わない。むしろ、それを感謝し、喜んで、そして、それを人のために用いて行く。そのとき、みんなが幸せになれる。それが神の国・天国。そんなふうにも言えるのかも知れません。
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